物語序章 第一版 210章
異変
流氷がさらに厚みを増し、
砕氷音だけが世界を満たしていた、その時だった。
艦内通信が入る。
「水測室より艦橋へ」
少し間を置いて、
緊張を含んだ声が続く。
「ソーナーで奇妙な音を探知しました」
艦橋の空気が変わる。
「氷床の崩壊音か?」
艦長が即座に問い返す。
「それとは違います。
断続的です。
規則性があります」
水測室では、
ヘッドフォンを付けた水測員が
画面と音に集中していた。
ゴン……ゴン……
一定ではないが、
明らかに人工的な音。
しかも——
「距離、縮まっています」
誰かが唾を飲み込む音がした。
⸻
接近音
ソーナー画面上の反応は弱い。
だが、確実に存在している。
「方位ヒトハチマル。
深度、浅い」
艦橋では即座に指示が飛ぶ。
「砕氷を一時停止。
推進出力を落とせ」
しらせは氷に押し付けられたまま、
静止状態に入る。
その瞬間、
音はよりはっきりと聞こえた。
……ゴン、……ゴン、……ゴン
不規則だが、
意志を持ったような音。
研究員の一人が言った。
「生物……?」
しかし、
北極海の生物が出す音とは明らかに違う。
金属音に近い。
⸻
艦長は短く命じた。
「司令部に即時報告。
水測員は記録を送信」
通信士が回線を開く。
「こちら観測船しらせ。
北極海北進中。
不明音源を探知。
接近中」
返信はすぐには来ない。
氷に囲まれた静寂の中、
艦内の全員が、
その音に耳を澄ませていた。
断続的な音は、
確実に近づいてきていた。
⸻
北極は、
ただの無人の海ではなかった。
氷下の護衛
断続的だった音は、
いつしか明確な「存在感」を持ちはじめていた。
しらせは完全に停止した。
推進器の音が消え、
氷がきしむ音だけが残る。
その直後だった。
艦尾方向、
流氷の隙間から――
黒色の巨大な塊が、浮かび上がってきた。
艦橋の誰もが息を呑む。
氷を押し分け、
水面を割って現れたそれは、
滑らかな曲面を持つ鋼鉄の塊だった。
黒く、艶のない船体。
余計な突起は一切ない。
潜水艦だった。
⸻
浮上
バラスト調整音が低く響き、
艦橋の真後ろ、ほとんど触れそうな距離で完全浮上する。
潜水艦のハッチが開き、
冷気とともに人影が現れた。
防寒服に身を包んだ士官が、
慣れた動作で艦橋を見上げる。
同時に、
無線室から声が飛んだ。
「艦長、無線です。
応答を要求しています」
艦長は一瞬だけ潜水艦を見つめ、
短く命じた。
「回線を開け」
⸻
交信
ノイズ混じりの回線が開く。
先に口を開いたのは、
しらせの艦長だった。
「こちら、日本海軍観測船しらせ。
貴艦の所属を明言せよ」
一拍の沈黙。
そして、
どこか余裕を含んだ声が返ってきた。
「こちら、日本海軍
第一潜水艦艦隊・旗艦くろしお」
艦橋に小さなどよめきが走る。
第一潜水艦艦隊。
日本海軍でも、
存在自体が秘匿されている部隊。
その声は続いた。
「お久しぶりです、先輩」
その一言で、
艦橋の空気が一変した。
⸻
艦長は即座に問い返す。
「なぜ、ここに?」
くろしおの艦長は、
あくまで淡々と答えた。
「水上艦艇では、
この海域での完全護衛は不可能です」
「流氷、視界不良、
そして――万が一の不測事態」
「よって、
北極点到達まで、
我々が水中から護衛します」
その言葉には、
余計な感情が一切なかった。
だが、
絶対的な自信だけがあった。
⸻
氷の下で
しらせの艦橋から見えるくろしおは、
再び静かに沈み始めていた。
氷の下へ。
人の目の届かない領域へ。
「以後、
定期的に位置と進路を共有してください」
「何かあれば、
こちらから接触します」
それだけを告げると、
通信は切れた。
ソーナー画面には、
しらせの直下を並走する
一つの影が映っている。
確実に、
守られている。
⸻
再び北へ
艦長は深く息を吸い、命じた。
「主機、前進。
北極点へ向かう」
しらせは再び、
氷を砕きながら前へ進み始めた。
だが今度は違う。
見えない場所で、
もう一隻の艦が
同じ場所へ向かって進んでいる。
氷上と、氷下。
二つの艦は、
同じ北を見ていた。




