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第1章 異世界 

 生き人さん! 生き人さん!さまよったのかい! 

 困ったねぇそうだぃ! オイラと駆け引きをしよう 

 あそこに川があるだろ?

 岸に着けたら お前の勝ち

 たどりつけなくても お前の勝ち

 え? 

 そんなバカな話があるかって?

 へへへ そんなこたねぇ おめぇさん もう負けてるからよぉ


 灼熱の空に、日が沈む直前の、地上よりも遥かに大きく、真っ黄色な三日月が東の空に浮かでんいる。

 この世界では太陽が昇ることも、日が落ちることもない。

 ただ、月が、日夜、照らしているだけだ。

 三日月は朱色の橋、『閻魔橋』を照らしていた。今日も一人、なにも知らない亡者が死者が三途の川に流れ着いた。

 男は気づくと、川の横に横たわっていた。

「どこだ? ここは?」

 生前、彼は会社のお金の横領を巧妙に行い、私腹を肥やした男だ。

 男は、そのどっぷりした腹を抱えて、生前は細い目で嫌らしい笑みをニタニタ浮かべていたが、今、その目には戸惑いの色が浮かんでいる。

 深夜連日、ラーメン、焼き肉、ラーメン、焼き肉……と、立て続けに食べた結果、つい先日、ポックリ亡くなった。

 しかし、男は死ぬ直前の記憶がない。思い出せないのだ。

 黒い霧が辺りで漂っている。左には、幅が10メートルはある川がある。

「深いんだろうか?」

 男は、腹を地面に沿わせ、川を覗き込む。

 なんとも、不思議な川だった。

 地上の水よりもゆっくりと流れていて、ほとんど波がない。表面は白く濁っている。じっくりと覗き込むと、濃い蒼がちらちらとみえる。

 ずっと、眺めていられた。

 見ていると、さまざまな色の光が、静かに主張している。

 男は小さな目をよく凝らした。

 川底で数えきれないほどのまぁるい光が仄ほのかに発光し、底に沈んでいる。

 鮮血の光が多い中、庇護欲そそられる淡い桃色の光、太く泡を出しながら、広がる蒼い光、黄金の蜂蜜のような光も、いくつかみられた。

 古く、色褪せたまぁるい光は、川の底から浮き上がり、徐々に透明になっていく。

 男は目を瞬かせた。

 そして、とにかく、どこかへ行かなければ、という衝動に駆られた。

 男が見上げると、霧がわずかに晴れていた。

 右手は、薄暗く、鬱蒼とした森があり、川の向こう側には、異様に細長い枯れ木が1本、ポツンと立っている。

 その横には黒い鳥居がそびえ立っていた。

 男は不気味に思った。

 喉にイガイガを感じ、タンと共に唾を吐く。

 とりあえず、どこかへいかなければ。

 何か無いかと辺りを見渡すと、近くに朱色の橋が架かっていた。

 右手の森を見る。

 一度は行ってしまえば、帰ってこれないほど、深い森だ。

 男は森に行くよりはマシだと思い、朱色の橋の方へ歩きだした。

 橋の近くまでくると、視界の右端に木の看板が立っている。

『閻魔橋 善良な人間のみ、渡るべし』

 男は、閻魔橋という聞き覚えのない橋に首を傾げた。

 こんな橋、日本にあっただろうか?

 まだ死んだことに気づいていない男は、橋に近づく。

 近くで見ると、かなり古い橋のようだった。下手したら、踏み外してしまいそうだ。

 男は善良でない自覚があったので、勿論渡ることにした。

 慎重に足を踏み出す。

「大丈夫かしら?」

 どこかで言葉とは裏腹に、面白がる女の声が聞こえる。

 男が橋の上に立った瞬間、重みに耐えかねた板が、ギシりギシリと音を立てる。

 バキッと木が折れた。

 男はすかさず、急いで後戻りしようとした。しかし、乗っていた板もバキッと折れた。

 男は浮遊感を感じて、落ちたと感じた。

 実際には、でっぷりした腹が挟まった。

 なんとか橋の上に上がろうと、贅肉だらけの腕で踏ん張るも、体はどんどん下がっていく。

「誰か助けてくれぇ!!!」

 なんとも情けない叫び声を上げる。

 そのとき、クスクスと女の笑う声が聞こえる。

 男は細い目を左に凝らすと、岩場には下半身が魚、上半身が人間だが、蒼色をしている女たちが男を見て笑っている。

 怒りよりも、この生き物たちに驚きを覚える。

「ば、化け物!?」

 男は目を丸くして、瞬きを繰り返した。そして、嫌悪を感じた男は、首でしっしっと、遠ざけようとする。

「あら、失礼ね。三途の川のニンフよ。ご存じない?」

 悠々と川を泳ぐ女は、男をさらりと無視して、答える。

 ニンフ? 三途の川?

 男はこれは夢だと思った瞬間に、手の力が抜けた。

 男があっと思うのと同時に、ぽっちゃりしたお腹が板を抜け、真っ逆さまに川に落ちた。

 ニンフたちは歓声を上げた。

 男は川辺へ行こうと、必死に水を掻くも、自慢の高級スーツはスポンジのように水を吸い込み、腕が鉛のように重い。

 体は今にも、沈んでしまいそうだ。

 不思議なことに川の水は冷たいとも、生ぬるいとも感じない。

 男はやはり、夢だと思った。

 しかし、息苦しさはある。これが、精神的なものなのか、物理的なものなのか、判別できなかったが、沈んだらとんでもないことになるという確信にも似た予感が、男を突き動かす。

 男は水をゴボゴボと飲み、顔が水面に沈むギリギリのところで、川岸へ犬のように泳いでいく。

 ニンフたちがこれから起こることに、期待の目で見つめた。

 ニンフたちは、待っていた。

 彼らが現れるのを……。

 男は、濡れて、かなり重たくなったスーツを引きずるようにして、砂利の上を歩く。

 ジャリジャリ……。

 靴と小石が擦れる音が辺りに響いた。空は相変わらず、赤い。

 男は、趣味の悪い夢だと思った。

 男が川岸に着いた途端、急に深い霧が鳥居の近くに立ち込める。

 男の周りにも、霧が覆い始める。

「まずい」 

 男は鳥居を見失わないよう、小走りになった。

 そのとき、にゅっと右手が伸びた。男はその方角を小さな目を向けた。

 見ると、汚らしい皺だらけの手がスーツの袖を掴んでいる。

 霧の中からは、深い皺を刻んだ顔がにっこり笑っている。真っ白な髪を後ろに束ね、ボロボロの綿の服を着ている。

「お客人」

 老婆の猫なで声で話し、男は背筋にぞわりと鳥肌が立った。

 よく見つめると、眼球があるはずの目の中は真っ黒だ。

「わぁ、放せっ!」

 男は、老婆の細い手を振り払おうとするも、服と手がくっついたようで、外れる気配がない。

「遠方からよくやって参りました。服がお濡れでしょう?」

 スーツを破る勢いで引っ張る老婆の力は、若者より勝まさる。

「い、いえ! お構い無く!!」

 男は老婆にスーツを渡さないよう、足を踏ん張る。

 老婆はひょいと力を抜き、男の体勢を崩した。

 「あ……」

 男はなんとも間抜けな声で尻餅をついた途端、老婆は襲いかかり、高級なジャケットを剥いだ。

「婆、遅いぞえ」

 霧の中から、ぬっと老人の顔が現れた。

 男は歯をガチガチ鳴らした。なぜなら、破れた服の隙間から、蛆が這い出ていて、手には血の滲んだ斧を持っている。

 悪夢ならば、早く目覚めてくれと男は祈った。残念ながら、その願いは叶わなかったが。

「せっかちじゃのう。ほれ」

 老婆は男が着ていたジャケットを、老人の方へひょいと投げる。

 男は一挙一動、老人の様子を見守った。持っている斧で切り刻まれては堪らない。

 ニンフたちも、川岸に続々と集まり、見物し始めた。

「ね、どうなると思う?」

 ニンフのなかで最も若い金髪の女が好奇心いっぱいに尋ねた。

「あら、そんなの決まってるわよ」 

 先ほど男の質問に答えたニンフは、楽しそうに男を見る。

 老人は、軽い足取りで鳥居の近くにある枯れ木の前に立った。一番低い枝に、無造作に男のジャケットを投げ掛ける。

 枯れ木の細い枝はなんともならないのかと思いきや、面白いくらいに、ぐにゃりと、地面近くまで曲がった。

 ニンフは、やっぱりねと、口を押さえて、クスクス笑う。

 男はなにがなんだか分からず、老婆の下敷きになったままだ。

 老人はジャケットを持って、こちら近づいてくるのを、恐怖の目で見つめた。

「助けてくれ……」

 男は絞り出すように口を開くと、老人はにやりと笑った。

「閻魔に言うといいぞえ」

 老婆と同じく眼球のない瞳だが、嗜虐しぎゃく的に笑っていることは、わかった。服の袖から、ポロり、ポロリと蛆が落ちていく。

 老婆が男の右腕を、老人が左腕をちぎらんばかりに掴んだ。

「いたいっ!!!」

 このとき、はじめて、男はこれが夢でないと確信した。

 二人は、男を黒い鳥居の奥のほうへズルズルと引きずっていく。

 男が黒い鳥居の中で見えたのは、こん棒で人間を袋叩きにして、拷問する数百の鬼たちだった。

「お願いだ。こないでくれ!」

 男の錯乱する様子を、ニヤニヤと鬼たちは嗤っている。

 あぁ、俺は道を間違えたのだ。

 そのあと、男がなぜか思い浮出したのは、石鹸の香りを漂わせる生まれたての息子と赤子を抱いて笑う妻の姿だった。

 その後、男は悲鳴を上げながら、鳥居の奥へ消えていった。

 この橋を知らずに渡る罪深い者は痛い目をみる。

 橋を渡った向こう側には、鬼形の奪衣婆だつえばと懸衣翁けんえおうが息を潜めているからだ。

 姥おうなが橋を渡ってきた来客者の服を剥ぎとり、翁おきなが衣領樹えりょうじゅと呼ばれる樹に掛ける。

 三途の川に棲すむニンフたちは、生者からの世界からの来訪者たちに、気まぐれに助言する。

 未練があるなら、森の奥にある街でゆっくりしてから、橋を渡りなさい、と。

 しかし、その恩恵を受けるのはわずかな人たちであった。大抵たいていの場合、ニンフたちは沈黙し、翁と媼が服を剥ぐ様子を喜々として観戦している。

 ニンフたちは、橋と反対の北側のほうへ泳いでいく。

 三途の川にはニンフと亡者以外にも、来訪者がいた。

 釣りの道具と赤いハンチング帽を被った50過ぎの老人がボートに乗っている。薄くなった頭に乗った赤いハンチング帽は少年の頃からの相棒で、すっかり色が落ちている。真っ白になってしまった髪とセルリアンブルーの瞳が楽しそうに輝いている。白いTシャツと組み紐でズボンを吊り下げた軽快な緑色のサスペンダーがパンパンな腹によく似合っている。

「アンディ、何やってるの?」

 ニンフたちは、ボートをゆらゆらと揺らした。

「釣り」

 ニンフたちはケラケラ笑った。三途の川に魚なんか、いないからだ。

「おかしな人」

 ニンフたちは、老人に関心を失ったようで、近くで水かけっこをし始めた。

 アンディは、竿から糸を垂らして、生前の記憶の釣りをするというスタンスを楽しんでいる。

 生前の記憶に馳はせることが老人の死後の楽しみなのだ。 

 アンディは、生前、忙しい日々から抜け出すように、川へ釣りに出た。

 ぼんやりと水面を見つめているうちに、自我が溶けていく。不意に魚の重みを感じて、生に戻る瞬間が好きだった。

 アンディはときどき釣り竿を揺らして、引き上げたりしている。

 そのうちに、奪衣婆と懸衣翁が閻魔の元へ亡者を届け、再び三途の川へ帰ってきた。

 すかさず、川で釣りをしているアンディに声を掛ける。

「アンディや、こっちにいい獲物がいるぞえ」

 奪衣婆が皺だらけの顔に本人たちは愛想のいいと思う、不気味な笑顔を張り付かせて、手を振っている。しかし、その目は、隙あらばアンディの服を剥ごうとギラギラと光らせている。

 アンディは彼らに陽気に手を振り、鼻歌まじりに釣りをしている。

 奪衣婆と懸衣翁は、手の届かないところで、悠々としているアンディに歯をギリギリと鳴らしている。

 アンディは飽きると、ハンチング帽を顔に載せてゴロリと寝そべった。

 川の上では、羽が生えた花のように小さな妖精、ピクシーたちが鈴を鳴らすような音で笑いながら、小さな赤い果実を運んでいる。

 もし、アンディの日本人の妻がこの場にいたら、

「三途の川で釣りなんて罰当たりでございますよ」

 と窘なだめてくれるところだが、その妻は先に極楽浄土へと行っている。

 アンディは眉間に皺を寄せながら、いい加減な自分を一心に支えてくれた妻を思い出し、ニヤリ笑った。

 波の音と妖精が話す鈴のような音が心地よい。

 その中にギギっという音が混ざり、アンディは飛び起きた! 

 竿を引く音だ! 

 アンディは、もしやニンフたちがいたずらをしたのかと、岩場のほうをみる。

 ニンフたちは、遠くで楽しそうに水かけっこをしている。

 アンディはその身からは考えられない俊敏さで竿を掴み、引っ張り上げる。

 ほどよい重さにアンディの身体も川面に引っ張られ、アンディも足を踏ん張る。

 釣り人としての勘が訴える。

 間違いない、生前の記憶の中でもなかなかの獲物だ。

 カラカラと回る音に久しい高揚こうよう感が肩をすり抜け、首の裏に走った。

 アンディの腕に青筋が浮かべて、ボートに足をかけ、踏ん張る。

 ニンフたちがその滑稽こっけいな様子を見て、くすくすと笑っている。

 アンディはそんなことに気づかず、引き上げ続ける。

 ニンフたちも、何が釣れるのか、気になるも、近づくことを恐れ、遠くで応援し始めた。

 10分ほど経っただろうか。

 ニンフたちが飽きて、再び水のかけ合いっこをし始めたとき、うおぉというアンディの歓喜の声が上がった。ニンフたちは、直ちに水かけっこをやめ、岩場の上から、首を伸ばした。

 大きな黒い影だった。ピクリとも動かず、暴れていない様子にアンディはいぶかし始めた。

 しかし、姿を見るまで引き下がれない。

 波が一切立たない、奇妙な光景にニンフたちが身を乗り出し始めたとき、ざぶーんと波が高く吹き上げた。

 たちまち臆病なニンフたちは、本来の姿であるアザラシの姿に変身し一斉に岩陰に隠れる。 

 何事かと、奪衣婆と懸衣翁も川辺に身を乗り出した。

 アンディは皺だらけの目をまん丸と見開き、尻餅をついていた。

「女子高生、釣れた……」  そこには、高校の制服を着た金髪の女の子が竿の先にぶら下がっていた。



 夏休みになると、マリは祖父母に会うために山奥にある実家に帰る。 実家では、古くから旅館をやっていて、仲居さんや従業員の人が、立派な旅館の離れにある家で寝泊りをしている。マリが畳を拭いて、ときにお客さんにご飯を出したり、お手伝いをする。そのあと、仲居さんたちがこっそりお菓子をくれるのが楽しみだった。

 しかし、幼いマリがずっと気になる部屋があった。本館の薄暗い地下にある『開かずの部屋』だった。鍵がかかっているのは勿論、いつもは達者な仲居さんたちも口をつぐんで、微笑む。謎は深まるばかりだった。マリは幼いながらも誰もが決して話さない謎の部屋に好奇心をウズウズさせた。

 9歳の夏休みに、チャンスは唐突に来た。旅館の予約が満員になって、皆が出払っているときだった。もしかしてと思って、地下室に忍び込むと、なんと「開かずの部屋」の扉が空いていたのだ。「スパイみたいに、錠前じょうまえを開けたかったのに……」勝ち気なマリは、残念そうに針金を仕舞って、お気に入りの紫色の着物を着たピンクのクマを抱きしめる。

 そして、光が漏れた部屋にそろりそろりと近づき、顔を半分だけ覗かせた。和と洋が入り交ざった不思議な空間が広がっていた。常夜灯がぼんやりと照らし、数体のマネキンが豪奢なドレスやパーティー服を着ている。中でも、豪華なデザインは、中世風のドレスだった。赤の生地の上に、白の薔薇が贅沢にもいつくも刺繍が施されている。フリルは包みこむように、滑らかな白い生地のドレスが重なっている。ふと、部屋の隅にあるマネキンに目が入る。細身の女性用のドレスで、薄い色とりどりの布は巻きついているのだが、このマネキンだけ、半分も完成していない。その近くに、足踏みミシンが置いてある。立派な木材で、黒塗りに細い金が施されているレトロミシンなモノだった。机の上には、緑の絹でできた小物入れと写真立てが伏せて置いてある。マリは、その写真立てを手に取ろうとした。

「ダレ?」

 独特なニュアンスの男の人の声が、扉の近くで聞こえた。マリはビクリとして、振り返る。妖精のような美しい男性が立っていた。金髪の青い瞳は子どもっぽく煌めき、小さな鼻で、すらりと身長の高い外国の人だった。ジーパンに白ニット、細身の体によく似合ってた。容姿に胸をときめかせた。しかし、綺麗な顔がちょっと怒っていて、マリはクマのぬいぐるみをぎゅうと抱きしめ、固まってしまった。

「えっと、マリです」

 小さな声で応えた。

「マリ……、マリ……」

 思い出すかのように、男の人は何度も反芻して、二コリと笑った。

「由紀子さんのお嬢さんだね」

 由紀子は、マリの母さんの名前だった。マリはコクリと頷く。

「ボクは、ジョン。アサミのダンナさんだよ」 

 細身の身体とは思えないくらい、骨ばった大きな手を差し出して、くしゃりと笑う。マリがおずおずと手を差し出すと、ちっちゃな手がすっぽり覆われた。不思議な雰囲気の人だった。年齢不詳という言葉が似合う。

「ここで、何をしていたの?」

 ジョンはその悪戯っぽい瞳を寛容に柔らかくさせ、こちらを見つめる。マリはその視線をぎこちなく感じた。

「えっと……、扉が開いていたから」

 マリは視線を下に向けた。あっと、ジョンは自らの額を叩いた。

「あ、そうかそうか」

 マリは後ろめたさを感じた。泥棒扱いされても仕方がない。思わず、赤色のチェック柄のスカートに入れた針金に右手が触れる。

 「えと、あのマネキンはどうして完成していないんですか?」

 マリは布をかけられただけの不格好な恰好のマネキンに話題を変える。ジョンは細長い指でマネキンにそっと触れようとして、何か思い直しかのように、ふっと笑って、手を下ろした。マリはジョンがくるくると表情を変える人だと思った。

 「あれは、朝美叔母さんの……、叔母さんっていったら、怒るか。特別な人のための衣装なんだけど。あの衣装だけはずっとスランプみたいで」 

 ジョンは籠の中にある帽子を手に取り始めた。

 「結局、死ぬまでに完成しなかった作品の1つなんだ」

 ジョンは赤色の魔女のような帽子を被った。自由な人だった。マリは、ジョンが叔母さんの話をしているのを新鮮に感じた。マリが母やおばあちゃん、仲居さんに朝美叔母さんの話を聞こうとすると、コケシみたいに黙るからだ。それは死んでしまったから、語られないのだと思った。けど、ジョンから朝美叔母さんの話を聞けて、マリは開けちゃいけない宝箱を開ける、楽しい気分になる。

「そういえば、そのクマの着物、お母さんに作ってもらったの?」

 クマが着ている紫色の着物は、ぶかぶかで歪んでいる。「ううん。マリが作った」そういって、ぬいぐるみを掲げると、ジョンは感心したように唸る。

 「ちょっと、手直ししてもいい?」

 ジョンが手を差し出す。マリが躊躇ためらっていると、ちょっとだけだからと、ジョンは屈託なく笑う。ジョンのキラキラした瞳をみて、マリはおずおずとぬいぐるみを差し出した。それから、ジョンは足踏みミシンの端にある緑色のサテンの小物入れを取った。マリもジョンの後ろに付いていく。中から、金の細い糸を手に取って、ぬいぐるみの着物の糸を引き抜く。

「あっ」

 マリが驚いて口に手を当てる。ジョンは気にせず、着物の端をサイズが合うように縫い直していく。それをクマに丁寧に着せると、歪みもなく、ピッタリした丈になった。

「はい」

 ジョンがクマのぬいぐるみを差し出すと、マリは涙目になっていた。

「え、マリちゃん!?」 

 ジョンはポケットからハンカチを出して、慌ててマリの涙を拭った。ボロボロ、ボロボロと涙が溢れ、ジョンが慌てている。

 「ごめんね、そうだよね、勝手にいじられたら怒るよね」

 マリは違う、と首を振っている。ジョンはシュンとなって、マリの背中をポンポンと叩いている。ジョンは、何度も謝り、マリは何度も首を振った。マリが苛烈な光を宿した瞳を拭って、歯を食いしばる。「下手くそな、自分が嫌いなの」

 ジョンは、目を瞬いた。マリは何度も目を拭わずに、流した。目元を擦って、明日目元が腫れるのは嫌だ。そして負け惜しみのように、一言、付け加えた。

 「縫い目を学べたから、いいの」マリはツンとした口調でボソリという。

 ジョンは、懐かしむような目でマリを見つめた。

「これ、あげる」 

 ジョンは緑色のサテン生地の裁縫入れをマリに差し出した。マリが涙目で上げる。

「いいの? こんな高そうなモノ……」

 マリは裁縫入れを物欲しそうに見つめる。

 「お詫び」ジョンは苦笑して、マリの手に大切に渡した。絹でできた深緑の布の中には、プラスチックの中に針が整然と並び、小さな銀色のハサミがきらりと光っている。布の裏には、金の文字が書かれているけれど読めない。ジョンは、その様子をみて、あぁという。

「それは〝Asami〟って書かれてるんだよ」

 ジョンは、金の文字を丁寧になぞる。

 マリは仰天して、慌てて裁縫入れをジョンに戻す。

「もらえない!」

 ジョンにとって、大切な形見の品だった。

「使う人がいたほうが、朝美も喜ぶよ」

ボクには、もう必要ないからと、ジョンはへらっと笑った。そのあと、ジョンといろんな話をした。マリの好きな服の話や、朝美おばさんのイギリスの留学の話、ジョンが朝美に海でプロポーズして、そのまま喜びのあまり、海に飛び込んだ話……。あまりにも楽しくて、あっという間に時間が過ぎていった。5時の時計の鐘が鳴った。

「そろそろ行かないと」

ジョンは時計を見つめた

「次は、いつ会えるの?」

マリがクマのぬいぐるみを、抱き締めた。きっちりと着こなしたクマもジョンを見つめる。

「うーん、わからない」

 子供のようにジョンは長い足をしゃがみこんで、マリの頭をポンポンと叩いた。

「マリちゃん、いつまでも服作りが大好きでいてね」

 ジョンは、じゃあねというと、部屋を去っていった。気ままで、自由な人だった。本当にいたのかと思うほど、現実味のない人。その後、マリはジョンを1回も見ていない。あの摩訶不思議な部屋に入る機会も二度と無かった。まるで、夢みたいな出来事だった。

 けれど、いま見ても、クマの着物は、手で縫ったとは思えないほど、緻密で正確な縫い目だった。夢ではなかった。靴を作り上げた小人のように、着物を作り上げた妖精との、とても大切な思い出だった。

 

 夢心地な気分で目を覚ました。マスカラで伸ばした長い睫毛が一瞬見えた。「ヤバッ!!」化粧を落とさずに寝たと思い、マリは飛び起きた。天井クロスには、青と白の雪結晶を描いている。どこの部屋だっけと、マリはぼーっと見つめる。ふと、視界の端にのっぺりした女の顔が映った。狐のよう目に小さな鼻と口、ぽっちゃりした輪郭の上に薄いメイクの平安顔。マリがじーっと眺めていると、その女も、じぃとマリを凝視している。

「目が覚めたちゃりん?」

 初対面にしては、距離が近すぎる。

 マリは起き上がるとすると、平安顔の女も後ずさる。

 重そうな着物を纏っているが、十二枚は無い。鶯色の着物は五枚ほど重なり、紅色の羽織には白の梅が描かれている。

 その布地の美しさに思わず、マリは見惚れた。

「十二単?」

「違うちゃりんっ!」

 すかさず、衵扇が飛んできた。パシリと、平安顔の女のマリの頭を叩く。

「何すんの!?」

 マリは、はねたアイラインで睨む。よく見ると、女は狐目で、こちらを高慢そうに見る。

「正式には、唐衣裳からごろもちゃりん!」

 裾を左右に広げると、はらりと裾が広がる。小さな朱色や桃色の可憐な花が散りばめられ、暖色を基調とした生地の豪奢ごうしゃな着物だった。 

「ぼぉっとした小娘ちゃりんね?」

 高圧的で鼻につく高い声だった。

 平安顔の女は、しずしずとこちらに向かってくる。

「えと、あなたは…?」

 マリは寝ぼけたまま、辺りを見渡した。

 奇妙な部屋だった。透明の虹布の布がいたるところに吊るされている。壁には、美しいマリアのタペストリーが飾られている。床には古いものから新しいものまで、たくさんの布切れが、こんもり積もっている。

 平安顔の女は不快そうに鼻にしわ寄せる。

「失礼な女ちゃりん。ナマエを聞くなら、自分が先に名乗るチャリン、小娘」

 2人は一瞬でお互いの気が合わないことを察した。

 マリはすかさず、喧嘩腰になる。

「あたしはマリ。で、あんたはダレ?」

「おまえに名乗る名なんて無いちゃりん」

 何、こいつと心の中で毒づいた。

 平安顔の女はいきなり近づいて、制服をじーっと見た。

 マリはソファの端に身を寄せ、距離を取る。

 平安顔の女はその様子に鼻に皺をよせる。

「おまえの服と髪は珍しいちゃりん。どこの者ちゃりん?」

 上からの口調で言われ、マリはさらに押し黙る。マリは金髪をかきあげた。

「別に。何か聞くなら、名乗ったほうがいいんじゃない?」

「もういいちゃりん、なんでこの世界はこんな奴ばっかちゃりん」

 平安顔の女は、まるで自分が悪くない言わんばかりに、オヨヨヨと嘆き、衵扇あこめおうぎを扇ぐ。

 マリは金を基調にした松や雲が描かれた衵扇の美しさに見惚れた。

「ホホホ、庶民には手の届かない逸品ちゃりん」

 見せつけるように扇ぐ。

 マリはせっかく美しい扇なのに持っている主に気品が足りないと思った。

 マリはここがどこかと、周りを見渡した。こんな珍妙な部屋は今まで見たことが無い。

「アンディのお願いで無かったら、さっさと追い出しているちゃりん」

「アンディって誰? ってか、ここどこ?」

「アンディはお前を三途の川から拾ってきたちゃりん」

 パタパタと衵扇を扇ぐ。

 三途の川? とマリは疑問を抱いた。

「死んだってこと……?」

 マリは辺りを見渡す。

 しかし、体が透明になってるわけでも、服装に変わったところはみられない。制服もカールした金髪も何も変わっていない。

「そうちゃりん。ここは夕霧様が管理しているルナという街チャリン。三途の川の手前にある街で、ここにいる皆は、生前に未練を残し、閻魔の裁きを待っているちゃりん」

 いかにも、面倒そうにマニュアルを読みながら、平安顔の女は衵扇をパタパタと扇いでいる。

「ちょ、待って! マリ、なんで三途の川手前まで来てんの!? ってか、なんで狐目がいんの?」

「キーッ!狐目じゃないちゃりん! 失礼な小娘ちゃりん! この目は、美人の象徴ちゃりん! この美しい切れ長の瞳!! まさしく小野小町を彷彿させるちゃりん!!」

 平安顔の女は、早口で、衵扇を振り回している。

「で、狐目は……」

 マリがこの世界について聞こうと切り出した。

「ベラ様と呼ぶチャリン!」 

 ベラは頬を紅潮させて、叫んだ。

「ベラ、ここはどこ?」

 呼び捨てにするでないちゃりんといいつつ、マリはそれを無視する。

「あの世の手前ちゃりん」

 ベラは不服そうに、再度いう。

「あ、これは夢か……。そっか、そっか」

 マリはふと、気づいた。

 アプリが死者の世界に連れていくなんて、ありえない。これは夢、きっと目が冷めたら、自室にいるはずだ。

「そう思いたければそう思えばいいちゃりん」

 ベラはそっぽを向いた。

 マリは、自分で夢と言い聞かせながらも、違和感を感じた。

「あの世ってことは…じゃあ、マリはもう、死んでるってこと?」

「そういうことちゃりんね」

 死んでる、死んでる……。

 その言葉をどこかで最近どこかで聞いたような気がした。

 あっとマリは思い出した。

 そういえば、愛梨が死者の世界に行けるアプリがあるとか、なんとか……。

 そして、白い光の中から、手に引きずり込まれた

 思わず、マリは頭を抱えた。

 そんなことが現実に起きるはずがない。

「嘘でしょ、嘘でしょ」

 呆然としているマリに、ベラは狐目を更に細めた。

 ベラはらいきなり衵扇でマリの頭をスコーンと叩いた。

「いったーい! 何すんだし! この狐目!」

 その言葉にベラは全く動じず、愉快そうな表情をした。

「おまえ、まだ生きているチャリンね?」

「え? どゆこと?」

 ベラは、三途の川といったが、まだ生きているのだろうか。マリは希望が湧く。

「はーん、対処に困る厄介な客ちゃりん」

「ねぇ、生きているってどゆこと? さっき、死んでるっていったじゃん」

「それが問題ちゃりん。ここに居るものは皆、肉体が朽ちているちゃりん」

「え、じゃあ、ベラも幽霊ってこと?」

「そうちゃりん。『幽霊』は、生者の世界にいる死んだものの呼び方チャリン。姫含め、ルナにいる死んだヒトは亡霊と呼ばれるチャリン」

「なんか、いろんな呼び名があるチャリンね」

 マリが思わず、ベラの口調が移ると、衵扇ですかさず叩かれた。

「マリが生きているって言うのは?」

 ベラは、虹の布をヒラヒラと触り始めた。

「死んですぐ、浮世で彷徨っている間は、幻肢痛のような痛み、幻霊痛げんれいつうが確かにあることにはあるちゃりん」

「げんれいつう?」

 マリは頭の中で、ぼんやりし始めた。

「三途の川で流れてきてから、幻霊痛があるやつなんて、聞いたこと無いちゃりん。故にお前に痛覚があるってことは……」

「……つまり?」

 マリは恐る恐る聞き返す。もしかしたら、これが現実かもしれないという嫌な予感がじわじわと込み上げてくる。

「現実の肉体が生きていて、魂だけがこちらに来ちゃったちゃりんよ」

「なら、まだ生きてるってこと」

 マリは半信半疑になりながら、推察する。

「小娘の命も持って、数日ってところちゃりん、お可哀そうに。オヨヨヨよ」

 だんだんとマリの顔が蒼白になっていく。

 独特の泣いてるふりをしてるが、目元は笑っている。

「はぁ? まだ、帰れないって決まったわけじゃないし」

 マリは強がるも、溢れる不安は拭えない。

 そんなマリの様子を愉快そうに、ベラは眺めた。

「困っているちゃりんね、オヨヨヨヨ、哀れな小娘に助言をやるちゃりん」

 マリは耳を澄ました。今は、ベラだけが頼りなのだ。

「夕霧様にお土産を持っていくりちゃりん。そうしたら、生者の世界に繋がる『あの世の門の鍵』が、貰えるかもしれないちゃりんよ?」

 マリは『あの世の門の鍵』と何度も、心の中で呟いた。

「キーンコーンカーンコーン」

 ベルの音がどこからか、家中に鳴り響いた。

「オヨ! 姫の今日の就業、終わりちゃりん!」

 ベラは、素早くカーテンをシャッと閉め、店仕舞いの準備をし始めた。

「ちょ、待って、まだ聞きたいことあるんだけ……」

 マリが慌てて、ベラから話を聞こうとする。街がどこにあるのか、夕霧が誰なのか、何も聞けていない。

 しかし、ベラは無情にも、動きを止めようともしない。

「残業はしない主義ちゃりん。さっさと、でていくチャリンよ」

 ベラは天井の紐を引っぱった。

 すると、反対側の壁から巨大なボクシンググローブがでてくる。横からボヨーンと、扉の外へマリを押し出した。

「あっ、言い忘れたチャリン。この世界で絶対に嘘をついてはいけないちゃりんよ」

 最後にベラはそう吐き捨てると、扉を閉めた。

 マリは、突然、家から追い出され、土の地面に頭から突っ込んだ。

 金髪に泥がついた。

「いたぁっ……」

 家の方角を見ると、深い霧に覆われていた。

 まんまるの月が頭上に現れると、霧は引き始めると、家は忽然こつぜんと無くなっていた。

 マリは深い森に取り残されてしまった。

 大きな満月が森を照らす。

「あのエセ占い師、マジ信じられない!」

 マリは金髪を振り乱し、吠えた。

 肩を怒らせ、ずんずん歩いて行くも、月明かりが広がっているだけだ。山道、舗装されていない道は凸凹としている。

 月の光が微かに森を照らしている。森に入れば入るほど、闇に覆われる。

 マリは怒りもしょぼしょと萎むのを感じた。

 なにもみえない……。

 闇が深くなるにつれ、マリの不安もネガティブになっていく。

 ベラの話を全て信じたわけではない。

 けれど、ベラの叩きは、確かに痛かった。夢なら、ヒリヒリした痛みを感じるわけがない。

 ポケットを探る。スマホは入っていない。マリは落胆して、足を進めた。

 全身の神経を澄ませる。

 土を踏む音、そして木のざわめきすら聞こえない。

 胸の奥から不安と共に、世界で独りぼっちになったような孤独感が込み上げる。

 茂みの隙間から、何かが出てきそうな気すらして、マリは歩みを大幅に遅める。

 派手な見た目の割に、マリは暗闇が苦手だった。普段なら誰かと一緒でないと、夜道が歩けないほどに。

 そのとき、後ろから青白い手がにゅっと伸びて、彼女のその強張った肩をぽんぽんと叩いた。

「きゃっー!!」

 これまで凝縮してきた恐怖の塊が一気に噴き出した。

 怖いものを認めてしまうのが怖くなって、彼女は振り向きもせず、全力で走り抜けた。

 今なら、100m走で最高記録が出ただろう。しかし、足の遅いマリは、すぐに追っ手が追いついてしまう。

 マリは腕をがっちりつかまれた。

 膝ががくがくと震え、頭を俯き、震えている。

 軽快なソプラノの子供の笑い声が静かな森の中に響いた。

「あははは、怖がりすぎ!」

 抱えていた腕を解くと、金髪が一房はらりと落ちた。

 マリが涙目で見上げると、暗闇の中、少年が心底、楽しそうに笑っている。

「……」

 マリは恐怖から解放されたばかりで、一言も発せなかった。

 心臓がバクバクと、鳴っていた。

「けばいおねーさん、何やってたの?」

 マリはむっとしながら、ゆっくり立ち上がろうとするも、すっかり腰が抜けてしまったようた。

「けばくないし。あんた誰? ここで何してんの?」

 少年は、興味深げにマリを見つめた。

「僕は、雨汰うた。街に行く途中なんだ」

「街!?」

 マリは、はっとして、雨汰に駆け寄ろうとするも、体に力が入らない。

 その様子を雨汰は楽しそうに眺めている。

 月がわずかに差し込んだ。

 よく見ると、少年は可愛らしい顔立ちをしている。

 ヨーロッパ系の綺麗な顔立ちだった。

 天使の輪っかができた金髪はくるくるとあっちこっちで遊ばせている。高貴さがあるが、白い綿のTシャツゆったりとした白いズボン姿は、意外にも質素だ。

 しかし、睫毛は地毛のマリよりもはるかに長く、大きな蒼い瞳は輝かせている。天使のように可愛らしい少年だった。

「街があるの!?」

 マリはもう一度問いただした。

「うん、だから街に行くって言ってるじゃん」

 相変わらず、可笑しそうに笑っている。年下の少年に縋っている様子はおかしいが、マリは構っていられない。

「お願い。私も一緒に街まで連れって行って!!」 

 とにかく、夕霧に会いたい云々うんぬんよりも、暗闇の森から離れたかったマリは、懇願こんがんした。 

 今なら、金髪を黒髪に変えてもいい。

 雨汰は天使のような笑みを浮かべ、躊躇(ちゅうちょ)なく言った。

「ヤダ」

 マリは動揺するも、ここで諦めるわけにはいかない。

「お願い。本当に暗闇が苦手なの」

「街はここをまっすぐ降りたところにあるよ」

 雨汰はさらっと言い、歩こうとするのを、マリは必死に止めた。

「一緒がいいって言ってるじゃん!」

 雨汰は、ニヤリと笑みを浮かべた。

 マリはその笑みにぞわっと、背中に悪寒を感じた。

「もう、仕方ないなぁ。おねーさん、なんかしてくれるの?」

 何かって……とマリは眉を顰める。

 あの世で価値のあることって何なのか。

「じゃあ、何かイイモノが手に入ったら、ボクにちょうだい」

 イイモノってなんだろうか……と思いつつも、マリは曖昧(あいまい)に頷く。

「じゃ、ケバイおねーさん、行こっ!」

 マリが文句を言おうと、口を尖らせようとしたが、それよりも早く、華奢な手でよいしょとマリを立ち上がらせた。見た目のわりに、かなり力が強い。

「おねーさん、ナマエなんて言うの???」

「マリ」

「ふーん。普通の名前だね〜」

「雨汰は変わった名前だよね」

 雨汰はまぁねと肩をすくめると、

「ブルブル震えて、なぁにやってたの?」

 雨汰は、にやりと哂わらう。

 いちいち、腹が立つ言い方をする。

「別にそうなりたくて、なったんじゃないし! ただ、あのベラっていう、エセ占い師に騙されて、放り出されただけだし!」

 あのまぁるいのっぺりした狐目を思い出すだけでも、イライラする。

「あぁ、ベラのことか。ベラはからかうと、君と同じくらい面白いよね。この世界の案内人なのに、全く向いていないし」

 雨汰もケラケラと笑う。

 この世界の住人は、人を怒らせる才能があると、マリは溜息ためいきを付く。

「ところで、ベラが崇拝すうはいする夕霧様っていうのは誰なの?」

「夕霧様は、このルナでもっとも美しくて、残酷な方だよ」

「怖い人なんだ……」

「そうだよ。ボクなんかと比べもなにならないくらい」

 マリは夕霧という人物を考えた。性格の悪い雨汰が言うのだから、癖のある人物に違いない。

 雨汰は凸凹の山道を難なく、降りていく。真っ暗闇な中、迷わず歩いていくところをみると、相当歩きなれているようだ。

「なんで、そんなに簡単に歩けるの?」

「迷わないから」

 マリは首を傾げた。普通、歩きなれているからと、応えないだろうか。

「ベラが最後に嘘を付いちゃいけないって言ってたけど、あれはどういうこと?」

 マリはベラが最後に念を押したのを思い出した。

「あぁ。夕霧様は街を造ったときのルールね。『嘘をついてはいけない』というものなんだ」

「ってことは、街に夕霧様がいるの!?」 

 そうだよと言われ、マリは安堵した。

 とりあえず、『あの世の門の鍵』を持つ人物の居場所はわかった。

 ふと嘘を付いたら、どうなるのかとマリは気になって、聞いてみた。

「見たことないから、わからないけれど、食べられるらしいよ」

「え、何に?」

「夕霧様に」

 冗談でしょと半笑いでマリは言った。

「……嘘つけばわかるよ」

 雨汰は、そっぽを向いて答える。

 その間が怖い……。マリは、軽い嘘もつくまいと誓った。

「だから、この街に住み着くのは、妖精も多いんだよね。嘘をつかない妖精と街は相性がいいんだ」

「妖精なんているの!?」

「うん、いるよ。ここは死後の世界だもん。じゃ、君はなんなの? 幽霊でしょ」

 雨汰が疑うようにこちらをみた。

「あたしは生きてるし! ベラにもそういわれた」

「ふーん。じゃあ、君は、『さまよい人』なんだ。ボク初めて見た」

 そしてジロジロと雨汰はマリを見つめ、マリは居心地が悪くなる。

「何よ」

「おねーさんが発光しているのは、さまよい人だからなのかな?」

「さまよい人? 待って、あたし、発光してるの?」

 聞き馴染みのない言葉にマリは戸惑う。それよりも、自分が光っていることのほうな気になって、掌てのひらを見つめる。

 電球のように発光してはない。

「へー。おねぇさんには見えていないだ」

「どゆこと?」

 雨汰はマリの問いに答えず、続ける。

「さまよい人は、半死半生(はんしはんしょう)みたいな状態のことだよ。君の肉体は、まだ生者の世界にあるってことだろ」

 うん、まぁとマリは、曖昧に答える。

「ふーん、さまよい人は発光するのか……」

 雨汰は意味深にそう呟くと、可愛らし顔で悪そうにニヤリと笑った。

 マリはゾクッとした。

「雨汰は死者なの?」

「うん。ボクはもうとっくに」

 カラリと雨汰は答えた。

 そっかと、マリは呟いた。

「町まで、どのくらい?」

「あと、千歩くらい。独特な街だから、君は驚くかもね」

 ふーんと、暫く歩いていると、マリのお腹がぐぅと鳴った。マリは顔を赤らめた。

「なんかく可愛くない音だね」

 マリ自身もそう思ったが、敢えて他の人から言われると腹が立つ。

「余計なおせっかいだし」

「これ。リンゴならあるよ」

 りんごを生で持っている人は、お伽話だけだと思っていた。

 しかし、差し出したリンゴには毒が入っていなかったか。

「おねーさん、食べないの? あ、もしかして、疑ってる? ひっどいなぁ」

 雨汰はポケットから取り出したリンゴをシャリっと齧る。齧ったリンゴをマリに差し出す。

 マリはそれを見て、安堵してた。齧かじろうと口を大きく開けた。

「だめ!!!!!」

 甲高い声と共に、マリの目の前で火花が散った。顎に激痛が走り、手を顎付近でわなわなさせ、うずくまった。

 リンゴがボトッと地面に落とした。

 涙目で曇くもった視界から見えたのは、白い細い茎の先に緑色葉をつけたホウレンソウのようなシルエットだ。

 マリは罵声ばせいを浴びせたかった。しかし、あまりの痛みで、声がでない。。

「雨汰!!! 何やってるの!?」

 ホウレンソウのようなものが、怒ったように叫んでいる。

 マリは怒りを噛み締めて、痛みで鋭くなった五感で耳をそば立てる。

「何って、お腹が減ったっていうから、リンゴをあげただけだよ」

 飄々ひょうひょうと、雨汰が答える声が聞こえる。

「雨汰! さまよい人がこちらのものを食べたら、二度と浮世の世界に帰れないって、知ってるでしょ」

 マリは驚いて、責めるように雨汰を見た。見ようと思ったが、目の前には、細い茎に手足が4本ついていて、ホウレンソウのような葉っぱが立っている。

 雨汰との間を遮るように、マリの前に立ちふさがっている。

 マリが、ホウレンソウの葉の部分と思った箇所は、翠色すいしょくの炎が燃えているようだ。

 ホウレンソウが振り返ると、可愛らしい点のような目と鼻と口が付いている。

 マリはあんぐり口を開く。

「えー、そうだったけ?」

 雨汰は天使のような微笑みを浮かべ、素知らぬ振りをしている。

「雨汰! 意地悪したらダメ!!」

 少年のような声のホウレンソウが守るよう立ってくれる。

 しかし、石を投げることは無いのではとも、マリは思う。

「あんた、本当に質たちが悪いね」

 マリは立ち上がりながら、睨んだ。

「だって、知らないほうが悪いんだよ」

 雨汰は嫌味っぽく答えた。

 雨汰とホウレンソウが言い争っている間、マリは何か絹の擦こすれるような音に首を傾げた。

 それは、だんだんと、近づいていて、こしょこしょ話をしているようだ。

「2度も逃げられたんだ。今度はこっそり……」

「あの泥棒は逃げ足が速いからな」

 マリは声が聞こえる方角を見つめた。

 茂みの中から、蒼白い炎のようなものが近づいているような……。

 マリはまさかと思い、血の気が引いていきた。

「あれって……」

 マリのか細い声に、雨汰とホウレンソウが口論をピタリと止めた。

「あ……」

「あ……」

 ホウレンソウと雨汰は息ピッタリで声を合わせた。

 雨汰はくるりと回り、森の中へと駆け出して、消えていった。

 マリも本能的に逃げ出そうとすると、ホウレンソウがマリの腕にしがみ付いた。

「大丈夫だよ! 彼らは雨汰にいたずらされて、怒っているだけの幽霊だから」

「幽霊!? マリ、に、逃げる!」

 恐怖のあまり、片言になったマリは、雨汰と反対のほうへ逃げようとする。

 しかし、ホウレンソウが腕に絡み付いている。

「ホウレンソウ、離れろし!」

 マリは腕をぶんぶん振っているも、ホウレンソウは目を回している。

「ナマエがあるよー! ボクはヤモン! それに、マリは街に行かないとでしょー!」

 あっ、そうだったとマリは思い、急停止した。肩にのっていたヤモンはブルリと震える。

「雨汰ー! オラのリンゴを返せー!」

 亡霊たちは、マリを見ようともせず、雨汰のほうへと一目散に駆けて行く。

 ぽつんと一人と野菜は取り残された。

「雨汰は、ずっと、亡霊に悪戯してるんよ」

 いつの間にか、肩に上ったヤモンが話しかけた。

「なんでマリが街に行くって知ってんの?」

 マリはふと気になって、ヤモンを見つめた。

「森に逃げている亡霊と悪霊以外、みんな街に行くよ?」

「悪霊って、亡霊と違うの?」

 マリは再び出てきた違いに首をかしげる。

「森の亡霊は、閻魔様の裁判から逃げてて、街に入れず、森の中をさまよってるんだよ」

「悪霊は?」

「ルナの悪霊は、他の亡霊を食べた悪い霊で、気性が荒くて、とっても危ないんだ」

 森とは、ここのことじゃないだろうか。

「ここの森って、悪霊は大丈夫なの?」

「うん! いるよ!」

 ヤモンは元気に答えた。

 マリは悪霊がいるのかと、蒼白になる。

「けど、満月があるから、大丈夫。悪霊たちは苦手なんだ」

 それを聞いても、マリは安心できなかった。

「ねぇ、お願いがあるんだけど、街まで案内してくれない?」

 マリは、そっと頼んだ。

「いいよ! ボクに付いてきて!!」

 ヤモンは瞳をキラキラさせながら、自慢そうに胸を張った。

 驚くほど、イイ子だ。

 マリは感動した。ベラや雨汰とは、比べ物にならない。

「さっきの裁判って?」

「天国と地獄を決める裁判だよ」

 ヤモンは森の中を速足で坂道をひたすら下っていく。マリは、何度も転びそうになりながら、必死に進む。

「生きている間、悪いことをした霊は、早めに閻魔様から呼び出しがかかるんだ」

「ふーん。じゃあ、そのまま無視したらどうなるの?」

「夕霧様の街に入れないんだよ。閻魔様と夕霧様は仲ががいいから」

「それで、街の外に悪霊がうろついてるってわけね……」

 マリは森の中に放りだしたベラのことを思い出し、再び腹が立つ。

「ベラはあそこで、何してるの?」

「迷った亡霊の案内係だよ」

 果たして、ベラの元に辿り着いた亡霊は、裁判所に辿り着けるのか、マリは疑問に思った。

「この世界の食べ物って食べちゃダメなの?」

「うん。さまよい人はこの世界の食べ物を食べると、生者の世界に戻れなくなっちゃうんだ。体が生き返っても、生者の食べ物を受け入れられなくなっちゃうんだって」

「マジか……、本当にありがとう」

 知らない間に雨汰に騙されて、永遠に帰れないところだった。今なら、投石も少し許せる。

「だって、ボクはヒーローだから!」

 幼い外見のヤモンが腰に手を当てて、胸をはる姿はよく似合っている。

 マリは、思わず微笑ましい気持ちになった。

「街ってどんなところ??」

 あの世の町は古めかしい、じめじめした町のイメージがある。マリは少し憂鬱になる。

「えとね……!楽しい街だよ!」

 ヤモンはさらに付け加えようとするも、途中で説明するのを諦めて、葉の部分で指した。

「あれが、夕霧様の街だよ」

 マリは視線を下にそらし、街を呆然と見つめた。

 巨大な円形の街が広がっていた。なだらかな丘の上に、街が乗っている。

 街の門まで、長い長い階段が連なっていて、荷物を持った人らしき影が点々と見える。

 街の真ん中には、立派な西洋の貴族が住むような邸宅が建ち、その前には広い道が伸びている。

 街の右側は洋風な建物で、左側は江戸時代特有の瓦屋根の長屋が連なっている、ごちゃごちゃした街だった。

 一番奥には、空に届かんばかりの巨大な門がそびえている。

「あの世、文明開化なうだわ」

 マリは歴史の教科書の、明治時代の街並みみたいだと思った。

「夕霧様は新しいもの好きなんだ! 江戸から明治時代を生きていたらしいよ!」

「激動期だね」

「それに、とっても美人だよ」

 マリは死んでも、美しい姿を保てるなんて、羨ましいと感じた。

 数分なのか、数十分なのか、時間はわからなかった。

 マリは気づいたときには、街に入る階段の目の前まで来ていた。

 マリのようなヒト型の亡霊や、全身毛むくじゃらなど、ちんちくりんな生き物たちが、高い階段をトテトテ上っている。

 ここを登るのかと思うと、マリは若干萎えるが、登らなくてはいけない。

 1歩を踏み出す。

 マリは上っているうちに、雑談をポロポロし始めた。

「そういえば、あんたもおかしなやつよね。ホウレンソウがあの世にいるなんて、聞いたことない」

 ホウレンソウと言われ、ヤモンは首を傾げた。

「ホウレンソウ、知らないの?」

 ヤモンはコクリと頷く。

 日本で採れる野菜だよ、と教えると、ヤモンはうれしそうに『ホウレンソウ!』と叫んだ。

 マリは、ホウレンソウと呼ばれて、喜ぶ人を初めてみた。

 マリの目の前で、着物を着た女性と草花の妖精が話に花を咲かせている。

「エリスが街の近くの森をさまよってるって」

「あの魔女、死んだって聞いたわよ?」

「あの噂、ガセだって」

「怖いわぁ。エリスに出会ったら最後、喰われるって話じゃない」

「最近、どんどん被害の遭う霊が増えてるって。特に人族の霊たちが襲われてるらしいわよ」

「死んでるのに、誰が伝えたんだい?」

 確かにと、ケラケラと二人は笑っている。

「あのへんで、喰われたらしいわよ」

 あのへんと言った着物の女性が振り返って、階段の下のほうを指した。

 しかし、女性には顔がない。

 のっぺらぼうである。

 マリが気が遠くなって、ふらついたのを、ヤモンがヘロヘロになりながら、支えた。

 そんなマリに気づかず、女性たちは話を続ける。

「たぶん、この階段の上から、エリスが魂を喰っているのを見かけたのよ」

「そんな近くにいたなら、警備隊は何してたの?」

「逃したらしい」

「役に立たないわねぇ」

 マリの背筋はゾッとした。

 ついさっきまで、森の中にいたのだ。マリは森で一人で歩いていたにも関わらず、魔女と遭遇しなかったことに、心の底から幸運に感じた。

「とにかく、森の外でエリスを見かけたら、一目散に逃げることよ」

 女性たちは、軽い足取りで階段をさっさと上っていく。

「魔女……」

 ヤモンは葉の色を真っ青に変化させる。

「あのね。魔女って言っても、イイ薬を使ったり、みんなを手伝ってくれる魔女もいるんだよ」

 ヤモンは近くを通りかかった、三角の飾りが付いたとんがり帽子に、明るいローブを着た魔女に挨拶をする。

 その魔女は、ヤモンに手を振り、クッキーを渡した。

「ただ、エリスは魔女の中で、最も恐ろしくて、力のある魔女なんだよ」

 ヤモンはブルブルと震えて、葉を更に青くさせ、クッキーを頬ばった。

「身の毛もよだつような顔で、目の中に蛇と蛙がニヤニヤ笑ってるって! 出会ったら、その魂を喰べ尽くすまで、ずっと追いかけられるんだよ」

 マリは心に誓った。そんな魔女とは、絶対に関わらないと。

 そのとき、ギラリとした目の小人が後ろを振り向き、鼻を鳴らして前を進む。

「なにあれ」

 厳めしい表情をした小人の失礼な態度に、マリは気分を害した。

「あれは、ドワーフっていう妖精だよ。気難しいけれど、とってもきれいな宝石を作るんだ」

 へーと、マリがドワーフが担ぐ宝石をじろりと眺めると、ドワーフがこちらを睨みつけてきた。

「あんまり、覗きこまないほうがいいよ。ドワーフは用心深くて、下手したら、スコップでタコ殴りされるから」

 ヤモンが小声で、マリにいう。

 マリは、変な連中に視線を向けまいと思うも、先にこちらを睨んできたのはドワーフなので、好戦的に睨み返した。

「何だよ、嬢ちゃん。そんなにガンつけて」

「いえ。なんでも」

 お互い暫くにらみ合うと、ドワーフはふんと鼻をならして、早足で階段をかけ上がって、行った。がっしりした体型にも関わらず、あっという間に見えなくなった。

「これ、まだあるの……?」

 マリはげっそりして、階段の先を見つめた。てっぺんが見えない。

「うん! マリなら大丈夫!」

 根拠のない意見をヤモンは言う。

 マリは深いため息をついた。それしか手段がないなら、やるしかないという諦めだった。

 そして、金のリボンが入った白のスニーカーを踏み出す。


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