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第3章 お菓子の家の悪夢 

 悪夢って、いつ終わるの?

 悪夢って思うから、悪夢なのさ

 じゃあ、この現実はなに?

 君の恐怖が生み出したものさ 

 いつ終わるの?

 自分の一部を過去にした瞬間から


 お菓子の家が目の前にある。

 板チョコの煙突付きの屋根が真ん中にあり、右端には、さらに高いクッキー生地でできた塔が板チョコの屋根から生えていて、塔の金色の大きな鐘がぶら下がっている。屋根は、色とりどりのマカロンやマドレーヌが飾られ、壁はクッキー生地で、窓ガラスは白いチョコペンで彩られている。

 マリは何度も、目をパチクリさせるも消えなかった。

 焼きたてのビスケットの香ばしい香りが漂ってくる。シナモン味だろうか。いい香りにつられて、マリは歩き続けた。

 お菓子の家といえば、『ヘンゼルとグレーテル』だ。

 マリは、おとぎ話を思い出し、軽やかな気持ちになる。

 近づくと、屋根の上に誰かが居るのを見つけた。

 屋根の上では、ピンクの髪を二つ結びにしている女の子が星形のクッキーを貼りつけているのに対し、茶髪の男の子は梯子に上り降りして、大きな白い袋をせっせと運んでいる。

 マリが不思議そうに近づくと、目を丸くした男の子は白い袋を梯子の上から落とした。

「魔女が来た!」

 落ちた衝撃で、パァンと真っ白な粉が宙に飛び散るが、男の子はそちらを気にする余裕はない。

 慌てて女の子も、お菓子の中へと入る。

 マリが何か言う間もなく、扉はバタンと閉じた。

 マリは、あまりの対応の早さにポカンとしてあっけに取られた。驚きつつも、これ以上、暗闇にいるのが嫌で、思い切って、お菓子の家に近づく。

 チョコレートと飴でできた豪華な扉を壊さないように、そっと叩くと、思ったよりも軽やかな音で、コンコンと響いた。

「……」

 何も聞こえてこない。このまま、無視を決め込むようだ。マリだって、このまま帰るわけにはいかない。

「そっか…誰もいないのかぁ……困った困った」

 お菓子の家に手を添える。

 扉の家で二人の子どもが息を殺している気配を感じた。

「あぁ。私一生迷子で、このまま飢え死にしちゃう……」

「魔女のいうことなんか、耳を傾けちゃダメよ」

 扉の向こう側で、コショコショと声が聞こえる。

 マリは悪戯心が沸いた。そして、わざとらしく溜息をつく。

「その前に、お菓子の家をバリバリたべちゃお」

 生者の世界に戻れないので、一切食べるつもりもないが、ドアノブのチョコレートに手を伸ばした。

 バタンと扉が開き、鉄砲玉のように14歳ほどの女の子が飛び出した。

 その勢いで、マリに飛び乗り、馬乗りとなる。

「!!」

 マリは驚いて、強か尻餅をつくも、すぐに、首筋にナイフを突き立てられた。

 ナイフがギラリと光ったのを見て、マリは身がすくむ。

 なぜ、こんなことになった?

「ちょっと、待った!」

「ヤダね! 魔女のいうことなんか、聞くもんか」

 女の子のほうが、ナイフを深く当てる。こんな怖い経験、生きている間もしたことがないマリはパニックになって、叫ぶ。

「待って! あたし、魔女じゃないから!!」

「うるさい! そんなバッサバサの目で、変な恰好をした奴が、魔女じゃないわけないでしょ」

 弁論すら受け入れてもらえない。

「これは、つけまっていって」

 ほらと、ブチブチとつけまを外すと、割けたのを構わず見せる。

「ヘンゼル、もしかしたら、本当に困っているかもよ」

 男の子がオドオドと口を挟む。

「怪しい奴には変わりないでしょ」

 やはりヘンゼルだった女の子は聞き入れてくれることは、全く無さそうだ。

「ここから、去れ!」

 女の子は激高している。

 二人を刺激するまいと、マリは早口でいう。

「わかったわかった! どっかいくから…!!」

 ヘンゼルはナイフをこちらに向けたまま、ゆっくりと立ち上がり、ナイフで森へと促す。

 マリは腰が抜けつつも、涙目でよろよろと走る。

「ヘンゼル……月が傾いてきたよ。悪霊たちがやってくるよ」

 グレーテルは心配そうにマリの後ろ姿を見つめた。

 ルナの世界では、1日で月がない真っ暗な状態から糸のように細い繊月になり、満月になる。

 しかし、新月の時間帯になると、魔女や悪魔、鬼たちが、川の向こうから渡り、街の周辺を彷徨うろつき始める。

「知らないわよ」

 ヘンゼルはそっぽを向く。

「けど、この辺りの森に危険な魔女もいるのは、知ってるだろ」

「あの子が、魔女じゃないかもしれなかっただろ!」

 いつになく、ヘンゼルは強い口調で言う。

「まさか、あの子に惚れた?」

 グレーテルは鼻で哂う。

 ヘンゼルはグレーテルを責めるように睨む。

 グレーテルはふんと鼻を鳴らして、お菓子の家に帰っていく。

 マリが再び、森の中に入ると、辺りはだんだん暗くなっていく。

 うぅぅという低い、呻き声が聞こえ、マリはピタリと足を止めた。

 枝を踏みしめる音にすら、足が竦む。

 前方の暗闇から、何か動いている気がする。パキリと音がして、マリは息を殺した。

 何かいる……。

 前回の暗闇の正体は、雨汰だった。しかし、今回もあの性格の悪い天使だとは限らない。

 マリは、早く、早くと、何かが過ぎ去るのを願うばかりだった。そういえば、あのとき、雨汰は後ろに……と思い、マリが振り向いた。

 ギラリとした光が一瞬みえ、マリは反射で上体をのけぞらせた。バランスを崩し、地面に尻餅をつく。

 気付けば、左肩に激痛が走った。

「っ!!」

 マリは、あまりの痛さに声が出ない。見ると、ナイフの柄が肩にのめり込んでいる。その先には、しわくちゃな手が握られている。次の瞬間、ナイフは一気に抜かれ、肩からどぼどぼと血が溢れた。

「イきたタマシイ、イきたタマシイ」

 壊れたヴァイオリンのような甲高い声が頭上で聞こえる。ナイフの先を見ると、右手に血を滴らした刃と白い杖が視界に映る。

 マリは右手で左肩を押さえ、蹲くまりたい気持ちをぐっと堪えた。

「なんで、なんで……」

 マリが涙をボロボロ流しながら、敵の正体を知るべく懸命に見上げると、顔を歪めてしまうほど、醜い老婆が立っていた。

 艶々した真っ黒なローブに包まれている。ローブからは、強烈な腐臭が漂い、周りの草木は生気を奪われたように、しなりとしている。頭には、赤い星の飾りが付いたへんてこな三角帽子を被っている。

 白目は濁り、真っ白な髪はすべての細胞が死んだように傷み、尖った鉤鼻と薄い唇はひん曲がっている。何が一番醜いかって、右頬は肉が削ぎ落ちたように骨が覗き、そこには、赤い目をした蛇が、眼球のない左目には、蛙かえるがこちらをみてニヤニヤしている。

「魔女……」

「ゴメイトウ! アタシハ、アリス!!!」

 名前を聞きもしないのに名乗るが、マリはいちいちが恐ろしく、そんなことに構っていられない。ヘンゼルがあんなに、マリのことをあんなに警戒するのも、今ならわかる。

「あらぁぁ〜? 外したぁ」

 ナイフの血を勿体なさそうに、心底うまそうに舐める姿を心の底から嫌悪を感じ、腹から胃液が込み上げる。

 マリは歯をガチガチ震わせながら、魔女を見上げる。魔女は目線を宙に向けながら、薄いボロボロの唇の口角を上げてニヤリと笑う。歯は血のように赤い。

 いや、血かもしれない。

 辺りから鉄の血の匂いが漂い、マリは吐いてしまう。その様子を、魔女はニタニタ、愉しそうに見ている。

 魔女は思い出したように、

「可哀そうに、可哀そうに」

 骨の手でマリの頭をポンポンと叩いた。全身がぞっとした。マリは短い悲鳴を上げて、ガタガタ震える。

「ツギは、外さなぁい」

 マリの心臓にナイフを一旦当てる。心臓の早鐘を楽しむように、魔女はニヤニヤした。

「た、たすけて!!!!」

 肩の血を止めるように、マリは手で押さえた。涙がボロボロと溢れてくる。この現実を受け入れたくなかった。

「ドウシヨッカナ……」

 こしょこしょと、魔女は瞳の奥の蛙に話しかけている。

「やっぱ、ソウダヨネェ……」

 そして、ナイフをゆっくり振り上げる。

「コロス!!」

 嬉々としたアリスの叫び声が森まで響いた。

「やめ……」

 マリの声は、恐怖で上ずり、喉から辛うじて、絞り出された。

「ヤメナぁ~イ!!!」

 銀色の軌跡がゆっくり見えたのは、最後を予期したからなのか……。

 ナイフが突き刺さる直前、マリは気が遠退いた。

「ギャァ!!」

 魔女の顎に石が食い込んでる。

 ここにいるわけないのにと、マリは思った。

 亡者ですら危険な場所だった。

 細く、小さな姿がマリの目に写った。

「ヤモン……」

 涙が流れる。

「マリ!!」

 小さなホウレンソウのシルエットがこちらに駆けつけているのがみえ、マリは意識を失った。

 


ほんのり甘い匂いがあたりに漂っている……。懐かしい香り。マリは、母親が毎年、ハロウィンに作ってくれたのを思い出した。

「パンプキンケーキ……」 

 魘されように、目を覚ます。

「あ、目が覚めた」

 若干枯れた低い落ち着いた声が聞こえる。

 誰の声なのか目を見開きたいのに、瞼が引っ付いたように重い。

 眼球を上に、上にして、やっと、目が開いた。

 白い光が飛び込んできて、何回か、目をパチリパチリとする。

 ピンクの天井が視界一杯に入ってきた。

 そのあと、少し幼さの残る男の子の顔が飛び込む。

「えーと、大丈夫ですか?」

 年上のマリに躊躇しているようだ。茶髪に鳶色の瞳、気の抜けるほど、『いい人』という代名詞似合ういそうな容貌だった。

「返事くらいしなさいよ」

 右辺りから、ピンクの派手な二つ結びに鳶色の瞳をギラギラさせた女の子、グレーテルが壁にもたれかかっている。

 思わずマリは身構えた。

 グレーテルの腰元には、革のナイフ入れがちらりた見えた。

 グレーテルに喉元にナイフを突きつけられた記憶が甦り、同時に魔女の記憶も甦る。

「まぁ、安心しな……」

「あぁぁ! さ、刺さないで……!!」

 マリは泣き叫びつつ、震える手で、壁際まで這いずり寄った。

「たす、たすけ、……」

 マリの涙がボロボロと溢れ、息が出来なくなる。

「大丈夫、大丈夫だから……」

 掠れた大人になる手前の男の声が聞こえ、背中を遠慮するように摩さする。

「やめて!」

 マリはその手を不快に感じ、はね除けた。

 誰にも、触られたくなかった。

 男の子が一瞬、傷ついたような顔をして、困った表情に変わった。

「あ、ごめんなさい」

 マリは男の子を傷つけた嫌悪で再び自己嫌悪を感じる。

 マリは、ベッドに顔を伏せた。

 なぜ、こんな目に遭わなくてはならないのか。

 頭のなかでは、この世界にを呪う言葉で溢れた。

「ヘンゼル、やめなよ。あたしたちじゃ、落ち着かせられないよ」

 グレーテルは呆れたように、窓の周辺を見ている。

 そして、何かを見つけると扉に近寄り、素早く開けた。

「マリ!」

 マリの耳に幼い子供の声が聞こえる。弾けるように頭をあげると、小さなホウレンソウの姿が目に飛び込んできた。

「ヤモン!!」

 マリはベッドから出ようとすると、肩の激痛で無惨に床に這いつくばった。

「マリ! 大丈夫!?」

 ヤモンが頭に乗せてた籠を放り、マリのほうに駆けつけた。

 ヘンゼルが慌てて、籠をキャッチする。

「ヒューッ! ナイスキャッチ」

 グレーテルは意外そうに口笛を吹き、ヘンゼルから籠の中身を受け取り、暖炉で鍋を煮ている。

 マリはヤモンを力抱き締めた。人肌みたいにあたたかく、思わず安堵の息をつく。

「マリ! 探したよ!」

 ヤモンの遠慮したような小さな手が、マリの背中をポンポンと叩く。

「ご、ごめん。触るなとか言って、触って」

 マリは涙がポロポロと流れ、止まらなかった。

「大丈夫だよ! 女の子はとっても、難しいって聞いたから。ボクもごめんね」

 ヤモンは悪気のない、つぶらな瞳をこちらに向ける。

「誰から、聞いたの?」

「菫ちゃんと雨汰!」

 マリは顔をしかめる。雨汰がどんな風に言ったのかが、大体の想像が付く。しかし、魔女の恐ろしさに比べたら、雨汰は全く怖くない。あの魔女の恐ろしさは別格だった。

「あれから、雨汰は亡霊から逃げ切ったんだ」

「うん! 逃げ足はすばしっこいから!」

 嬉しそうなヤモンが答えた。雨汰とヤモンには奇妙な友人関係がある。悪いことばかりする雨汰と良いことばかりをするヤモンと正反対である。

 それなのに、なぜか馬が合っている。

「えーと、そろそろ、大丈夫そう?」

 ヘンゼルが二人にそっと声をかけた。手には、小瓶を持っている。

「ちょっと自己紹介が遅れたんだけど、ボクはヘンゼル。で、あっちにいる女の子がグレーテル」

 グレーテルはこちらを振り向きもせず、軽く会釈する。

「ボクはヤモン! で、こっちがマリだよ!」

 グレーテルが鼻を鳴らすのを、ヘンゼルは窘たしなめる。

「これ、グレーテルが作ってくれた薬。ヤモン君、薬草を取ってきてくれて、ありがとう」

 ヘンゼルがマリに薬の瓶を渡すと、マリは慌てて、ヤモンとグレーテルにお礼を言った。

 グレーテルは一つ頷くと、ヤモンはくるくる踊っている。

「二人が有名な番人なんだね! 会えて、うれしい!」

「番人って……?」

 ここはがどこなのか、魔女が襲ってこないのか、マリの頭の中はさまざまな疑問で溢れてかえっている。

「街の番人は、街に悪い魔女や怨霊たちが入り込まないように、常に見張る役割があるんだよ」

「あの魔女と戦うなんて、凄すぎ……」

 マリは感心した。ヘンゼルとグレーテルを見つめた。ヘンゼルはそんなことないよと肩を竦めている。

「あたしたちじゃ、魔女や怨霊と戦えないよ。ただ、敵がきたら、あの鐘で知らせるだけ」

 グレーテルはそういって、部屋の隅にある赤い紐を示した。

「あとは、隙を狙って逃げるくらいかな。それこそ、英雄プスさんじゃないと、追い払えない」

「プスさん!」

 ヤモンが嬉しそうだ。何か、戦隊モノのヒーローのような存在なのだろうかと、マリは勝手に想像する。

「どうやって、魔女と戦うの? っていうか、魔女って何なの……?」

 マリは、あの蛙が潜む紅い目を思い出した。

「異常者よ」

 グレーテルが吐き捨てる。

「ここにいる魔女は、特別な力を持った人間の認識で間違ってないよ。ただ、エリスは……」

「犯罪者よ!」

 グレーテルが再び、ヘンゼルに被せるように吠えた。

「エリスは、ルナの創設した、力のある魔女なんだけど、ある日を境に狂ってしまったんだ」

 ヘンゼルは、言葉を選びながら、慎重に話す。

 マリは、エリスが誰なのかと首を傾げた。あの魔女は〝アリス〟と名乗っていた。

「なんで、悪い魔女になったの?」

 ヤモンが全く理解できないというように、首を傾げた。

「それは、誰も知らない。だから、困ってる」

「ここはルナから近いの?」

 マリは辺りを見渡した。マリは、早くルナに帰りたかった。ルナならば、悪霊も入ってこれない。

「遠いわ。街から外れた森の中にあるから」

「けど、ここは安全よ」

 グレーテルが、誇らしげに呟く。

 なんでとヤモンとマリはグレーテルを見つめた。

「お菓子の家は怨霊や悪霊たちが嫌いな素材でできているの。だから、ここな安全よ」

 マリは落胆した。あのエリスのいる森の中を抜けるかと思うと、ずっとお菓子の家に留まりたいとさえ、思えた。

「でも、ルナから遠いのに、ベルなんている?」

 普通、街の近くに攻めてきたら、鳴らさないだろうか。

 マリは素朴な疑問を抱いた。

 グレーテルとヘンゼルは少し慌て気味に応える。

「森の中でも、ここにくる亡霊が多くて、危ないのよ」

「お菓子の家だからね」

 2人の慌てように、マリは首を傾げた。二人は、何か、隠しているように感じたが、それを追求するほど、、マリには余裕がなかった。

「あたしたちがお菓子の家を管理してるのよ」

 グレーテルが自慢げに言う。

「けど、中はお菓子の家じゃないんだね」

 マリが天上を見上げ、首を傾げた。天井は木の虚が見え、壁も床も家具も、お菓子でできていない。

「そりゃ、そうだよ。お菓子の家でどうやって暮らすの?」

 グレーテルがすかさず口を挟み、マリはお伽の国から現実に引き戻される。

 ツンとしながらも、グレーテルは焼きあがったクッキーを差し出した。マリはその口調に若干イラッときたが、深呼吸する。香ばしいバニラの香りを吸い込むも、マリは口惜しそうにクッキーを見つめるだけだ。

「あんた、食べないの?」

 グレーテルが不服そうに、マリを見つめた。

「マリは、さまよい人だから食べれないんだよ」

 ヤモンがサクサクと美味しそうに、クッキーを頬張っている。

「あー、だからか」

 ヘンゼルとグレーテルは二人で口を揃えた。

 ヤモンとマリは顔を見合わせた。ヘンゼルが口を開く。

「ここ最近、あんたを襲ったエリスや怨霊が頻繁にこのへんの森に現れるんだ」

 エリスと怨霊に狙われるなんて可哀そうと、他人事のように、グレーテルはクッキーを齧った。

 エリスって……と、マリは再び首をかしげた。

「エリス? アリスって名乗ってたけど」

「あたしたちは、嘘をついてないわよ。あの魔女は、昔からエリスと呼ばれてるわ」

 どういうことなのだろうか。街の門の手前の人も『エリス』と呼んでいたが、街の外で嘘はつけるので、正直なところはわからない。しかし、どちらも嘘はついていない様子だ。

 グレーテルは気にせず、話を続ける。

「あたしたちと違って、堕ちた魔女や怨霊たちは、生きた魂が大好物だからね」

 マリは背筋がゾクリとした。

「もし、生きた魂を食べたら、そいつらはどうなるの?」

「それは、生きた魂は死者の魂と違って、膨大な力を持っているの。どうして、魔女たちは生きた魂を食べたいと思う?」

「おいしいから!」

 ヤモンが無邪気に応える。マリは、その解答に身震いしつつ、考えたくもない疑問だと感じた。

「ヤモン君、近い」

 ヘンゼルが出来栄えの言い生徒を褒めるような口調でヤモンを褒め、ヤモンの頭は照れてピンク色になっている。

「感じたいからだよ」

 二人の頭に疑問符が浮かぶ。

「あたしたちは、死者は精神的な充足を求めていると同時に、肉体的な感覚を取り戻したいという、本能があるんだ。だから、人間の憑いたりしてその感覚を、疑似的に味わう」

 マリは、思わず、そっと後ずさった。

「大丈夫だよ。僕たちは、生前に罪をそれほど犯してないし、禁忌を犯したくないから」

「禁忌って?」

 話についていけなくなったヤモンが、ぽぉとソファの上にちょこんと座っている。

「人の魂を自分の中に取り入れていくことは、人格を失うんだよ。けど、狂ってでも、肉体的な喜びを得たいと考えるのが、怨霊や悪い魔女なんだ」

 いよいよ、マリは話についていくことができなくなってきた。

「とりあえず、見た目が安全そうな亡霊なら、大丈夫ってこと  」

 グレーテルが面倒くさそうに話を締めた。マリはなるほどと思った。

「たしかに、エリスはこわかったもんね……」

 ヤモンが身震いしてる。

「ヤモンが石を投げたのは、魔女なら痛みがあるって知ってたから?」

「ううん。プスさんが悪いモノに追いかけられたら、黒い石を投げて、逃げろって」

 ヘンゼルの表情が固まり始めた。

「そういえば、あの魔女、凄い形相で痛がってなかった?」 

 グレーテルが首を傾げる。

「うん! そのおかげで逃げられたし」

「痛みが大きいだけ、生身の体に近づいているってことだよ。それに、最近はさまよい人の被害が多すぎる……」

 マリは話の行先が悪い方向に行くのを感じ、肩に薬を塗るのを止めた。

「そういえば、仮死状態になって、そのまま死んでいる事件が多発してるって……」

「でも、そんなにたべて、どうするの?」

 ヤモンが素朴な疑問を抱いた。

「死んだ魔女や亡霊が唯一、力を増やせる方法だからよ。人の霊魂を食べるなんて、最低よ」

 グレーテルは身震いをした。

「夕霧様はこのことを知っているのかしら」

「知っているかどうかはともかく、あの女は一人一人の人間なんて、どうでもいいって思うような奴よね」

 マリは堪えきれず、思わず愚痴を吐く。

 ヤモンがマリの足をそっと抓った。

「いたっ!! なにすんのよ」

「なんか、それはダメな気がする」

 ヤモンは、珍しく怒っているようだ。

 事実じゃないと、マリが怒鳴ろうとしたとき、ヘンゼルが不思議そうな声を出した。

「そんなこと無いはずだよ。夕霧様はどんなお土産でも、快く受け取って、さまよい人に鍵を渡すんだから」

「夕霧様にしては、珍しい行動ね……」

 グレーテルも怪訝けげんそうな顔をした。

「じゃ、どうして夕霧は何の悪いこともしてないマリにだけ鍵を渡さなかったの?」

「それはわかんない。あと、夕霧様よ」

 マリが言ったことにグレーテルが訂正を求めた。

 マリはいじけた幼子のように、ふいと顔を背ける。ヤモンも、またマリの感情が爆発しないか、ハラハラと見守った。

 なぜなのか、と冷静になったマリは首を傾げた。3人も首を傾げた。ヘンゼルはこれまでの情報を照らして、必死に考えている。

「なんか、嫌な予感がする……。グレーテル、覚えてる。プスさんが話してくれたルナの反乱のこと」

「ええ、勿論。海賊フランソワ・ロロネーとオダノブナガっていう武士が手を組んだ反乱よね。凄く夕霧様が手こずったって。プスさんのおかげで、閻魔様の元に送られたけど」

 ヤモンは難しい話にだんだん、ついていけなくなっている。

「ルナの天下取りだって、わけのわからなかったけど、多くの怨霊たちは彼らを支持して、大変だったって」

 マリはその話を聞き、なぜか恥ずかしくなった。

「そう。それで、ルナの数少ない反乱で共通しているのが、まず無害な亡霊たちが喰われ始めていることなんだよね」

「ルナを創設したエリスが反乱を起こそうとしてるなら、次って……」

 ヘンゼルとグレーテルはマズイという表情で顔を合わせる。

 ヘンゼルが慌てて、カーペットを剥ぎ、床板を外している。

 グレーテルは赤い紐を引っ張り始めた。

 カーンカーンと金属製の音が鳴り始める。

「どうしたの?」

 マリとヤモンはキョトンとしてるも、二人は説明する気すら起こさなかった。

「マリ、床板を外すの、手伝って!」

 ヘンゼルが、珍しく焦った声を出しているのをみて、マリは急いだ。

 板を数枚外すと、四角い空間が出来ており、中には英語のような文字がずらりと並んだ円がチョークで書かれている。その真ん中には、何か青い光を放つボールのようなものが丁寧に置かれていた。

「この家から、脱出するわよ」

 グレーテルが窓の外を見ようとした瞬間に、ドン!、ドン!と扉を蹴破るような音が響いた。

「何!?」

 マリが振り返ると、窓にはびっしりとおぞましい悪霊たちが囲んでいる。

「イキタ、タマシイ。イキタ、タマシイ」

「キモッ!!!」

 マリはゾンビのお化け屋敷に来たような感覚に陥った。

「暫くは大丈夫」

 ヘンゼルが唇を噛み締めている。

 マリは気が気でなかったが、二人でなんとか板を外していく。窓を叩いていた亡霊たちは、勢いを徐々に無くし、崩れ落ちていく。

 しかし、後ろからやってきた亡霊が前の亡霊を踏みつぶし、さらに激しくドンドンと叩いていく。

「ねぇ! 毎回こんなん耐えてんの?」

 半分、泣きべそをかきながら、マリは叫んだ。

「なわけないでしょ!! こんなにたくさん、一気に来たことなんて、ないわよ!!」

 亡霊たちは、お菓子の家にへばりついている。

 グレーテルはキッチンにある大きな袋を引きずる。

 ヘンゼルはマリに板を外して、中のものを取り出してと指示をすると、椅子をドアの前に置き、背中でドアを押さえた。

 ヤモンもヘンゼルに加勢したが、僅かに支えている程度だ。

「ヤモン、暖炉の周りに塩を撒いて。それで、幽霊が降りたら、その塩を投げて」

 ヘンゼルは早口で冷静に答えた。グレーテルが床の近くに塩を置き、暖炉の釜に火をくべ始めた。

 ヤモンはすぐに、塩が入っている壺にかけよった。天井からも、足で踏みつけるようなドンドンと音がなり始める。

 お菓子の屋根はクッキーで出来ていたが、なぜか、ひどく頑丈である。

 マリも扉を押さえ始めた。背中の響く振動がだんだん強くなっている。

「あぁぁぁ」

 喉を震わせた生気のない唸り声が、煙突から聞こえてくる。

「このクソ野郎ども!!」

 グレーテルは怒鳴っていたが、マリはその手が震えているのに気づいた。マリは天井の板の木屑がポロポロと落ちてくるのを、汗が流れ始めた。

「もう、無理かも……」

 ヘンゼルが天井を見上げながら、呟く。

 天井の木屑の隙間から、クッキーが見え始めている。

 マリは漸く板を外して、中から、胸で抱えられるほどの美しく青色に輝くガラス玉を取り出した。

「来る……!」

 普段のヤモンには珍しい、鋭い声を出した。

 マリは咄嗟とっさに青いガラス玉を胸に抱えた。

 煙突から、ザッザッとゆっくり降りてくる音がする。それに合わせて、灰がザーッと、下で燃えている炎の中に吸い込まれていく。

 全員が固唾を飲んで、暖炉を凝視した。カツカツという音が間近に聞こえた。

「霊は、外!!」

 ヤモンが塩を投げつけた。見事に中に入り込もうとした侵入者の顔に命中した。

「わぁ!」

 紳士服を灰だらけにした猫が驚いて、しっぽに火をつけた。

「プスさん!?」

 プスは暖炉から飛び出るように出てくる。

 兄妹がいち早くその正体に気付き、桶に入った水をかけ、袋に入った灰を床にばら蒔いた。

 プスは大慌てで、灰にしっぽを擦り付ける。亡者や妖精に痛みの感覚はないが、燃えればしっぽが無くなるのは、生者の世界と同様である。よほど自慢のしっぽなのか、プスに余裕の姿は見えない。

 マリも慌てて、ブレザーでしっぽを叩いた。火は徐々に小さくなり、煙が上がった。

「いや、助かった。ありがとう」

 少し焦げて、黒っぽくなったしっぽをプスは心底悲しそうに見つめながら、こちらにお礼を言う。

 辺りに、気まずい雰囲気が漂った。

「えーと、プスさん、ごめんなさい」

 ヤモンはひどく泣きそうな声で、焦げたしっぽを撫でている。

「いや、私が煙突から降りるときに名乗らなかったのが、悪い」

 いえ、そんなことはないです、と素直な子供たちはなにも、言えなかった。

「助けに来てくれて、ありがとうございます」

 気を遣ったヘンゼルがいち早く、お礼をいう。

「どういたしまして」

 プスは、未いまだにしっぽが燃えたことに、傷心しながら、優雅なお辞儀をした。

「どうやって、悪霊を撃退したんですか?」

 ヘンゼルが窓に張り付いて、尋ねる。マリも、窓を見つめると悪霊が森まで、後退している。

「いや、一時しのぎだが、ギルバートから貰った強力な粗塩を使ったのさ」

 プスは、胸ポケットから大きめの袋を取り出した。しかし、外でかなりの悪霊を追い払ったのか、小さく萎んでいる。

「あたしたちには、くれなかったのに」

 グレーテルは不服そうに言うも、貴重なものだからねと、プスは肩をすくめる。

「それより、今すぐ君たちは街に避難した方がいい」

 プスは4人の顔を見渡し、マリが持っている青い玉を見つめた。

「うん。お守りはあるね」

「お守りって、何?」

 ヤモンはきょとんとしている。しかし、マリは自分が持っている青い玉が何のお守りなのか、大体の想像がついた。

「たぶん、悪霊を煉獄に送ることができるお守りじゃない?」

 ヘンゼルとグレーテルは驚いて、マリを見つめた。

「よく気づいたね」

 マリは、口を横に曲げた。ヘンゼルとグレーテルのあの様子なら、誰でもすぐに気が付く。

「今まで、こんなことなかったのに」

「あの世は、こんなことはなかった続きさ」

 プスは肩を竦めた。

「今、不幸にもお菓子の家の力が弱まっている。その隙をエリスが狙ったんだろう」

 プスはしっぽが燃え、もの悲しそうな、憂いの表情でステッキをクル、クルと回している。

「じゃあ、ルナの悪霊たちが街の中に入ってくるってこと?」

 ヤモンが疑問を抱く。

「いや、マリが持ってる玉が街のお守りなんだよ。だから、悪霊を煉獄に送ることもできるし、それが壊されない限り、悪霊たちはルナに入ってこれない」

 プスが重々しく頷き、マリから青い玉を丁寧に受け取った。

「ちょっと、待って。とりま、マリたちはどうすればいいの?」

「とりま?」

 子供たち三人と猫に疑問符が浮かぶ。

「バァ!」

 突然、煙突から亡霊が飛び出る。グレーテルが素早く、亡霊たちに粗塩を投げつけた。

「ヒョエ~!」

 亡霊は煙突の上のほうへ素早く逃げていく。

「たぶん、『とりあえず、まぁ』だよ!」

 ヤモンがスッキリした顔でいうと、プスはあぁと額をたたく。グレーテルとヘンゼルはなんで、わかるの言いたげな表情だった。

「いや、なるほど。とりま、待とう」

「待つぅ!?」

 プスは煙突上で隙を狙って息を潜めている亡霊たちを睨みつけている。マリは正気の沙汰じゃないと思った。

 煙突の上から覗き込む亡霊、窓に張り付く亡霊、そしてドンドンと叩かれている扉を見つめ、待っていたら、侵入されることは明らかだった。そんなマリを落ち着けるように、プスがマリに、差し出す。

「ここに、煙玉がある」

 マリはプスを懐疑的な目で見つめた。

「それを使っても、何人かは捕まりますよね」

 ヘンゼルが、冷静な顔でドアを押さえる。ヤモンは、煙突から落ちてきた亡霊に粗塩をかけた。マリはもうどうすればいいのか、わからなくなった。

「粗塩も、もう無くなりそうよ」

「マジ、どうにかならんの!」

 マリが頼りの綱であるプスにすがる思いだった。ドンドンドンという扉の音が大きくなっていく。

「もうすぐかな……」

 プスが腕を組んで、窓の奥をみている。そのとき、マリとヘンゼルは扉を叩いたり、押したりする感覚が一瞬無くなるのを感じた。

「ヘンゼル、マリ、扉から離れて!!!」

 プスが大声で叫ぶと、扉から一頭の黒い馬が飛び出てくる。扉を押さえていた椅子は壁に当って、粉々に砕けた。

 マリはおずおずと、黒い馬を見た。馬の瞳には、荒々しい炎が宿っている。煉獄の馬だった。弱き亡霊たちは、煉獄の馬に蹴られないように、瞬時に遠ざかる。

「皆、無事かい? 早く、乗って乗って」

 自慢の白い髭を蓄えた、悪戯っぽいブルーの瞳の老人が、手綱を持って、御者席に乗っている。白い幌ほろ馬車は5人が十分に乗れそうな大きさである。

「アンディ」

 マリとヤモンは口を揃えた。そして、救世主が現れたような気持ちでアンディを見つめた。

「アンディ、馬で、きたのね」

 グレーテルが感心している。

「昔の趣味さ」

 アンディは、ハンティング帽を少し上げた。黒い馬の牽制、後ろのほうにた体の大きい亡霊たちが徐々に輪を狭めてくる。

「みんな、早く」

 プスが声をかけると、次々に馬車に乗っていく。同時に煙突の亡霊たちが、ポロポロ落ちてきて、マリたちがいる扉のほうへ詰め寄る。

「ハァッ!」 

 アンディがかけ声を上げる。数体が幌を突き破ってくるのを、グレーテルが容赦なく、火かき棒で振り落とし、プスが塩を撒く。

 マリもフライパンで応戦した。

 その間に煉獄の馬は一鳴きをして、輪っかになっている亡霊たちの間を一点突破した。

「やったー!」

 ヤモンが気持ちよさそうに叫んだ。

「なんとか、抜けた」

 ヘンゼルは気が抜けて、腰を抜かしている。プスは微動だにせず、奥のほうをじっと見つめた。

「どうしたんですか?」

 マリがそう尋ねると、プスは耳をぴくぴくさせる。

「しっ、何か音がする」

 皆、一斉に怪訝そうな顔になり、手を板に置いた。

 ゴゴゴゴゴゴゴ……。

「なだれ……?」

 グレーテルが首を傾げた。マリは遠くに一瞬見えたギラついた紅い瞳をみて、瞬時に察した。顔色がみるみる白くなっていく。

「魔女……」

 マリは心臓を直接、締め上げられたような感覚と共に、じくじくと胸の中が疼き始めた。

 森の奥から徐々に、その輪郭が現れ始める。

 魔女は一回りは小さいヤギの上に負ぶさるように、もの凄いスピードでこちらに迫ってくる。

 艶艶の真っ黒なローブ、赤い星の飾りが付いたへんてこな三角帽子……。

 魔女は真っ赤な瞳をさぞ愉しそうな光を宿して、薄い唇を上げている。

 赤い目をした蛙がこちらをみてニヤニヤしている。その後ろには、2体の悪霊が奇妙な生き物に乗って、走ってくる。それは、ゴリラのように筋肉隆隆の長い手足を四つん這いにして俊敏に走っている。小さく窄すぼまった口からは、アリクイのように長い舌がときどき出ている。顔の半分はある一つ目を凝らして、こちらを見ている。

「なに、あの化け物!?」

 グレーテルが叫ぶ。

「見たことないが、おそらく煉獄の生き物だろう」

 長い爪は鋭く、一瞬で、引き裂かれるだろう。地獄にいる悪魔と鬼、そして煉獄の生き物が亡霊に痛みを与えることができる。

 プスが厄介そうに、その生き物を見つめた。

 マリはそんな奇妙な生き物をみても、魔女から一瞬も、目を離すことができなかった。目を逸らした瞬間に、あのナイフが頭に刺さるかもしれないと考えれば考えるほど、マリは息が荒くなり、シャツにべったりと汗が張り付く。

 ヘンゼルとグレーテルも、その奇妙な生き物と魔女を見て、顔色がみるみる白くなる。二人は寄り添い、互いの手をぎゅっと握りしめている。

「皆、気をしっかり持て。魔女に取り込まれるぞ!!」

 プスが勇ましくそう叫ぶも、マリは既に頭の中がぼぅと霞み始め、足がガクガクと震えるばかりだ。いつ意識が消えても、おかしくない状況だった。

「マリッ!」

 ヤモンがピョコンとマリの肩によじ登って、その小さな緑色の葉のような手でマリの目を覆う。

 マリの視界は、薄い緑色に包まれる。

 マリは驚いて、考えが真っ白になる。

 マリの思考と感情は一瞬で静寂に包まれた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。深呼吸して。ふー、はー」

 ヤモンの幼くも、優しい声が響く。

 マリは立っていられず、ペタリと膝を付いた。そして、打ち上げられた魚のように、必死に呼吸をしようするも、肺がうまく吸えず、痙攣を起こす。

 ヤモンはその度に、大丈夫、大丈夫と肩をトントンと叩く。マリはヤモンに言われるままに、がむしゃらに呼吸に意識した。10秒程で、現実感覚が戻ってくる。しかし、まだ呼吸は荒い。

 ヤモンが葉のような手をマリの目元からそっと、放す。

 徐々にプスやヘンゼル、グレーテルが話し声が聞こえてきた。

「魔女は私がなんとかしよう」

 そういうと、青い玉をヤモンに預け、レイピアを鞘から引き抜く。刃先が、鈍く銀色に光る。

 その刃の鋭さにヘンゼルとグレーテルは息を吞んだ。

「どうにかなる、相手なんですか?」

 グレーテルは、火かき棒を構えながら、期待げに聞く。

「さぁ、どうにかするのさ」

 プスなら、なんとかできる気がする。頼りがりのある返事だとマリは思った。

 そうこうしているうちに、マリたちと魔女の距離はどんどん近くなっていく。

「じゃあ、ボクたちはあの亡霊と煉獄の悪魔を相手にすればいいんですね」

 ヘンゼルが、斧を構えた。よく見ると、その腕は震えている。

「できれば、そうしてもらいたい」

 プスは真剣な表情で魔女の動向を見守っている。グレーテルとヘンゼルは、揃って頷く。

 マリは、フライパンを握りしめた。魔女がどんな行動を起こすのかわからず、不安のみが広がっていく。マリの頭は、ますます霧に包またかのように、鈍くなっていく。

「マリ」

 グレーテルは、マリの前に屈んだ。

「生きた魂を食べた魔女はね、普通の人間の体と変わらない。火の中に入れば、燃えた痛みを感じる。それに、エリスが煉獄の騎士に捕まっても、特殊能力を使ってない。攻撃系の魔法は使えないと思うの」

 グレーテルは、自分にも言い聞かせるように、マリに寄り添って話す。

「必要以上に恐れないでいこう」

 ヘンゼルが力強く頷いて、マリの肩をポンポンと叩く。

「グレーテルの言っている通りだ」

 プスは感心したような声でいう。グレーテルは、自分らしくない言動に居心地悪そうに、火かき棒を持って、プスの後ろのほうに立った。

 マリは、僅かに体の力がを感じた。ぎらついた紅い瞳や気味の悪いヤギが迫ってくるのをみると、今すぐにもこの場所から逃げ出してしまいたい。

「来るぞっ」

 幌馬車と魔女の距離は2メートルほどだった。プスがレイピアを突き出そうと構えた瞬間に、プスは押し倒されていた。

「バァッ!!!」

 3歳ほどの子供の亡霊が3体、プスの上に乗って無邪気に妨害している。どうやら、馬車の上から、飛び降りてきたらしい。プスは、子供の亡霊をレイピアで刺すわけにもいかず、一体一体、引きはがそうとしている。しかし、一体離すと、もう一体がくっつくという、イタチごっこを繰り返している。

「雨汰、よくやった」

 魔女がニヤニヤしている。マリが魔女の視線の先を見ると、金髪の天使のような笑顔を浮かべた雨汰の頭が見えた。幌馬車の上で寝そべっており、余裕綽々の表情にマリの勘が触った。

 魔女のヤギがとうとう、板スレスレのところまで辿り着いた。

「マリィ」

 魔女が甘やかすような声で、マリを呼ぶ。マリは歯をガタガタ言わせ、思わず腰が抜けてしまう。

「ヤモン、下がって」

 マリはお守りである青い玉が奪われないように、腕でヤモンを必死に後ろの方へ押しやった。

「地獄に堕ちろ! 魔女!!」

 勇敢なグレーテルは火かき棒を容赦なく振り下ろし、魔女の脳天を勝ち割ろうとする。

 ヤギは一鳴きすると、火かき棒を俊敏に避けた。

「愚図ども。なんとかしな」

 魔女が命令を下すと、二体の亡霊のうち一体が幌馬車の横につき、長い槍で幌をめった刺しにしていった。

 幌の上で雨汰が慌てている。

 ヘンゼルは、もう一体の亡霊がアンディの方へ行くことを察して、御者席のほうへ行った。

 グレーテルは、魔女を近づけまいと必死に火かき棒をふるっている。

 ヤモンはプスから三体の子供たちを引きはがすことに成功するも、今度は、自分が子供たちの亡霊に絡まれている。プスは漸く自由の身になり、立ち上がる。しかし、背後で殺気を感じ、瞬時にプスは顔を逸らした。

「ウォッ」

 プスの頬すれすれのところに、槍が突き出される。生きていないので、痛みは生じないものの、身体の機能は失われる。プスは内心ヒヤリとした。

「いやッ!!!」

 グレーテルの叫び声が聞こえた。マリがそちらのほうを見た。

 ヘンゼルが煉獄の悪魔に肩からざっくり爪を残され、アンディの腕でぐったりとしている。グレーテルがすかさず、御者席に駆け寄って、近くにあった斧を手に取ろうとするも、アンディがそれを制した。

 アンディは代わりに手綱をグレーテルに渡した。

「やったこない」

 グレーテルは涙目で、首を振る。

「なら、死ぬだけじゃ」

 アンディは手綱を押し付けた。

「わしは、木こりじゃあー!!!」

 勇ましいような、泣き叫ぶような声でアンディは叫び、斧を手に、槍を必死によける。

 そうこうしているうちに、魔女は今度こそ、馬車の上に上がろうとする。マリはフライパンで叩こうとすると、魔女がナイフを片手でちらつかせる。

 マリの身体は途端に固まってしまう。魔女は片足を板にあげた。

 ヤギは馬車と並走して走っていく。

「マリッ!」

 ヤモンは子供の亡霊と一緒に、魔女の顔に引っ付いた。

「このクソガキャァ……!」

 魔女は片足になりながらも、ヤモンの体をナイフで刺そうとする。マリは必死に腕を掴み、阻止した。

 魔女のぽっかり空いた目玉の中の蛙がシャーッと威嚇してくる。

「このまま喰ってヤル」

 魔女がヤモンを両手で掴み、喰おうとする。子供の亡霊たちは一瞬でヤモンから離れようとするも、一体だけ魔女に捕まれ、一緒に喰われそうになる。

 一体とヤモンは魔女の口の上で飲み込まれないように必死にあたふたしている。マリは、フライパンの柄で魔女の腹を思いっきりついた。

「オェッ」

 魔女が呻いている。瞬時に、ヤモンと子供たちはその手を逃れる。マリは、そのまま魔女の頭にフライパンを下ろした。

「あ……」

 その時、ガタンと馬車が揺れ、マリはバランスを崩して倒れた。

 プスは、コロコロと青い玉が視界の端でみえ、掴もうとする。

 プスが掴もうとした瞬間に、亡霊が槍で妨害をする。雨汰がすかさず、幌の上から飛び降りる。そして、そのまま、衝撃を殺すように、地面に転がり、青い玉を掴んだ。

「よくやった、雨汰」

 魔女は、その光景をみて、ニヤリとした。態勢を整えて、マリを喰おうと、覆いかぶさった。大きく、大きな、鋭い血だらけの歯を持った口が広がる。

 マリが魔女の喉の奥をみた。何十ものデコボコがあり、コブだと思った。コブのようなものから、血が流れている。

 マリは、コブじゃないと思い、恐怖に包まれた。数十体の若い顔をした肉の塊が苦しそうに、涙を盛り上げ、泣き叫んでいる。マリは、生き地獄だと感じた。

 エリスは目の前に獲物が急に静かになったのをみて、ニヤニヤとしている。漸く、生きた若い魂を喰らうことができる。しかも、一度は逃している。極上の獲物だった。マリの脇に爪を喰い込ませ、徐々に飲み込んでいく。

 ヤモンは非力にも、ポコポコ魔女を叩く。しかし、ビクリともしない。

 プスはやっと煉獄の悪魔の目を切り裂き、一体を退けられたところだった。足から血を流しつつ、フラフラとマリのほうへ駆けつけようとしている。

「マリ……」

 プスの言葉は続かなかった。

 なんと、魔女に半分頭を飲み込まれたマリが、魔女の腹にナイフを突き刺す。

 

 マリは魔女の懐にあったナイフを引き抜くと、血が噴き出した。生ぬるい感覚を気にせず、マリは無我夢中で魔女を刺していく。

「う、あぁぁぁぁぁぁあ」

 魔女の叫び声が、マリにとって最高に心地よく、殺しの快感へと変わっていった。魔女がマリの手を折ろうと、細い腕を掴む。しかし、マリの手はナイフと一体化したようにびっちりと硬い。容赦なく、何度何度も魔女の腹を刺していく。

「やめぇ」

 魔女の腹からは、血が留めなく流れる。エリスの囚われた肉の塊たちは、さらに身を切り裂くような泣び声をあげている。その音が五月蠅いとマリは感じた。そして、彼らを刺し殺すように気持ちで、何度も何度もエリスの腹を刺していく。マリは、頬に涙がポロポロと流れていることにすら、気づかなかった。笑っているような、泣いているような、感情がどこに着地すれば、わからない空白…。

 深い深い酩酊の中にいる気さえした。

 魔女はふらついて、馬車から落ちた。すかさず、ヤギが落ちてきたエリスを必死に首で支える。無表情な亡霊はアンディから無言で離れ、エリスの近くに戻っていった。

 グレーテルの泣き声が聞こえる。ヘンゼルは肩から、腹にかけて、傷を負っている。幸いにも、内臓や骨はみえない。プスは自らの高価な布を引きちぎって、止血を始める。アンディは、逃げるように煉獄の馬を必死に走らせた。

 マリは、ぼうっと、エリスの方角を見ていた。ヤモンはマリの放心ぶりに話しかけられず、少し離れた場所にいた。

 3体の子供の幽霊は、そんなヤモンに縋るように、くっつく。

 マリたち、一行はそのまま、ルナへと走っていく。

 赤い月は、鋭く光っていた。 




 夕霧の館の庭には、せっかちな妖怪や妖精、幽霊たちが集い始めていた。皆、夕霧の指示で集まったのだが、約束の時間より遥かに早く集まったので、勿論夕霧は姿を現わしていない。噂好きの彼らは、今夜の会議の内容を知るべく、襖に耳を寄せている。しかし、それを発見した相撲取りに引きはがされるということを繰り返していた。

 20畳の洋風な広間には、木製の長机が真ん中に置いてある。机には、青い小さな花柄模様が描かれ、上品な白いテーブルクロスがかかっている。その上には、色とりどりのお菓子やティーポットが置かれ、今からお茶会でも始まりそうな雰囲気だ。しかし、皆の表情は険しい。

 参加者は、アンディ、アーヴィン、ベラ、グレーテル、鍛冶職人のドワーフや商店街の江戸ッ子、警備長のエルフなど、街の主要な機能を果たす長が、椅子に座っている。

 ヘンゼルは煉獄の悪魔から負った傷で起き上がれず、寝込んでいた。マリは、ヤモンとがっちりしたドワーフに囲まれ、静かにしていた。

 お誕生日席には、夕霧が座っており、左側にはギルバートが立ち、右側にはプスが、ふかふかの椅子に座っている。

「皆、よう集ったでありんす」

 コバルトブルーの着物には、天空に羽ばたこうとする瞬間を切り取った鶴が描かれている。群青色の羽織には、淡い雲がのっている。

「お茶お茶っっ!!!」

 アーヴィンがティーポットの中身をぶちまけようとした瞬間、ベラはアーヴィンの口の中に容赦なく、砂糖瓶を突っ込んだ。

 アーヴィンは目を白黒させて、そのまま砂糖瓶の中の砂糖を舐めようとしている。夕霧はベラに軽く頷いた。

「今回、皆を集めたのは、お菓子の家の守が破壊されたからでありんす」

 参加者の間に動揺が走った。主だけが知っている秘密のうちの1つが、街の守はお菓子の家にあることだった。

「それで、破壊したのは誰なんだ?」

 白みがかった金の長髪に、とんがった耳、精悍な顔をした警備長のエルフ、ウィリアムは、軽装の鎧を着ている。

「エリスだ。もう間もなく、エリス率いる軍勢が街に侵入するだろう」

 足に包帯を巻いたプスは悔しそうに拳を握る。

「待って! 生きてんの!? エリス!?」

 マリは動揺した。何度もナイフを刺した。その瞬間を浮かべ、マリは嘔吐しそうになる。

「残念ながらね」

 グレーテルの顔色も蒼白だった。

「死んだ魂が消滅するのは、閻魔殿から審判され、三途の川で浄化する方法のみでありんす」

 マリは激しく落胆した。あの魔女が生きている、その事実が体中の気力を奪う。

「あの魔女か……。とんでもねぇことになったな」

 鍛冶職人のドワーフ、アイザックは、長い自慢の髭を生やし、シャツの間から覗く筋肉隆隆の腕を組んでいる。職人らしい鋭い鳶色の瞳を、夕霧に向けた。彼もルナを創設した一人だったので、エリスが街の構造に精通していることを知っていた。

「エリスの目的は、あの世の門だ」

 ギルバートはその場の空気に合わない声で、楽しげに呟く。

「あの世の門オヨ? エリスは生者の世界で何したいんオヨ?」

 お出かけ用の紅い着物を着たベラは、ギルバートの勿体ぶった言い方に、苛立しながら尋ねる。

「さぁてね」

 ベラは舌打ちした。

「ギルバート、魔女の目的は知っているのに、動機は知らないのかい?」

 セルリアンブルーの瞳のアンディは、空気を和ませるかのように、柔らかな声でギルバートに尋ねた。

「ふむ。これまでのほとんどの反乱は、生者の世界に戻ることだったから、そう思ったまでさ」

 マリは違和感を感じつつも、そのときは、口を出さなかった。

「そんなことはどうでもいい。それより、街をどう防衛するかだ」

 エルフは痺れを切らして、プスに尋ねた。プスは頷くと、サヨに合図を送った。

 端に控えていたサヨは、自分の身長ほどもある 丸めた紙を持ってきて、夕霧の後ろの板に貼った。サヨがペラペラと捲ると、そこには円形型の街が描かれている。

「ルナの地図……」

 マリは初めて、ルナの全貌を見た。真ん中には大使館があり、門までまっすぐ大通りが伸びている。その大通りから、西の方角に細かい道がいくつも生えていて、江戸の商店街に連つらなっている。

 いま、夕霧の館がある場所は、西の端のほうにある。大使館の奥、街の北側にあの世の門があった。ヤモンは首を傾げて、クローバー型のクッキーをポリポリ食べ始めた。

「おう、惚れ惚れするくらい街だ」

 ガハハハと、アイザックは名前に似合う、豪快な笑い声を上げた。マリはその笑い声を聞き、少し軽い気持ちになる。

「作戦名は、『エビの踊り食い作戦』だ」

「かっこいい!!!」

「ダッサイ名前」

 ヤモンと間反対の感想を持ったぽつりとグレーテルは呟き、プスは咳払いをした。

「ルナを口に見立てて、生きたエビを喰らうように、亡霊を捕縛していく作戦さ」

 プスは早口で作戦名の説明を素早くしていく。 

「まず、この街に入れるのは門からの道、1本。煉瓦通りで、大体の亡霊たちを潰す。残った亡霊を西に誘導するように。ウィル、アンドリューたちに任せたい」

「んー。なぜ、遠隔攻撃で先制しないだ?」

 机の後ろからヌルッと綿のゆるっとした服を着た上半身を現われた。ボサボサした茶髪だった。片手には既に、アルコールの瓶が握られており、頬は真っ赤だ。立ち上がった瞬間にその全貌が現れた。下半身は、馬である。ケンタウロスのアンドリューはぼんやりした目つきをしているも、腕の引き締まり具合や左手に持つ2m近くある槍を軽々と持ち、只者でない雰囲気を漂わせている。

「エリスの襲撃を機に、裁判の呼び出しに応じない亡霊を全員捕縛するよう、閻魔殿から言伝を預かっている」

「了解」

「あい」

 ウィリアムは軽く頷き、アンドリューは瓶を振る。

「商店街では、皆に避難勧告をしてくれ」

「ヘイッ!」

 茶色の生地の縦縞模様の柄を着た江戸っ子が、元気に声を上げる。マリは奇妙な気持ちで、彼を見た。なんと、ひょっとこの仮面を被っているのだ。

「プスさん、それと……」

 ひょっとこの亡霊はコソッとプスに耳打ちした。プスの猫顔がだんだん笑みになる。

「それじゃ、頼むよ」

ひょっとこ男は、喜々として腕まくりして、手をすり合わせた。

「あとは、応援がくるのを待つのみだね」

「応援って?」

 ヤモンが初めて、口を開いた。

「それに関しては、私が今、交渉している」

 ギルバートは、腕を組んで、椅子に座った。

「上手く、行きそうでありんすか?」 

 夕霧が凛とした表情で尋ねた。 

「半分、半分だね」

 ギルバートにしては、自信の無さそうな返事だった。応援を期待するのは、相当厳しいのかもしれないとマリは感じた。

「じゃあ、無いものとして、ウィルとアンドリューに任せよう」

「肝心な魔女はどうするオヨ?」

 ベラが扇を仰ぎながら、プスを見た。

「これまで、何回、エリスを捕まえ損ねたっけ?」

 ギルバートはわざとらしく声で、ウィリアムに尋ねる。

「何が言いたい? ギルバート」

 すでに酒を呑み、半分気だるげにアンドリューだが、ギルバートを注意深く注視している。

「いや、他意はない。今回、エリスを確実に捉えるチャンスじゃないかと思ってね」

「つまり、何が言いたいオヨ!」

 ギルバートが辺りを見渡した。マリは嫌な予感がした。第六感とは、このことじゃないかとと思った矢先、ギルバートの視線がマリを捕らえた。

「マリ。君に囮になってもらいたい」

 あぁ、本当になんて、最悪な夢なんだろうと、マリはこのとき、思った。

「ダメだ!」

「危ないよっ!!」

 アンディとヤモンがマリよりも早く、返事をする。

「あたしも、絶対に無理」

 マリは、エリスと対峙する、そう考えただけで、顔が冷たくなるのを感じた。

 ツゥと、血の気が引いていく。

「なんで、マリを囮にするオヨ?」

 マリの命なんて、どうでもいいベラはそれを無視して、不思議そうに尋ねる。

「いや、最高の囮だと思わないかい。これまで、エリスは2回とも絶好のチャンスでマリを喰い損ねている。しかも、今回は深手を負わされていると来た。エリスはマリに執着しているのは間違いないだろう」

 理不尽な役割に、沸沸と怒りが湧く。まただと思った。マリの命のことなんて、どうでもいいような扱い方。うんざりだった。

「なんで、マリが囮にならなくちゃいけないの? 何の関係もないのに……!」

「しかし、この危機を乗り越えなければ、マリに未来はない」

「なんで?」

 マリは低い声で、尋ねた。

「なぜならば、エリスを煉獄に連れていかなければ、あの世の門を開いてはならないという命が、閻魔から届いている」

 ギルバートは、申し訳ない声を装って、マリに言う。

 本当のことだろうかと、夕霧を見た。嘘をつかない夕霧は深く頷く。

 胃の奥から、熱くピリリとした吐き気が湧く。マリは喉を押さえ、必死に吐き気を堪えた。ピィーと耳鳴りもしてくる。

「マリには無理だ」

 プスが冷静な声で、言う。あたしも無理だと思う、とグレーテルはマリを気遣うように声が遠くで聞こえた気がした。 

 そうだ、マリにはできない……。

「まぁ、そこは自由意志に任せよう。ただ、エリスを確実に仕留める方法ということを忘れないように」

 ギルバートは静かな口調で、囮の話を止めた。

「マリじゃなくても、彼らが仕留めるさ」

 いつの間にか、後ろに来ていたアンディは、マリの肩をポンと叩く。ウィリアムは無視したが、アンドリューは槍を掲げ、ニカリと笑った。マリは、笑むことすらできなかった。

「あたしはどうすればいい?」

 グレーテルが勇まし気にプスに問う。

「ウィルとアンドリューと私を繋ぐ連絡係になってくれ」

「けど、あたしも闘いたい」

 足手まといだと、ウィリアムがはっきり言う。グレーテルはかっとなって、反論しようとした。それをアンドリューが、明るい声で阻む。

「お前さん、元気でいいねぇ。しかし、適材適所があるさ。儂は戦えんが、少なくとも罠を作れる。お前さんは、闘うことで役に立てるのかい?」

 アイザックがグレーテルの頭をポンポンと叩く。グレーテルはその手を跳ねのけ、アイザックを睨んだ。そして、怒りを噛み締めたような顔で、静かに考え始める。

 マリも、アイザックの言葉を考えていた。あたしにできることはなんだろうか、無知でヤモンがいないと、街にすら辿り着けない。非力でグレーテルやプスさんたちに助けてもらわなければ、エリスから逃げることもできない。

 しかし、あの魔女ともう一度、向き合う……? 無理だ、絶対に無理だ。鎖でがんじがらめになったように、マリの体は硬直した。

「とりあえず、ここでお開きにいたしんしょう。決戦は明日でありんす」

 夕霧は静かな声で、会議を締めた。

 

 夕霧が庭に集った町人たちにエリス襲撃のことを伝えると、彼らはそれぞれの役割を果たすべく、それぞれの長からの命令を受け、素早く散っていった。反乱を何度も経験したせいか、町人たちの動きに迷いはない。

 その夕霧の館の一室で、押し殺した呻き声が響く。布団に包まり、少女が回想していた。

『また、そんなことして。危ないでしょ。おかあさんの言うことを聞きなさい』

 小学生の頃、ジョンから貰った金の針を、取られたことがあった。ぬいぐるみより、何より、大切な針だった。魔法の服を生み出す針。

『それより、生け花のほうが女の子らしくていいじゃない。こっちにしなさい』

 今、思えば、矛盾だらけだ。裁縫はいかにも女の子らしい趣味じゃないかと思う。けど、そのときは、母親が言うこと全てが正しいと思い込んでいた。母親の押し付けということに気付かなった。

 針は気づいたら、鞄の中に入っていた。あまりの落ち込みように母が戻したのだろう。

 また、何かに押し付けられているのだろうか、そんな根拠のない考えが頭の中でぐちゃぐちゃと回る。妄想が現実に絡みつき、現実を歪ませる。

 そして、エリスをめった刺したときの何ともいえない高揚を思い出して、自分が恐ろしくなる。

 いつか、エリスのような殺人者になるのではないか、そんな気がしてしまうのだ。

「マリ……?」

 うめき声をすっと消した。襖には、小さなホウレンソウの影が映る。夕日で、影が長く映っている。

「今は放っておいて」

 情けない涙声が出た。襖が スゥッと開く音が聞こえた。マリがそちらを見ることはなく、布団の中に包まった。ヤモンはマリから見て、後ろ向きにちょこんと座った。ヤモンは、何も言うことなく、ただ座っていた。

「ねぇ、なんでマリがこんな目に遭うのかな?」

 マリが驚くくらい気弱げな声だった。うーんと、ヤモンはなんとか元気づける言葉を探すも、見つからなかったようで、わからないとカラリと言った。

「あはは」

 ヤモンらしい裏表の無い言葉だと、マリは思った。

「これ」

 ヤモンは黄色い紙に包まれた箱をマリに差し出した。マリが振り返ると、ヤモンは驚いて、ケラケラ笑った。

「な、なに!?」

 ヤモンはごめんと何度も謝りながら、マリの顔を指さして笑う。マリが化粧台のほうを見た。

「ワッ、サイアクッ!!!」

 アイシャドウがドロドロに溶けて、マリの目の下に引っ付いていた。しかも、付けまつげは斜めにズレている。バケモンだと、自分でも思った。

 マリが布団からすっ飛んだ。顔を隠して、廊下の洗面台に駆けつける。メイクを丁寧に水で流すと、17歳らしい気弱気な少女が鏡に映っていた。

「ダサすぎ」

 自然と笑みが零れた。付けまつげは使えず、捨てた。マリが桃色のカーディガンを赤ずきんのように頭に羽織って、すれ違う人に顔を見られにようにする。

「もし、そこのお嬢さん。よければ、お茶でもいかがでありんす?」

 マリが気まずげに後ろを振り返ると、3体のハニワが立っていた。

「夕霧姐さんと思ったでしょ?」

 菫が無邪気にマリの足元に立っていた。

「菊は、声真似が凄く得意なの」

 梅がお姉さんらしく、笑う。そして、三体のハニワはマリを連行する。気の強いマリも、おしゃべりなハニワたちには、なぜか強く出れない。

 一階の一番奥の部屋へたどり着いた。

「お風呂……?」

 目の前には、桃色生地の白文字で『女』とかかれた暖簾のれんがかかっている。入っていくと、明るい照明の脱衣場が広がっている。

「マリ、お風呂に入って!!」

 梅がマリの制服をぎゅっと掴み、脱がしにかかる。それを慌てて押さえて、自分で脱ぎ始めた。シャツを脱いだとき、醜い傷口が肩に残っていた。マリは落胆を隠しきれず、髪を緩く横に結った。

「広っ……」

 浴場は、マリの地元の銭湯と同じくらい広く、夕霧の館はなんでもあるのねと、マリは感心してしまった。お湯は白く濁っている。足先をいれると、そのまま肩まで入る。

「はぁ」

 マリは、ため息をついた。『命の洗濯』と呼ばれるに相応しい。マリは温泉に入っているこの瞬間だけ、さまよい人でよかったと、心底思った。

「極楽極楽……」

 三人のハニワたちも、マリに並んでいる。

「ここはね、特別な温泉なの」

 梅が菊と菫をつれて、お湯に入る。マリは三体のハニワと入る経験は初めてだと思い、クスリと笑む。

「三途の川の水をちょっと混ぜてるの。お湯を掬ってみて」

 菊の促す通り、マリが慌ててお湯を掬うと、赤、空色、翠、金、銀など、さまざまな色の光が煌めいた。

「なにこれ……、めっちゃ綺麗」

「でしょ! ここは亡霊でも予約がとれないくらい人気店なんだから」

 菫は泳いでいると、菊が菫を掴む。菫は、溺れそうになり、口をブクブクさせた。

「だからね。特別な効能があるのよ」

 梅がウィンクしたように、一瞬だけ、右目の目蓋が目を覆った。マリが目をパチパチさせて、梅を見つめた。

「特技なの」

 梅が狐に摘ままれたようなマリをケラケラ笑う。

「マリはさまよい人なの?」

 菊はマリを挟んで、梅の反対側に座り、お湯が揺れる。

「そう。家にいたら、なんか変なアプリのせいで、こっちに来た」

「アプリ?」

 三体のハニワの頭に疑問符が浮かぶ。

「えと、スマホっていう電子機器の機能の1つで……」

 三体のハニワは、ますます首をかしげた。

「まぁ、電話器のバグで、こっちにきた感じ」

 マリは説明を諦めた。

「大変だったのね。電子機器は、妖精たちと相性が悪いよね」

「そうそう、最近、ルナへの妖精の移住は増えたし……」

「あっ、思い出したっ! そういえば、南アジアで、男に殺された女性の霊がスマホの青い鳥に乗って、探してるって話じゃなかったかしら?」

「えー! 幸せの青い鳥なのに」

 埴輪たちは怖いわぁと相槌を打ち合っている。

「じゃあ、マリはその女性に引きずり込まれたってこと?」

 マリは温泉に浸かっているにも関わらず、冷や汗をかき始めた。

「違うわよ。確か、その女性はまだ生者の世界で、探し続けてるって、新聞に載ってたわ」

「じゃあ、違うわね」

「それは、どこの情報?」

 マリは気になって、口を挟んだ。このまま、帰ったとしても、原因すら、わかっていなければ、同じことが繰り返されるかもしれない。

「大使館よ」

 三人は口を揃えた。マリは、このことをギルバートに尋ねようと頭のなかにメモった。

 マリは疲れ果てて、髪まで湯船に浸かった。

「そういえば、貴女たちは、死者なの?」

 ずっと、疑問に思っていた疑問がマリの口からすっと、こぼれでた。三体はお互いに顔を見合わせながら、クスクス笑う。

「あたしたちは、埴輪の付喪神よ」

 菊が自慢げに長い陶器の腕にお湯をかけて、答える。

「自分で、神っていうなんて、恥ずかしい~」

 菫が菊を茶化すと、菊がすかさず、菫にお湯をかけた。

「だから、ただの埴輪でも、お湯をあったかいって感じられるの」

 梅は、嬉しそうにお湯をバタバタさせる。

「傷は消えた?」

 菫がマリの腕を見つめた。マリが慌てて、髪をずらして、みると、傷が薄くなっている。

「薄くなってる……!?」

 マリが驚き、何度も肩を擦った。傷はどんどん消えていく。

「これが、特別な効能よ」

 梅が特技のウィンクをした。

 マリが風呂から上がると、泥や皺だらけだった制服は、なぜかピカピカになっていた。

 この早業にマリは驚くも、三体のハニワたちは急かすようにマリを着替えさせ、二階にある部屋へと向かう。

 


 襖を開けると、優しくも凛とした桜の香りが部屋に漂っていた。

「おいでなんし」

 6畳半ほどの畳の部屋で、千羽鶴が窓のところに掛かっている。その奥の化粧台の前に本物の夕霧が座っていた。軽装で、無地の紺だったが、この人は何でも着こなすのだなと思った。マリは、思わず下を向く。夕霧に対して、怒りを抱けばいいのか、文句を言えばいいのか、泣けばいいのか、わからなかった。

 夕霧がそっと、マリの手を握った。亡霊らしい、冷たい手だったが、滑らかで真っ白な手だった。マリに酷いことをしたのに、この人はなぜ手を掴めるのかと思ったが、なぜだか安堵してしまう。

「ここに座るなんし」

 思慮深く、低い声があたたかな部屋に響く。本当はこの人が根っこから悪い人でないことを分かっていた。けれど、お互いの立場が悪かった。

 マリは黙り込んだ。マリは、夕霧はマリに囮になることを強要するのではないかと、疑っていた。夕霧はちゃぶ台の前に座った。マリはちゃぶ台と、似合わないなというどうでもいい感想を抱いた。

 夕霧はお茶を注ぐ。梅は、箱から黍団子を出して、それぞれのお皿に並べる。

「あ、さっき、ヤモンがくれたやつ」

 化粧のことですっかり忘れていたが、梅に渡していたようだ。

「ギルバートからの輸入品でありんす。召し上がりなんし」

 気付けば、空腹だった。疑っていたことも忘れ、マリは躊躇わず、お茶と黍団子を頬張る。

「お腹が減っては戦はできぬー!」

「ふふ、菫は食べ過ぎよ」

「ひどーい! 菊姐さんだって、太ってるくせに」

「二人とも、痩せてるでありんす」

「夕霧姐さんは、痩せてるからそう言えるです!!!」

僻み(ひが)はよくないでありんすよ」

 四人は和気あいあいと話始める。なんだか、懐かしいとマリは感じた。皆の会話が落ち着くと、夕霧が口を開いた。

「マリ、女の武装をするでありんす」

 夕霧はしずしずと化粧台の前に行き、化粧箱を開いた。いよいよ囮にさせる気かとマリが思うと、夕霧はみすぼらしい顔と、一言言う。

「マリ、自分でできるし」

「女の子同士の楽しみでありんす。そんなこといいなすんな」

 マリの怒りをよそに夕霧はマリの前髪を手早く、ピンで留める。『花の露』と呼ばれる伝統的な化粧水を夕霧がつけている間、マリは瞼を閉じた。ほっそりと繊細で、しっとりした指だった。そのあと、頬に筆の感覚を感じて、そっと目を開けた。

「ヒャッ!!」

 鏡には、金髪のピエロが映っていた。

 夕霧はどうしたでありんすかと、筆を止めた。マリは、慎んで白粉を辞退した。それから、マリはどうしても納得できないところを遠慮なく、夕霧に伝え、メイクしていく。

 夕霧はあいあいと言いつつも、楽しそうにマリのメイクを施す。

 マリが化粧箱を覗くと、花の形の箱や木箱が入っている。その中に輸入品のアイシャドウもあったので、マリは目尻に赤を、涙袋にはキラキラの白を入れ、強調させる。アイラインを慎重に、いつもよりも、切れ長にする。

 夕霧が思わず、感嘆の吐息を漏らした。ハニワたちも真似するように、化粧箱を漁り始め、色を必死に入れようと、描き殴っている。

 最後にマリは唇に紅を引き、夕霧に促され、紙を食む。

「ナチュラルすぎ」

 マスカラもしてないので、いつもより控えめで、目元の赤がアクセントになっている。

「夕霧様は、ほとんどナチュラルなのに、綺麗でズルすぎ」

「そんなことないでありんす。今後、輸入品を使おうと思ったでありんす」

 そのとき、元気な声が弾けた。

「できたっ!」 

 菫菊梅たちは、全身真っ白になっていて、幼稚園生が描いたような出来栄えだ。ケバイというより、根本的に何かが違うと思ったが、微笑ましかったので、マリはそのままにしておいた。

「夕霧様、ギルバート伯爵で呼んでいるでありんす」

 襖を少し開け、サヨの焦ったような声が聞こえる。夕霧はそれにゆったりと返事をすると、マリに態勢を向け、両手を握った。

「マリならできるでありんす。ただ、勇気を振り絞るだけでありんす」

「命を懸けるような場面でも、同じこと言える?」

 マリは自信なげに、顔を下にそらした。

 夕霧はそんなマリに、にっこり微笑むと、唇の隙間から、お歯黒がちらりと覗く。

「新しいことに挑むときは、やるか、やらないかでありんす。やれば、死なぬ限り、失敗したとしても、前に進めるでありんす。やらなければ、他者に流さるまま」

 そういうと、夕霧はしなやかに立ち上がり、足袋の間隔を狭く、しずしずと開いた襖から去っていった。

「失敗したら、死ぬじゃん」

 マリはそういいつつも、どこかで同じようなことを聞いたような気がした。

「マリ、見て!!」

 無邪気な菫のほうをみると、マリは仰天した。ハニワたちは、ムンクの叫びのような顔面になりつつあるのをみて、口をひきつらせた。

 思わず菫の頭ををズイッと掴む。キャーと菫はUFOキャッチャーのように、マリによって、化粧台の前に運ばれる。菊と梅は、驚きと期待の目で、マリを見つめ、後ろにトテトテとついていった。

 マリは神様という事実を忘れて、ものすごい勢いで、菫の顔を布で拭いていく。アガガガガという悲鳴をあげて、菫の顔面は元にのぺっとした顔に戻る。

 マリはピンクのカーディガンを腰に巻き、腕まくりをした。そして、菫の顎をガッとつかむ。

 菫は殺されるのではないかと怯えた表情を浮かべるも、マリ丁寧な手つきで、白粉をムラのないように、塗ろうとした。

 なかなか表面につかなかったので、化粧水を混ぜると、高価な白粉は絵の具のように塗られていく。そして、ポッカリ空いた穴の目尻を太めにはねあげるようなアイシャドウを入れる。頬上にピンクを入れ、最後に目の横に、青の小さなスミレを数枚、描く。

 可愛らしい埴輪が出来上がっていた。菫を放り出し、次に菊、梅を掴む。ベースメイクを菫と同じにして、菊には頬に黄色の花を描く。梅は、紅い花を目の下に、黒子のように描く。

「かわいいっ!」

「こんな、メイク初めて!!」

「やっぱり、マリに任せれば安心ね」

 菫菊梅が頬を染めて、町娘のように、鏡の姿を見て、みとれている。

「まだまだだよ」

 まだ可愛く出来るのにと、マリは謙遜気味に答える。

「あら! それでも、褒め言葉は素直に受け取るべきよ!」

「だって、私たちの褒め損じゃない?」

「褒め損って?」

 いつも通り、三人のすごい勢いに押される。

「褒め言葉はね、あたしたちの感謝なのよ」

「お世辞だったら、お世辞って言うから」

 ケラケラと菊菫梅は笑う。マリはこんな正直な性格なら、卑屈にならずにいられるのかと、思った。どこかで、デザイナーになりたいと言うことを、恥ずかしいと思っていた。

 マリの友達は、そんなこと思わないが、母が、大学に行って、普通の大人になることを口酸っぱく言っていたからかもしれない。

 そのせいか、卑屈になる癖が出来ていた。

 マリ自身の才能はまだまだだが、他の人の素直な感謝まで、萎えさせるのも失礼なのかと改めて、マリは感じた。

「どういたしまして」

 マリが照れながら言うと、ハニワたちはマリに無邪気にハグをする。

 襖からひょっこり、ヤモンは顔を出した。

「わぁ、みんな綺麗!!」

 四人は顔を見合わせて、キラキラとした笑顔で笑った。

「ありがと!」



 ヤモンは散歩しようと強引にマリを庭に連れ出した。月はそんな二人を嘲笑うように、照らしている。

 マリが池の周りをぴょんぴょん歩くヤモンを見つめる。ヤモンはもじもじとしていたが、暫くして立ち止まった。

「マリ、ボクがマリを逃がしてあげられるよ」

 本当に本当に小さな声が響く。マリがヤモンをはっとして見つめた。マリはその言葉に、微かに逡巡(しゅんじゅん)た。

「ヤモンなら、そう言ってくれると思った」

 マリが池に映る月を眺めると、マリとヤモンの姿が綺麗に見えていた。

「だって、エリスの囮にマリがならなくても、プスさんやウィルさん、アンドリューさんたちが、なんとかしてくれるよ」

 ヤモンは必死にマリの逃げ道を作る。小さな体をぴょんぴょんさせて、必死に演説する。

 マリがヤモンの前にたって、顔をみた。マリの長い金髪が風に靡き、紅の唇を開く。

「あのね、私もめっちゃ逃げたい」

「だったら、ボク、今から夕霧様から、あの世の鍵を盗んでくるよ!」

 ヤモンはとんでもないことを言って、走り出そうとするのを、マリは苦笑したて、止める。池の中に鮮やかな葉が落ちて、波紋が広がった、。

「ありがとう、ヤモン。だけど、大丈夫」

 マリがルナに来て以来、一番の微笑みを浮かべた。

 心のなかは不思議なほど、ポカポカしていた。マリが最高の囮だから、みんな優しくしてくれたのかもしれない。そんな、考えも()ぎる。

 きび団子を食べさせてくれたのも、綺麗にしてくれたのも……。しかし、マリは久しぶりに、穏やかさや笑みを夕霧や菊菫梅が与えてくれた。そのおかげで、頭の中がスッキリしていた。

(ほだ)されちゃった。みんなが、ヤモンがずっと味方でいてくれたから、私は、エリスを煉獄に追い出したい」

 ヤモンは星のような円らな瞳を向け、一言も漏らすまいとしている。

 マリがヤモンの側に、しゃがんだ。

「ヤモン、私は元の世界に戻りたい。ファッションデザイナーになる。そのために、今一番、勝率の高い方法を選ばなきゃって、思うんだ」

 それに盗む方が面倒そうだしと、マリは付け加えた。

 マリが1拍置く。月に雲がかかる。

「ヤモン。だけど、エリスと立ち向かうのは、マジで怖い。だから、一緒にいてくれないかな」

 鍵は罪を問われだけだが、エリスと、立ち向かうことは、自分が喰われる可能性がある。おそらく、夕霧から、あの世の鍵を盗むよりも恐ろしいこと。

 マリは自分勝手な願いで、ヤモンを巻き込もうとしている。責任逃れといわれても仕方がないが、ヤモンに決めてほしかった。

「もちろんだよ!」

 胸をポンッと叩き、ヤモンは即答した。

「え、でも、ヤモン、危ないんだよ?」

 お願いしてるマリは、拍子抜けした。普通の人は、命の危険がある事件そのものに対し、断ったり、無視したりする。大体の人間はそうする。事実、マリも作戦会議でそうしようとした。

「ボクはね、マリの正義のヒーローでいたいっ!! だから、一緒にいさせて」

 ヤモンがピョンと、マリの懐に飛び込んだ。

 きゅっと、マリの制服を掴み、頭を寄せる。

「なんで、そんなに、助けてくれるの……?」

 マリはヤモンの得体の知れない好意に不信感よりも、驚いてしまう。

「だって、困ってる人がいたら、助けるのは当たり前でしょ?」

 ヤモンはこちらをみた。打算や恐怖のない、不思議な瞳だった。

「ほんと、お人好しよね」

 マリはあきれ果てた。ヤモンはへへへとわらっている。ヤモンの周りに常に人がいるのは、こういうわけかもしれないと、マリは思った。

 池の中の木の影に潜んでいた影は、その会話を見届けると、池から20畳の広間のほうへ静かに跳ねていった。

 

 作戦会議を行った広間の行灯が揺らめく。ベルベットの椅子に深く座り込んだギルバートは瞳を閉じ、眠っているように見えた。

 そのとき、長い机の陰が微かに動く。ギルバートは片目を開けた。それに合わせたように、机の影は、1mほど大きくなり、ウサギの影となる。

 そして、あっという間に、影は青い目の白ウサギへと変化した。ギルバート専属の影のスパイたちだった。ギルバートは彼らを使って、ルナを監視している。その情報を知っているのは、ルナの一部の者たちだけだった。

 影の白ウサギはギルバートに短く耳打ちする。ギルバートは口角を上げた。そのまま影の白ウサギは、机の下に潜り込む。再び陰となり、闇の中に紛れていった。

「ギルバート、何の知らせだ?」

 プスは、険しい表情で地図をみている。プスも影の白ウサギを知っているうちの1人だった。煉獄の悪魔に引っ掻かれた傷は治ったようで、平然と立っている。

「すぐに耳に入るよ」

 ギルバートはにっこり、梟の嘴の口角を上げた。プスは眉間に皺を寄せながら、首をかしげた。

 そのとき、襖の奥から、少女の影が現れる。

「ギルバート伯爵、入ってもいいですか?」

 細い声の芯の通った覚悟を決めた少女の声が響いた。

 どうぞと、ギルバートは両目を開けた。

 マリがひんやりと冷えた手で、襖を開ける。その横には、ヤモンも立っていた。板に貼られた地図の前にプスが立って、会釈されたので、マリとヤモンは礼を返した。ギルバートはベルベットの椅子から立ち上がると、その長い腕を大きく広げて、よくきたねと、マリとヤモンに椅子を勧めた。

 マリが唾を飲み込んで、そこに座る。

「マリ、どうしたんだい?」

 プスは輸入品のカモミールの紅茶を2杯分、注いでいく。マリがそれをありがたく受け取る。林檎の甘い香りが、鼻を抜け、お腹の中があたたまる。少し、緊張が和らいだ。

 全員が席に座るのを見届けると、マリは意を決して口を開く。

「囮の件について、話があひまして……」

 緊張のあまり、盛大に噛んだ。プッと、ギルバートが吹き出した。プス、ヤモンは、その失態を笑わないように、顔をそらして、唇を噛み締めている。

「失礼、続けて」

 マリは頬が赤面するのを感じた。しかし、それと同時に、もうどうでもいいやという思いになり、ふうっと息を吐く。

「私、囮になります」

 マリがはっきり言うと、プスは驚いたように猫目を細めた。

「危険な役割だよ」

 プスは念を推すように言う。マリはその目を見つめながら、答える。

「わかってます。それでも、やらせて欲しいんです」

「ミスは、許されない」

 ギルバートは、低い声でさらりと、マリを追い込むようなことをいう。マリは思わず、ギルバートを蛇のように睨んだ。

「ミスしたら、私が死ぬじゃないですか」

 あぁ、そうだねと、ギルバートはそのマリの目線を飄々と受け流した。夕霧よりギルバートのほうが、残酷な一面があることを、マリはひしひしと感じた。

「ボクも囮になるよ!」

 ヤモンは手を上げて、プスとギルバートを見つめた。ギルバートはその長い足を組み直し、プスを見た。

「プス、ならば、マリの導き手にするのはどうだい?」

「なるほど。マリを囮にするなら、必須だが……」

 プスは、マリを気遣いげに見つめた。

「マリ、私はエリスと立ち向かう君を見ている。本当に大丈夫かい?」

 マリはプスの優しげな瞳に、胸になんともいえない感情が込み上げて、コクリと頷く。

「今のマリなら、大丈夫よ」

 グレーテルの声が廊下から響いた。襖から、グレーテルが、ヘンゼルを肩に背負って、歩いている。

「ヘンゼル! 大丈夫!?」

 ヤモンが椅子からピョンと立ち上がり、ヘンゼルに椅子を勧める。ヘンゼルの顔色はすっきりしていて、明らかによくなっている。

「温泉に入ったから、もう大丈夫だよ」

 ヘンゼルがヤモンに柔らかく微笑んだ。グレーテルがヘンゼルの横に座る。

「プスさん、僕もグレーテルの手伝いをしてもいいですか?」

 マリが驚いて、ヘンゼルを見つめた。なよなよしていると思っていたけど、意外と芯がある。

「なら、運搬の連絡係になってくれ」

 プスは即答だった。若いながらも、冷静なヘンゼルは、じゃじゃ馬気味なグレーテルを上手く押さえてくれる。ヘンゼルはほっとした表情を浮かべているのに対し、グレーテルの表情は曇り気味だ。

「皺、よってる! グレーテル! 老けてる!」

 いつの間にか、隣に立っていたアーヴィンがグレーテルの肩をポンッと叩いた。グレーテルは怒りの拳をアーヴィンに向けるのをヤモンが必死に止めている。

「グレーテル、アーヴィンは君を慰めてるのさ」

「そんなわけないでしょ!」

 グレーテルに追いかけられているアーヴィンは相変わらず楽しそうに、逃げ回っている。

「そろそろ、作戦会議をしようか」

 プスが駆け回る子供たちに、にっこり笑いながら重く声をかけた。その目は、全く笑っていない。

 子供たちはピシッと固まると、いそいそと椅子に座った。マリは決して、プスを怒らせるまいと、椅子の上で身動ぎした。

「作戦だが、ここからは極秘になる。漏れたら、ルナは終わりだ」

 ギルバートは砂糖を混ぜながら、にこやかに告げた。

「それじゃ、説明しようか」

 瞳を鋭くさせたプスは柔らかな声で、『エビの踊り食い作戦』の全貌を説明し始めた。

 『エビの踊り食い作戦』を聞き終わったあと、真っ暗な廊下で、ヤモンをつれてないマリがギルバートを呼び止めた。ギルバートは長い足をピタリと両足を揃えて、振り返る。

 最初に会ったときよりも、ギルバートの不気味さは増している。

「伯爵、聞きたいことがあるんですけど、マリをこの世界に引きずり込んだのは、伯爵ですか?」

「どうして、そう思ったんだい?」

 ギルバートが笑ってない瞳で、にっこりと嘴を上げた。暗闇の中、浮かび上がる姿は、死神のようにも見えた。

「貴方くらいしか、そんなことはできないんです」

「幽霊が生きた人間を死者の世界に引きずり込むこともある」

 ギルバートはステッキに少し(もた)れる。

 月は、赤い。

 やはり、青い鳥の女性の幽霊のことも、知っているのだろうとマリは推測した。

「じゃあ、貴方は、私をルナに引きずり込んでないことを、嘘をついてないことを誓えますか?」

 マリがギルバートの目をまっすぐ見つめた。闇の中、星空のような青い瞳がキラキラ輝く。

「あぁ、誓おう」

 嘴の奥から、男性の低い声が響いた。マリは瞳の美しさに思わず、息をのむ。

 ルナで嘘はつけない。

「疑ってごめんなさい」

 即座にマリは、ギルバートに謝罪した。

「あぁ、女性に疑われるのはいつものことさ」

 ギルバートは鼻唄を歌いながら、気にせずもせず、去っていく。

 マリはそんなギルバートの後ろ姿を見つめた。

 ギルバートでないのなら、誰がマリをルナに引きずり込んだのだろうか。

 マリは後味の悪い思いを抱えて、作戦の配置場所へと向かった。

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