血を識る
夜が明け、空がわずかに白み始める頃、ライグ達は第二拠点へ辿り着いた。
その場所は崩れかけた旧施設のような空間だった。かつて物資を貯蔵していたであろう分厚い石壁の建物が、森の奥深くに埋もれるように残っていた。
外装こそ風化し、苔に覆われていたが、内部は清潔に保たれ、石壁に沿って古びた寝台が並んでいた。簡素な木製の骨組みに、布と草を編んだような寝具が乗せられている。長い年月を経てはいたが、丁寧に手入れされていた。
物資用の保管棚もあり、中には乾燥肉や保存水、使い古されたが今も使える包帯などが並べられていた。
第二拠点——それは村の外縁を巡回する斥候や物資調達部隊のために設けられた、中継地のような存在だった。
ライグは、無言のまま少年を抱えて建物の中に足を踏み入れる。
倒れ込むようにして床に膝をつく。肩で息をしながら、そっと銃と太刀を地面に置いた。ルードの遺した銃は傷だらけ、太刀の刃も大半が欠け、血と脂で汚れていた。
「……助かったのか。」
震える声が、誰かの口から漏れた。
斥候隊の一人が火を起こし、残った者たちは壁際に身を寄せ、暖を取る。
生存者は八名。ライグ、斥候隊員が三人、避難民が四人。
あの地獄から、命を引きずって逃げ出した、わずかな希望だった。
女の避難民が壁にもたれ、震える手で水を飲む。
「……ここで、暮らしていけるのかな。」
と、絞り出すように吐き出す。
その言葉に、ライグはわずかに顔を上げた。
今は村も壊滅し、定期的に拠点へ行っていた補給がない。完全に孤立した避難所にすぎない。少人数ではあるが、満足な補給や食事もないままいつまでもつか……。
短槍使いの斥候が、ライグの隣に腰を下ろした。
「なあ、ライグ……これから、どうするつもりだ?」
「……生き残った奴を、守るだけだよ。」
言葉に覇気はない。それでも、真っすぐだった。
火の揺らぎが、石壁に影を落とす。ふと、斥候の一人がぼそりとつぶやいた。
「リーダーも、最後まで戦ってたよな……あの人の背中、今でも目に焼き付いてる。」
リーダー──本隊を束ねていた村の長は、最後まで殿を務め、避難民たちを守る盾となった。彼の姿を
見て、ライグは心のどこかで理解していた。あれが、人としての生き様だったのだと。
「俺たちの村は、小さかったけど……誰もが誰かのことを想ってた。だから、守れたんだ。」
ライグはそう言いながら、火に照らされた銃を見つめた。亀裂が入り、所々焦げついている。
「……だから、守れなかった時は、痛いんだよ。」
ぱちぱちと、火の音だけが空気を満たす。
誰も、返す言葉がなかった。
——獣が現れた原因は、もう誰にも分からない。
正式記録など、喰えないものは風化してきたのだ。今更知ろうとも思えない。
ただ一つ言えるのは、この地に“安全な地”など、もう存在しないということだった。
ふと空を見上げた。
石壁の隙間から覗く、朝焼けの空。どこか赤黒く、血を滲ませたように染まっていた。
「休めるうちに休んでおけよ。次にいつ獣が来るか分からないからな。」
そう言って、ライグは壁に背を預けて、そっと目を閉じた。
──夢を見た。
音も色もない世界。
地を這う視線。鋭利な匂いと、熱を孕んだ鼓動。
茂みに潜み、匂いを嗅ぎ、足音を殺す。
何かを待っている。
獲物。生きた肉。
“喰う”という、本能のままに。
その視界が、ふいにこちらを向いた。
——いや、“自分自身”を見ていた。
「……ッ!!」
目が覚める。
呼吸が乱れていた。背中にびっしょりと汗をかいていた。
まだ夜は明けきっていなかった。
それでも、体の内側が熱くてたまらなかった。
「なんだ……今の。」
斥候の一人が、火の番をしていた。
「大丈夫か、ライグ。なんか、うなされてたぞ」
「……夢を見ただけだ。」
ライグは短く答え、再び目を閉じた。
——夜が明ける。
静かな朝だった。
だが、その静けさの奥に、“何か”が潜んでいるような感覚があった。
そしてそれは、的中する。
第二拠点に“悪夢”が現れた。
夜明け前の静寂を破るように、第二拠点の外から轟音が響く。
石壁が震え、埃が舞い上がる。「何だ!?」「外で何かが……!」斥候たちが武器を手に取り、入り口へと駆け出す。
その瞬間、壁が破壊され、巨大な影が内部へと侵入してきた。それは、人間の形を模した異形の存在だった。鋭い爪と牙を持ち、目には狂気が宿っていた。
「散会しつつ囲め!避難民はできるだけ離れろ!」
ライグが叫ぶ。斥候たちが応戦するが、獣の力は圧倒的だった。次々と斥候たちが倒れ、避難民たちも逃げ惑う。
ライグは少年を庇いながら、太刀を振るう。しかし、獣の攻撃は止まらない。短槍使いの斥候が獣に立ち向かうが、爪で首を掻き切られ、びくりと痙攣し血溜まりに倒れた。
「やめろぉぉぉぉぉぉ!」
ライグの叫びが虚しく響く。彼の目の前で、仲間たちが次々と倒れていく。血が床を染め、絶望が拠点を覆う。
獣はライグに向かって歩み寄る。その目には、かつてユウカを喰らった時と同じ狂気が宿っていた。ライグは太刀を構えるが、体が震えて動かない。恐怖と怒りが交錯し、彼の心を支配する。
ライグは自らを奮い立たせ、気力を振り絞り獣に立ち向かう。太刀が獣の腕を掠め、血が飛び散る。しかし、獣は怯むことなく、ライグを吹き飛ばす。
壁に叩きつけられたライグは、意識が朦朧とする中で、仲間たちの最期を思い出す。ユウカの笑顔、ルードの励まし、リーダーの指示。それらが彼の心に蘇る。
「俺が…、守るんだ…。」
そこで、ライグの意識は途切れた。