物語序章 第一版 21章
黒き血の都 ― 化学工業の誕生
石油が地より湧き出たその日、
明賢は空を見上げてつぶやいた。
「燃料は、力の血脈。
だが、その血を精製し、変化させる“知の炉”が必要だ。」
その言葉を皮切りに、
帝国史に残る最初の大規模化学産業構想――
東京湾沿岸化学工業地帯建設計画が始動した。
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東京湾の黒い炎 ― 第一化学プラント
建設地に選ばれたのは、
千葉側の内湾地帯――風穏やかで、輸送路に近く、
水と鉄道、そして海運を兼ね備えた理想の地だった。
そこに出現したのは、
無数の煙突と銀色の塔が林立する異様な光景。
第一化学プラントと呼ばれたその施設群は、
後に「東京湾の黒い炎」として語られる。
中心にそびえるのは原油蒸留塔。
高さ六十メートル、
内部には複数の蒸留皿が組み込まれ、
加熱された原油が段階的に分離されていく。
塔の周囲には、
ナフサ精製棟・潤滑油分離施設・ガス回収タンク群が整然と並び、
夜になると橙色の炎が静かに灯った。
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化学の都 ― 基礎薬品プラントの建設
蒸留塔の完成に続き、
明賢は帝国大学化学部に通達を出した。
「基礎物質の自給こそ、独立の第一歩である。」
彼の指示のもと、
次々と無機化学プラントの建設が進む。
•硫酸製造所:硫黄鉱から得た原料を酸化させ、接触法で精製。
•水酸化ナトリウム工場:苛性ソーダを電解法で生産。
•塩酸・塩化物合成炉:副生ガスを利用して効率的に回収。
それぞれのプラントは配管でつながれ、
副産物は他工場の原料として再利用される――
完全循環型化学複合体の萌芽であった。
「廃棄物を無駄にするな。
それは“未発見の資源”だ。」
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学と実の連携 ― 帝国大学化学陣
化学工業の拡張に伴い、
帝国大学化学部から二百名を超える研究員・技術員・助手が動員された。
明賢の命令により、
研究棟の屋上には観測装置、
地階には試薬合成室と圧力炉が設置される。
学生たちは交代制でプラントを巡回し、
生成された試薬の純度を測定、
反応式を解析し、
日々の報告を化学局へ提出した。
同時に、
各地の鉱山や塩田、硫黄採掘地、アルカリ泉などに調査班が派遣され、
化学原料の全国分布を詳細に地図化していった。
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科学という神殿
東京湾の夜。
無数の塔が炎を灯し、煙が天に伸びる。
遠くから見ると、それはまるで新しい神殿群のようだった。
清助はその光景を見つめながら、
明賢に問いかけた。
「これは、人の手で造られた“火の都”ですね。」
「そうだ。」明賢は微笑む。
「この炎こそ、人が神を越える第一歩だ。」
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こうして日本国は、
鉄と蒸気の時代から、
化学と電力の時代へと歩みを進めることになる。
起動前夜 ― 人智の火を灯すもの
第一化学プラントの建設が完了し、
無数の塔が夜の海に影を落とす頃――
明賢は静かに最後の準備を始めていた。
巨大な装置群がどれほど整っていようと、
その心臓を動かすためには“精密な核”が必要だった。
それは、薬品と触媒――
わずかな量で反応を導き、化学を命あるものに変える“知の種”である。
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見えざる供給 ― 未来からの贈り物
ある夜、明賢は自室の机に座り、
脳内で彼は静かに検索を始める。
「プラチナ触媒」「精製試薬」「高純度硫黄」「無水アンモニア」……
数分後、いくつかの注文が完了した。
配送先は――“東京湾沿岸工業地帯、化学局試験棟”。
数時間後、研究棟の実験机の上には、
見慣れぬ金属光沢を放つ試験管や瓶が並んでいた。
明賢はそれらを慎重に箱に詰め、
帝国大学化学部の主任研究員に託した。
「これは他言無用だ。
これらは、時を越えて届いた“初動の炎”だ。」
主任は深く頭を下げ、
薬品のラベルを見て息を呑んだ。
純度、成分、構成――
この時代の技術では到底得られぬほどの精密さであった。
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最初の反応 ― 生命を宿す炉
翌朝、化学プラントの制御室にて、
研究員たちは手順通りにバルブを開き、
触媒を反応炉の中心に装填した。
圧力計が静かに針を上げ、
温度計が動き出す。
そして――
金属の内部で、最初の反応が起こった。
「反応成功! 温度安定しています!」
研究員の叫びが響く中、
硫黄と酸素の反応炉から、
純度の高い硫酸の白煙が上がった。
それは、帝国化学工業の始動を告げる煙であった。
明賢は遠くからその煙を見つめ、
静かに目を閉じた。
「未来の知が、過去に根を下ろした。
これで、帝国の理が動き出す。」
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この“未来からの小さな試薬箱”こそ、
日本化学産業の夜明けを象徴する出来事として
後世、「白金の夜」と呼ばれることになる。




