物語序章 第一版 201章
南下開始
補給完了。
宗谷は再び出航する。
進路――真南。
海の色が変わり始める。
空気が、わずかに冷たくなる。
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護衛の離脱
タスマニア島南端。
ここまで、
日本海軍の駆逐艦は宗谷を守り続けた。
だが、この先は――
誰の海でもない世界。
護衛艦は進路を変え、引き返していく。
最後に、短い無線が入る。
「これより護衛任務を終了する。
武運を祈る。」
宗谷は、返答する。
「了解。
これより南極海へ向かう。」
通信は切れた。
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孤独な航海へ
背後に、何もない。
前方には、
地図の白紙だった世界が広がっている。
ここから先は――
誰も助けに来ない。
宗谷は、ただ静かに進む。
原子炉の低い唸りだけを伴って。
南緯五〇度線 ―― 荒ぶる海
南緯五〇度を越えたあたりから、
海は明確に性格を変えた。
うねりは高く、周期は短くなる。
風は一定方向から吹かず、
波の頂点が白く砕け始める。
ここは――
南極海の入口。
前世の人類が最も忌避してきた海域のひとつだった。
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嵐
気圧は急降下し、
観測室のアナログ気圧計の針は
目に見えて落ちていく。
ほどなくして、
宗谷は嵐の中心に飲み込まれた。
巨大な波が、
船体を横から殴る。
次の瞬間、
船は大きく傾いた。
――四十度。
さらに、もう一撃。
――五十度超。
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船内
船内は、もはや秩序を失っていた。
固定が甘かった食器は棚から飛び出し、
床を滑り、砕け散る。
人は立つことができず、
壁や手すりにしがみつくしかない。
研究者も、熟練の海軍兵も、
区別はなかった。
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船酔い
通路には人が座り込み、
中には動けなくなっている者もいた。
トイレの前には、
自然と列ができる。
扉の向こうから聞こえるのは、
押し殺された嘔吐音。
どれほど経験を積んだ海軍の船員であっても、
これほどの大時化に遭遇することは稀だった。
誰もが悟っていた。
――この海は、人を選ばない。
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甲板上
嵐の合間、
一瞬だけ風が弱まる。
その隙を逃さず、
甲板要員が飛び出した。
全身を安全ワイヤーで固定し、
波を被りながら前進する。
調査用パッケージ――
観測機器、基地モジュール部材、
観測車の分解部品。
すべてが
鋼索で甲板に縛り付けられている。
だが、南極海は容赦しない。
波は容器ごと包み込み、
氷水が叩きつけられる。
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固定確認
短時間で作業は終えなければならない。
一本ずつ、
ワイヤーの張力を確認。
緩みなし。
破断なし。
確認の合図が出ると、
甲板員たちは這うようにして戻ってくる。
宗谷は再び、大波に叩かれた。
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静かな確信
船体は軋み、
揺れは止まらない。
それでも、
原子炉は沈黙したまま安定していた。
燃料切れの心配はない。
火が消えることもない。
この船は――
嵐に耐えるために造られた。
明賢は、船内で静かに揺れを受け止めながら、
白い地平線の向こうを思っていた。
この海を越えなければ、
南極は踏めない。
嵐の果て ―― 南極海
ある瞬間を境に、
世界は嘘のように変わった。
あれほど船体を叩いていた風は止み、
波は次第に低くなり、
やがて――音が消えた。
耳に残るのは、
船体内部を伝わる低い振動音だけ。
宗谷は、
静寂の空間へと滑り込んでいた。
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異様な静けさ
空は鉛色のまま変わらない。
だが、嵐は確実に背後へ去っていた。
海面は荒れてはいるものの、
もはや牙を剥く様子はない。
誰もが気づいていた。
――ここから先は、
嵐ではなく氷の世界だ。
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流氷
最初に見えたのは、
白い破片だった。
次第に数が増え、
やがて海面のあちこちに浮かび始める。
流氷。
互いにぶつかり合い、
低く鈍い音を立てて回転する。
宗谷の船首が、
最初の氷に触れた。
――ゴリッ。
鈍いが、確かな感触。
砕氷船として設計された船体は、
躊躇なく氷を押し分けて進む。
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南極海突入
航海長が、静かに告げる。
「南極海、突入しました」
その言葉に、
船内に短いざわめきが走る。
長い航路、
嵐、
恐怖。
すべてを越え、
調査隊はついに目的の海へ到達した。
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甲板確認
号令がかかり、
全員が甲板へ出る。
風は冷たいが、
先ほどまでの暴力的な風ではない。
船体外板。
艤装類。
甲板に固定された物資。
一つひとつ、
目と手で確認する。
ワイヤーは無事。
コンテナに損傷なし。
観測車モジュールも固定されたまま。
宗谷は、
嵐を完全に乗り切っていた。
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通信
通信室に人が集まる。
アンテナを調整し、
回線を確保。
短く、しかし重みのある報告が送られた。
「我、観測船宗谷。
南極海到達。
船体・人員・積載物資、すべて異常なし。」
送信完了のランプが点灯する。
この通信は、
日本、
そして南極開発史に記録されることになる。
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白い世界へ
甲板に立つ調査隊員たちは、
流氷の向こうを見つめていた。
まだ大陸は見えない。
だが、確実に近づいている。
白い大陸。
人類が足を踏み入れたことのない場所。
宗谷は、
静かに、確実に、
その入口へ進んでいった。




