物語序章 第一版 204章
内陸へ
静かに、
雪上車のエンジンが始動する。
低い唸りが、
氷原に響いた。
一台、
また一台と動き出し、
長い隊列を組む。
沿岸基地が、
少しずつ遠ざかっていく。
振り返れば、
人類の拠点が
白の中に小さくなっていった。
「次にここを見る時、
俺たちは南極点に立っている」
誰かが、
そう言った。
隊列は止まらない。
南極の内陸――
未知と沈黙の世界へ。
白い大地は、
何も語らず、
ただ彼らを深く迎え入れていた。
白しか存在しない世界
内陸へ進むほど、
風は鋭さを増していった。
吹雪は、
もはや「天候」ではない。
環境そのものだった。
空と地面の境界は消え、
上下左右の感覚すら失われる。
白。
ただ、白。
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完全なホワイトアウト
ある日、
前方を走る雪上車が、
突然停止した。
「視界なし!」
無線が、
緊張した声を運ぶ。
数メートル先すら見えない。
いや、
自分の車両が浮いているのか沈んでいるのかすら分からない。
地平線は消え、
方向感覚は完全に破壊された。
ここで動けば、
隊列は簡単に分断される。
「全車停止。
エンジン回転数維持。
待機だ」
隊長の指示は短く、
迷いがなかった。
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動かないという決断
吹雪の中で進むことは、
勇気ではない。
無謀だ。
雪上車はエンジンをかけたまま、
発電と暖房だけを維持する。
車内では、
誰も多くを語らない。
吹雪が止むか、
人が先に折れるか。
それを、
静かに待つ。
外では、
風雪が車体を叩き、
雪粒が金属を削る音だけが響いていた。
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頼れるものは一つ
この白の世界で、
唯一の指標。
それが――
沿岸基地の電波灯台だった。
沿岸基地の屋上に設置された
電波灯台は、
定期的に指向性信号を発信している。
雪上車の受信機は、
その微かな「方向」を拾い続けていた。
目ではなく、
電波で道を知る。
「信号、確認。
ズレなし」
整備員の声に、
車内の空気がわずかに緩む。
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定期連絡
一定時間ごとに、
内陸調査隊は沿岸基地へ連絡を入れた。
現在位置。
天候。
機材の状態。
人員の体調。
沿岸基地からは、
気象予測と
電波灯台の状態が伝えられる。
この通信が途切れれば、
帰る道は失われる。
誰もが、
それを理解していた。
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再出発
やがて――
吹雪が、
ふっと弱まる瞬間が訪れる。
まるで、
南極が息をついたかのように。
「視界、回復。
前方確認可能」
合図と共に、
雪上車は再び動き出す。
スキッドを引きずり、
ゆっくりと、
だが確実に。
一歩一歩、
人類の足跡を
内陸へ刻んでいく。
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南極点へ
速度は遅い。
だが、
後退はしていない。
電波灯台を頼りに、
定期連絡を重ね、
修正を繰り返しながら――
彼らは、
着実に南極点へ近づいていった。
白しかない世界の中で、
唯一増えていくもの。
それは、
「進んだ距離」だけだった。
白夜の基地
沿岸部の南極基地には、
夜が来なかった。
太陽は沈まず、
地平線の上を、
ただ低く、ゆっくりと滑り続けている。
影は伸び、
だが暗くはならない。
時間は流れているはずなのに、
世界だけが止まったようだった。
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失われる時間感覚
時計を見なければ、
今が何時なのか分からない。
食事を取る時間も、
睡眠を取る時間も、
身体の感覚では判断できなかった。
研究員の一人が、
ぽつりと呟いた。
「……もう三日、寝てない気がする」
それが本当かどうか、
誰にも分からない。
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生活管理
そこで基地司令は、
即座に指示を出した。
「海軍方式を適用する」
それは、
海軍で使われてきた
人工的な昼夜管理だった。
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基地内照明規則
•昼時間帯:白色灯
•夜時間帯:赤色灯
•窓には遮光シェードを下ろす
•研究スケジュールは厳密に時刻管理
赤色灯の時間帯では、
不要な外出は禁止。
身体に、
「今は夜だ」と
無理やり教え込む。
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赤い夜
赤色灯に切り替わった基地内は、
不思議な光景だった。
壁も、
床も、
人の顔さえも、
すべてが赤く染まる。
それは、
軍艦の夜と同じ光。
外では太陽が輝いているのに、
基地の中だけが
静かな夜になる。
その異様な対比が、
この地が人間の居場所ではないことを
否応なく思い知らせた。
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止まらない研究
だが――
白夜は、
同時に「恩恵」でもあった。
暗くならない。
視界が落ちない。
野外投光器を使う必要がない。
研究者たちは、
防寒具を着込み、
昼夜の区別なく外へ出る。
氷床のサンプル。
岩石。
微生物。
海水。
大気。
集めては、
基地へ持ち帰る。
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没頭
基地内の研究室は、
常に稼働していた。
遠心分離機。
顕微鏡。
簡易分析装置。
手袋を外す暇も惜しんで、
研究者たちはデータを記録する。
「これは……未知の菌だ」
「氷の下に、有機物がある」
「大気の成分比が予想と違う」
興奮と疲労が、
奇妙な均衡で共存していた。
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人間と南極
白夜は、
人間を狂わせる。
だが同時に、
人間の執念を最大化する。
眠らない太陽の下で、
基地は生きていた。
発電機の低い唸り。
通信アンテナのビープ音。
無線室の断続的な報告。
そのすべてが、
「南極に人類がいる」という
証だった。
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遠く離れた内陸へ
沿岸基地は、
定期的に内陸調査隊へ通信を送る。
「こちら異常なし」
「白夜継続中」
「灯台正常稼働」
白しかない内陸へ、
赤い夜の基地から
電波が伸びていく。
南極点前進基地
一週間以上に及ぶ行軍の末、
内陸調査隊は――
ついに目的地へ到達した。
地平線は、
どこまでも平坦で、
どこまでも白い。
山も、
岩も、
海もない。
ただ、
風と氷だけが存在する世界。
ここが、
南極点付近だった。
⸻
沈黙の場所
風は強い。
だが音は、
不思議なほど少ない。
雪が風に流され、
地表を削る音だけが、
かすかに響く。
誰かが呟いた。
「……ここが、地球の底か」
否定する者はいなかった。
⸻
雪上車が停止し、
牽引してきた基地モジュールが
切り離される。
エンジン音が一段高くなり、
車両はUターンを始めた。
彼らは、
1台の雪上車を残し、
次の建設物資を運んで来るために
沿岸基地へ戻っていく。
白い世界の中で、
雪上車の姿は
すぐに点となり、
やがて消えた。




