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物語序章 第一版 14章

教育理念 ― 国家と科学


日本教育院の定めた教育指針は、二つの柱に集約された。

1.国家への帰属意識

 国民一人ひとりが「国家の構成員である」という誇りを持つこと。

 忠義ではなく理性によって国を支えるという理念が重視された。

2.科学信仰

 迷信や偶像崇拝に依らず、検証と理論を尊ぶ精神。

 寺や神社など宗教施設による教育への介入は極力排除され、

 学校は純粋に「理と法に基づく場」とされた。


「信仰を否定はせぬ。

 だが科学を信じぬ者に、国家を導く資格はない。」

― 明賢「教育院訓令」より



こうして、日本の教育は体系として完成に近づいた。

教師は全国に派遣され、教科書は改訂を重ね、

寺子屋に代わる「学舎まなびや」が各地に建てられた。


その光景は、まるで無数の灯火が国土を照らしていくようであった。

そしてその灯のすべてに、明賢が描いた「理の国」の夢が息づいていた。


全国統一教育制度 ― 理の下に平等


帝国大学と教育院の創設から数年。

明賢はついに、教育を“制度”として全国に根づかせる段階へ進んだ。


江戸城の政庁会議で、明賢は静かに立ち上がり、

一枚の紙を広げて言った。


「教育とは、特権ではなく義務。

 学ぶ者が増えれば、国は必ず強くなる。

 ならば、すべての民にその権利を与えるべきだ。」


家康はしばらく沈黙した後、

「……それが国を導く根となるなら、試してみよう」と答えた。


こうして、全国統一教育制度の策定が始まった。



教育法の制定 ― 「基本教育法」


慶長10年(1605年)、

明賢は帝国教育院の監修のもと、最初の教育法案を起草。

この法は「基本教育法」と呼ばれ、後世の日本教育の礎となる。


法の第一条にはこう記されている。


すべての民、年六歳にして学舎に入ることを義務とす。

 学ぶことは家のためにあらず、国のためにある。」


教育法は全国すべての県に適用され、

藩や宗門による教育権の支配を廃止。

寺子屋・書院・私塾は、教育院の許可制へと改められた。


この決断は、江戸社会に大きな波紋を広げた。

しかし明賢は揺るがなかった。


「学問の門は、誰にでも開かれていなければならない。

 それが“理の国”の第一歩である。」



三段階教育制度 ― 初等・中等・高等


教育法に基づき、明賢は教育を三つの段階に分けた。

それぞれは現代で言う小・中・高等教育にあたる。


第一段階:初等教育(国民学舎)


対象:6歳〜12歳


読み書き・算術・理科・社会・礼法の基礎を学ぶ。

科学的思考・論理的発言・集団での協調を重点とした。

この段階では「国旗・国歌・誓いの言葉」が導入され、

国家への帰属意識を育てる。


「国を愛するとは、国を知ることから始まる。」


第二段階:中等教育(高等学舎)


対象:13歳〜15歳


初等の延長として、より専門的な内容を学ぶ。

数学・物理・化学・生物・歴史(1600年まで)・地理・倫理。

また、実習科目として「工学実習」や「衛生学入門」が導入され、

将来の職能教育への下地を作る。


第三段階:高等教育(専門学舎)


対象:16歳〜18歳


帝国大学進学・国家官吏登用を目指す者が通う。

個別の専攻制を採用し、

技術系・医療系・行政系・軍事系などの分野に分かれる。


この三段階教育は、帝国大学を頂点とする全国統一教育ピラミッドとして構築され、

各地の学舎は教育院が直接監督する仕組みが整えられた。



教員配置と監査制度


教育法の第八条では、各学校に「教育監査官」を置くことが定められた。

これは教育の質を一定に保つための制度であり、

教師の言動・授業内容・教科書の使用状況を定期的に報告させる。


教育監査官は帝国教育院直属の官職で、

明賢が特に重視した役職でもあった。


「教育の腐敗は国の腐敗に直結する。

 ゆえに教育は監査されねばならぬ。」



平等と階層の調和


基本教育法の最大の特徴は、階級を問わず教育を受けられることだった。

武士・農民・職人・商人――

生まれに関わらず、成績と努力によって進学が認められた。


ただし、国費による全寮制の学校では、

学費免除の代わりに卒業後の**国家奉仕義務(5年間)**が課される。

この制度はのちに“知の徴兵制”と呼ばれることになる。



学舎の拡張と教育の灯


十年のうちに、江戸を中心として各地に数百の学舎が建設された。

夜になると教室から灯がともり、

子どもたちの声が風に乗って響いた。


旅の僧がその光景を見て言った。

「まるで寺ではなく、星の群れが地上に降りたようだ。」


それは、理の光が国中に広がっていく証であった。


旧勢力の抵抗と鎮静 ― 理と信仰の分水嶺


全国統一教育制度が施行されると、

最初に動いたのは寺社勢力と旧藩であった。

何百年も続いた支配の仕組みが崩れることに、

彼らは恐怖を覚えたのだ。


「子に経を教えぬとは神を捨てること」

「藩士の子が農の子と同じ学舎に通うとは恥である」


こうした声が各地で上がり、

いくつかの藩では私的な寺子屋を再開する動きも見られた。

一部の神職は“帝の理想”に背くとして抗議を表明し、

武士階級の中にも「伝統を守るべし」と主張する者がいた。


だが、明賢はそのすべてを予期していた。


「彼らは悪ではない。ただ、時を知らぬのだ。」



第一策:宗教と教育の明確な分離


明賢は最初に「信仰と教育の分離令」を起草した。

この令により、寺院・神社・修道院などの宗教施設は

“信仰の場”としての活動に限定され、

教育・学問・政治への関与を一切禁じられた。


教育を行いたい宗教者は、帝国教育院の試験を受け、

“教師”として正式な資格を得なければならない。


これにより、宗教者が教える場合も内容は完全に統一され、

宗教的教義を混ぜた授業は厳罰の対象となった。


「祈りは人の心を救う。

 だが、学びは国を救う。

 この二つは混ぜてはならぬ。」


寺院には「学問非干渉宣誓書」が配布され、

署名した寺のみが存続を許された。

署名を拒んだ寺院は財政支援を打ち切られ、

数年のうちに自然と消えていった。



第二策:旧藩教育権の剥奪


旧藩主や有力武士の中には、

教育を「支配の手段」として保持しようとする者がいた。

家臣団のみが通う藩校を維持し、

新制度を拒む動きも出始めた。


明賢は直接軍を動かすことなく、

理詰めで彼らを追い詰めた。


「教育を独占する者は、国を二つに分ける。」


帝国政府は“教育特区制度”を導入。

新制度に協力する藩には予算と物資を優先的に供給し、

拒む藩は人材登用・武具補給・商取引で不利にした。

結果として、反発した藩の多くは半年も経たずして沈黙した。


さらに教育庁は「帝国師範派遣団」を全国に送り込み、

旧藩校を接収して新学舎に改修。

藩士の子どもたちも農商工の子と同じ机に座るようになった。


「学問に身分はない。

 あるのは理解力と努力だけだ。」


この改革によって、身分を超えた教育の流通が始まり、

江戸の学問は本当の意味で“全国のもの”となった。



第三策:思想改革と“理の布教”


明賢は、宗教勢力を力で押さえ込むだけでは

永続しないことを知っていた。

人々の心の中に“理への信仰”を根づかせなければ、

再び旧信仰が勢いを取り戻すと悟っていた。


そこで彼は、全国放送の代わりとして

「理のりのこう」と呼ばれる巡回講義団を設立した。

師範学校の卒業者が各地を巡り、

教育・衛生・農業・科学の講義を開く。


人々は初めは半信半疑だったが、

講義で示される実験や技術の“目に見える成果”に次第に驚嘆した。


火をつけるためのマッチ。

夜を照らす灯具。

傷を癒す薬。

病を防ぐ手洗い。


それらはまるで神の奇跡のようであり、

人々は自然と“理”にひれ伏した。


「科学こそ、現代の神である」

― ある巡回講師の言葉


こうして明賢は、“理”という新たな信仰を

旧来の宗教の代わりに国民へ根づかせていった。



鎮静の果てに


十年の歳月が過ぎる頃、

寺社は静かに祭祀と祈願の場に戻り、

旧藩は中央政府の庇護のもと行政機関として機能するようになった。


誰もが「教えることは国の務め」と考え、

教育のために働くことを誇りとした。


江戸の夜、明賢は基本教育院の塔の上から

学舎にともる灯を見下ろして呟いた。


「神を捨てたのではない。

 我らは“理”を新たな神として迎えたのだ。」


その灯は、確かに新しい時代の夜明けを告げていた。

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