物語序章 第一版 13章
第十三章 日々の会議
その日を境に、明賢はほぼ毎日のように江戸城へ通うようになった。
まだ幼い体には重い衣と長い廊下の冷気がこたえたが、
彼の歩みに迷いはなかった。
家康の前には長机が並び、左右には家臣たちが座す。
中央には明賢の席が用意された。
年齢こそ最も若いが、その視線はどの者よりも真っすぐだった。
「今日も、続きの話を聞こう。」
家康の言葉に、明賢は深く一礼した。
「はい。本日は“国を支える仕組み”について、順にお話しします。」
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準備された未来
明賢は巻物と帳簿を取り出し、
机の上に並べた。
その数は十を超え、分野ごとに分けられていた。
表紙には墨でこう書かれている。
教育 工業 軍事 衛生 外交
「これらは、私が生まれてから数年の間に整理しておいた
“国を未来へ進めるための道筋”です。」
家臣の一人が驚いたように息をのむ。
「数年で、ここまで……?」
「すべて、理と観測の積み重ねです。」
明賢は淡々と答え、
巻物を開いた。
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国家の設計図
最初に示されたのは、全体の構想図だった。
中央に“政府”が置かれ、その下に
教育庁・工業庁・軍務庁・衛生庁・外務庁が並ぶ。
「この国を動かすのは、ひとりの主ではなく“仕組み”です。
仕組みが正しく働けば、主が変わっても国は続きます。」
家康は顎に手を当て、
「つまり、国を人でなく“理”で治めるということか。」
「はい。
感情では国は一代、理で治めれば千年です。」
家臣たちは黙り込み、
その言葉の重みをかみしめるように目を伏せた。
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教育から始まる国
明賢は教育の巻物を開く。
そこには学問体系と教員育成、
そして年齢ごとの教育課程まで細かく記されていた。
「まず、教育を整えます。
知を持つ者が国を支えねば、制度も技術も続きません。
学びは貴族や武士だけのものではなく、
すべての民が持つべき“力”とします。」
家康は静かに頷いた。
「学を民へ下ろすか……なるほど、武よりも強い力だな。」
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次への布石
明賢はその日、教育の章の半ばまで説明したところで、
家康が手を挙げた。
「よい。続きを明日にせよ。
そなたの話は一度に聞き切れるものではない。」
「承知しました。」
明賢は巻物を丁寧に巻き直し、深く頭を下げた。
城を出るころには、夕日が石垣を赤く染めていた。
その光を受けながら、明賢は小さく呟く。
「これで、ようやく“時代”が動き始める。」
彼の手の中には、
これから国を変えていくための五つの鍵があった。
教育体系構想 ― 明賢の提言
明賢は江戸城での会議において、国の未来を築くためには「教育」が最初の礎であると断言した。彼の提言は、単なる寺子屋や私塾の延長ではなく、帝国規模の教育行政の確立を目指すものであった。
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基本方針
•教育は「軍事・産業・科学」の三位一体による国家総力育成を目的とする。
•すべての国民に基礎教育を義務化し、識字率95%を20年以内に達成する。
•教育行政は「中央教育院」が統一管理し、教科書は「帝国教科書局」が作成・配布する。
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学校制度
1.初等教育(6〜12歳)
読み書き算術・生活科学・道徳を教える。
農村部には「移動教育隊」を派遣し、遠隔地の子供にも教育を行き渡らせる。
2.中等教育(12〜18歳)
国語・数学・理科・社会に加え、技術実習・近代科学・保健衛生を導入。
学生は近隣の小型工場・発電所・研究所で実地実習を受ける。
3.高等教育(18歳以上)
「帝国大学」「防衛大学」「海軍技術学校」などに分かれ、各分野の専門教育を行う。
- 帝国大学:工学・化学・物理・宇宙工学・情報通信
- 防衛大学:陸海空軍の士官養成、戦術・指揮教育
- 医学部・技術学院:医療士官、技術者、衛生兵の育成
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教育と産業・軍事の接続
教育体系は単なる学問では終わらない。
学生たちは卒業後、工場・造船所・医療機関・軍事基地などに即戦力として配属され、理論と実務を往復しながら国家の発展を担う。
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明賢の理念
「教育は国を守る剣であり、未来を築く道具である。
すべての子が学び、考え、創る力を得る時、この国は誰にも滅ぼせぬ。」
帝国大学の設立
教育体系の話がまとまり始めたころ、
明賢は会議の席で一枚の新しい図面を広げた。
それは「帝国大学」と題された設計図だった。
「この学び舎は、国家の“頭脳”として機能します。」
明賢は静かに言葉を続けた。
「小・中・高を終えた者の中から、
さらに学び、考え、創る意思を持つ者を集め、
理と技を極めさせる場です。」
家康は図面を見つめたまま、
「寺とは違うのか?」と尋ねた。
「はい。寺は教えを受ける場。
しかし帝国大学は“理を生み出す場”になります。」
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学問の最高峰
帝国大学では、基礎学問を越えた応用分野を扱う。
工学、化学、物理、政治、医学、経済、そして戦略学。
学生たちは既に読み書きや計算を終え、
国を作るための仕組みそのものを研究することになる。
「学びを終えた者が“使う者”ではなく、
“創る者”となることが重要です。」
明賢の言葉に、家康は深くうなずいた。
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国を支える知の塔
帝国大学を卒業した者は、
国家運営の中心を担うことになる。
文の道を修めた者は教育庁・外務庁・行政機関へ。
理の道を究めた者は工業庁・衛生庁・軍務庁の上級技術官へ。
優秀な者は大臣・参謀・研究主任として国家の要職に就く。
彼らは皆、学問と実務を兼ね備えた
“理と実の両立者”として育てられる。
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大学の姿
初期の帝国大学の校舎は、
石造りと木造が融合した広大な構造だった。
中央には講義堂があり、
その周囲を囲むように実験棟・図書館・研究所が並ぶ。
屋上には風力計と観測装置が設けられ、
学生たちは天体や気象を観測し、
夜には星図を描いて未来の暦を計算した。
明賢はその様子を眺めながら言った。
「知識は使うだけでは朽ちる。
試し、積み重ね、磨き続けてこそ国の礎となる。」
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帝国大学の目的
この大学の最も大きな目的は、
“独立した頭脳を持つ者”を育てることだった。
明賢は教育庁への報告書にこう記している。
「この学は、師を越えるために学ぶ場なり。
理を知る者が次の理を創り、
その連鎖が国を千年先へ導く。」
家康はそれを読み、
「これが、戦に代わる“強さ”ということか」と呟いた。
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こうして帝国大学は正式に設立され、
のちに日本中の学問の中心となる。
そこから出た者たちは、
国家を支える無数の柱となっていく。
帝国大学 ― 五大学部の創設
帝国大学が正式に設立された翌年、
明賢は家康に提出した第二報の中で、
大学の根幹を成す五つの学部の設立を提案した。
「学問は枝葉にあらず。
すべては国家という一本の幹に繋がる。
ゆえに、学を五つに分け、
それぞれが国の柱を担うようにせねばならぬ。」
家康は報告書を読み終え、
「まるで国そのものを“学問”として設計しているようだな」と言った。
明賢は穏やかに頷いた。
「学こそが国の設計図です。」
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第一学部 ― 工学部
工学部は“国の手足”を担う学部である。
製造、建築、発電、機械、金属、資源、化学。
ここで学ぶ者たちは、理論と実験の両方を修め、
産業と軍事の基礎を作り上げる。
広大な実験棟には旋盤・CNC・精密測定機器が並び、
学生たちは昼夜を問わず図面を引き、試作を繰り返した。
失敗した部品が山のように積まれるその光景は、
まさに国の未来を削り出す鍛冶場であった。
「鉄と火を使いこなす者が、時代を動かす。」
この学部からは、のちに造船技師、発電技師、兵器設計士が生まれることになる。
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第二学部 ― 理学部
理学部は“国の頭脳”を担う。
物理学、化学、地学、生物学、数学、天文学――
自然の理を解き明かす者たちの集う場だった。
「物事の仕組みを知ることは、世界を読み解くことに等しい。」
明賢は学生たちにそう語った。
実験室では薬品の香りと金属音が絶えず響き、
学生たちは目に見えぬ“法則”を追い続けた。
理学部の研究成果は、工学部の技術へと繋がり、
国の科学体系の根を支える存在となっていった。
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第三学部 ― 医学部
医学部は“国の生命”を守る学部である。
衛生学、外科、内科、薬学、看護学、疫学――
全ての分野を体系化し、国民の健康を支える医療士官を育成した。
教室には人体模型と薬草標本が並び、
学生たちは手を清め、静かに命と向き合った。
「命を救うことは、戦を防ぐことに等しい。」
ここで育った者たちは各地の病院・防疫所・衛生庁に派遣され、
伝染病や災害への対策にあたることになる。
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第四学部 ― 軍事学部
軍事学部は“国の盾”を担う。
戦術、指揮、兵站、工兵学、情報伝達、心理戦、航空・海上戦術。
ここでは力そのものよりも、「理に基づいた戦略」を学ぶ。
戦場の地図、補給線、風向き、通信。
明賢がかつて関ヶ原で実践した全ての戦理が、
体系としてここで学問に昇華された。
「戦は恐れるものではなく、避けるために知るもの。」
この学部の卒業者は将校・参謀として、
国防の要となる。
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第五学部 ― 行政学部
行政学部は“国の心臓”を担う。
法学、政治学、経済学、教育行政、社会構造、心理学――
国家を運営する理を学び、人を導くための学部であった。
学生たちは議論と記録を重ね、
各省庁の成り立ちを研究し、法案の草案を作成した。
その過程で「法と情の均衡」を学ぶ。
「法は冷たくあれ、だが運用する者は温かくあれ。」
行政学部の卒業者は、
中央政府の高官、地方長官、外交官、教育長として配され、
国の意志を形にする者となった。
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五つの柱
こうして帝国大学は、
工・理・医・軍・政の五学部を柱として動き出した。
それぞれが独立しながらも互いに繋がり、
ひとつの巨大な知の体系を形成していく。
夜の大学街では、講義を終えた学生たちの声が響き、
遠くで機械の音がかすかに鳴っていた。
それはまるで、
新しい日本の鼓動が始まったかのようであった。
教員養成と教科書編纂機関の設立
帝国大学の創設に続き、明賢は教育体系の最後の要である
「教える者」と「教えの書」の整備に取りかかった。
「学びは樹であり、教員はその根、教科書はその土。
どちらが欠けても樹は枯れる。」
そう語った明賢は、清助塾を中心に、全国へと教員養成の輪を広げていった。
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教員養成 ― 清助塾から師範へ
最初に教育現場へ派遣されたのは、
清助塾で鍛えられた卒業生たちであった。
彼らは新時代の教育理念を直接明賢から学び、
「教師は伝える者でなく、導く者である」という信条を胸に教壇へ立った。
清助塾は次第に「帝国師範学校」として拡張され、
授業実習・講義・心理学・生徒指導の基礎を体系化。
その修了者は「帝国初等教員」として各地の学校へ任命される。
大学の卒業生が増えると、
理学・工学・医学・行政学部の成績優秀者も順次教員として登用された。
これにより、教育の水準は飛躍的に向上し、
“現代的教育”が江戸の町から各地方へと波のように広がっていった。
「教員とは、未来を教える唯一の職である」
― 帝国師範訓辞より
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教科書編纂機関 ― 教育院の設立
同時に、明賢は教科書の統一を図るため
「教育院」を設立した。
教育院は帝国大学の中枢に設置され、
各学部の教授・師範・文官が共同で執筆にあたった。
初版の教科書は現代の日本で使われていたものを基にし、
時代に即した修正を施した。
1600年当時の技術水準・制度・社会に照らし合わせ、
無理なく理解できるよう段階的に再構成された。
特に歴史教育については、明賢が明確に方針を定めた。
「過去は反省のために学ぶもの。
だが未来を築くためには、過去に縛られてはならぬ。」
そのため教科書には西暦1600年までの歴史のみを収録し、
以後の歴史は「これから自らが書くもの」として白紙に残された。




