物語序章 第一版 209章
1652年第1次北極海観測隊
しらせ、北へ
1652年初夏。
東京港は、どこか張りつめた空気に包まれていた。
埠頭に横付けされた赤い船体。
原子力砕氷観測船 しらせ。
⸻
北極海観測隊の編成
この北極海観測隊は、
急ごしらえの部隊ではなかった。
第14回南極調査隊――
その中でも、
•極寒環境の運用経験を持つ者
•観測機器の扱いに熟達した研究者
•長期閉鎖環境に耐えうる精神力を持つ人員
が選抜され、
北極海観測隊として再編成された。
南極と北極。
同じ極地でありながら、
その性質はまるで違う。
南極は「孤立した大陸」。
北極は「海に囲まれた交差点」。
明賢は、この違いを誰よりも理解していた。
⸻
目的
観測隊の目的は明確に2つ。
1.北極海の詳細調査
氷厚、海流、海底地形、生態系。
2.将来的な実効支配の布石
観測拠点、補給地点、航路把握。
これは学術調査であり、
同時に国家戦略だった。
⸻
東京港、出航
朝靄の中、
しらせの舷側に人員が列をなす。
物資は既に積み込まれている。
•観測機器
•耐寒装備
•雪氷調査用ドローン
•非常用の物資
乗艦が完了すると、
甲板は静まり返った。
やがて――
汽笛。
低く、長い音が東京港に響く。
それは、
南へ向かったときと同じ音であり、
しかし意味は違っていた。
⸻
東京湾を出る
しらせは、
ゆっくりと港を離れる。
タグボートに押されながら進み、
やがて自力航行に切り替わる。
東京湾の防波堤が遠ざかり、
海が開ける。
この航海は、
•嵐の海
•流氷の迷路
すべてを含んでいた。
だが艦内は静かだった。
原子炉は安定し、
モーターは低い唸りを上げ、
電子機器は規則正しく脈打つ。
⸻
北へ
しらせは北を目指す。
アリューシャン列島。
ベーリング海。
そして――
氷に閉ざされた北極海へ。
この航海が意味するものを、
その場にいる全員が理解していた。
南極を制した国が、
次に北極へ向かう。
それは偶然ではなく、
必然だった。
しらせの船首は、
まだ見ぬ白い海を静かに切り裂いていった。
北上航路
しらせは日本列島沿いを北へ向かった。
外洋に出ず、陸影を辿る航路である。
これは荒天回避のためでもあり、
同時に、完全に日本の支配下にある海域のみを通過するという
明確な意思表示でもあった。
⸻
千島列島通過
北海道を離れると、
海は次第に重い色へと変わっていく。
千島列島。
霧が濃く、海と空の境界が曖昧になる海域だ。
火山島が連なるこの列島は、
荒々しく、そして無人に近い。
しらせは淡々と島影を左舷に見ながら進む。
既にこの周辺海域は日本海軍の哨戒圏内であり、
無線には定期的に識別信号が流れていた。
艦内では、
•氷温測定
•海水塩分濃度の連続記録
•海流の微細な変化
が蓄積されていく。
南極とは違い、
ここでは海が主役だった。
⸻
カムチャツカ半島北上
千島列島を抜けると、
巨大な陸塊が姿を現す。
カムチャツカ半島。
山脈は雪に覆われ、
噴煙を上げる火山も見える。
この地もまた、
既に日本領として編入されていたが、
人の気配はほとんどない。
しらせは半島沿いを北上する。
この海域では潮流が複雑で、
氷片が混じり始める。
甲板では研究員が防寒具を着込み、
双眼鏡で海面を監視していた。
「南極より、海が生きているな」
誰かが呟いた。
北極は静止した世界ではない。
常に流れ、ぶつかり、動き続ける。
⸻
セントローレンス島
やがて、
水平線に低い陸地が見えた。
セントローレンス島。
ベーリング海に浮かぶ、
戦略的に重要な島である。
ここには既に日本海軍の基地が設置されていた。
しらせはゆっくりと接岸する。
⸻
補給
基地では、
•食料
•予備部品
•通信機材
が迅速に積み込まれた。
原子力船であるため燃料補給は不要だが、
人と機材は補給を必要とする。
短時間の滞在の間にも、
•最新の氷況情報
•気象予測
が共有された。
この先は、
救援が容易ではない。
全員がそれを理解していた。
⸻
再出航、さらに北へ
補給を終え、
しらせは再び出航する。
進路は北。
空は低く、
雲は厚くなっていく。
気温は急激に下がり、
海面には薄い氷膜が現れ始めた。
⸻
ディオミード諸島
やがて、
二つの島が視界に入る。
ディオミード諸島。
小ディオミード島と大ディオミード島。
その間を通るのが、
アジアと北米を分ける境界だった。
しかし今や、
この海峡は完全に日本の管理下にある。
しらせは慎重にその間を進む。
磁気センサーが微妙な乱れを示し、
コンパスの針がわずかに揺れ始める。
⸻
北極海へ
ディオミード諸島を越えた瞬間、
海の様子が変わった。
波は低く、
だが重い。
流氷はまだ疎らだが、
確実に存在感を増している。
艦内放送が静かに流れる。
「こちら観測船しらせ。
北極海に突入した。」
それは簡潔な一文だったが、
その意味は重かった。
⸻
北極海。
南極とは異なる、
もう一つの極限。
ここから先は、
未知と国家戦略が交差する海。
氷の海
北へ進むにつれ、
海は完全に姿を変えた。
流氷は点から面へ、
面から壁へと変わっていく。
しらせは通常航行を止め、
ラミング航行へと移行した。
後進。
主機逆転。
再び前進、全推力。
船体が氷に乗り上げ、
数万トンの質量がゆっくりと氷を砕く。
鈍い衝撃が艦内に伝わり、
床下から低い振動音が響く。
それを、
何度も、何度も繰り返す。
進む距離は、
1時間で数百メートル。
まさに牛歩だった。
⸻
北極点を目指して
それでも、
進路は常に北を指していた。
この時代、
既に初期の軍事衛星が打ち上げられていた。
精度はまだ粗いが、
•短文の衛星通信
•写真による氷況の広域把握
は可能だった。
艦橋では、
「現在位置、北緯〇〇度〇分。
進路良好」
という報告が、
定期的に司令部へ送られる。
司令部からは、
「そのまま北進せよ。」
という、短く淡々とした返信が返ってくる。
この航海は、
英雄的行為ではない。
国家の長期戦略の一つだった。




