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喰界 -咆哮する遺骸の記憶-  作者: mutusimo
第1章 変異
5/14

夜の牙


 逃げる。


 ただ、それだけだった。


 村が崩壊し、トンネルが爆破されてから、ライグたちはひたすらに走り続けていた。


 足場の悪い岩場に足を取られ、転倒する者もいた。木々が揺れるたび、風音が獣の唸りに聞こえて、皆が怯えた。夜の空気は冷え、吐く息が白く滲んだ。


 避難民十五名、斥候隊員七名、そしてライグ。


 だが、その数は徐々に減っていった。獣たちは執拗に追いかけてくる。


 時折、乱れた隊形を立て直そうと立ち止まると、すぐに襲撃される。


 逃げる、戦う、また逃げる。その繰り返しだった。


 ある時、老人の一人が足を止めた。


「……ここまでだな。」


 誰よりも静かだったその声に、ライグは振り返る。


 その男は、村の誰もが「爺さん」と親しみを込めて呼んでいた人物だった。


 幼い頃、太刀の素振りを見てくれた。銃の整備方法を教えてくれた。腹を空かせたときは、こっそり食料を分けてくれた。


 何度も叱られ、何度も救われた――そんな“家族”のような存在だった。


 今、その男が、獣の気配が迫る闇をじっと見据えている。


「ワシが、囮になる。……未来ある者たちが、生きていってくれれば、それでええ。」


「……やめてください。そんなこと……!」


 ライグの声が震える。拳も、喉も、すべてが拒絶していた。


 けれど、老人は穏やかな目で彼を見た。


 その目は、あの日のままだった。怒ると怖くて、でも誰よりも優しかったあの目だった。


「もう、ワシには……守るもんがない。ただ、お前らが、これから何かを守れるなら、それでええんよ。」


 言葉が、喉の奥で詰まった。


 涙は出ない。ただ、息が詰まって仕方なかった。


 ライグは黙って、腰のホルスターから自分の銃を抜いた。


 傷だらけで、だけど手入れの行き届いている古い銃だ。


「……ありがとう、ございました。」


 震える手で、銃を手渡す。


 その手を、老人がそっと包んだ。


「立派になったな、ライグ。……ユウカも、きっと喜ぶじゃろう」


 その言葉に、ライグはついに顔を伏せた。


 老人は静かに背を向ける。


 獣たちの気配がする方向へ、一歩、また一歩と歩み出す。


「……ありがとう。生きて……」


 誰かが呟いた。誰の声かはわからなかった。


 それは、誰もが思っていたことだったからだ。


 やがて、闇の向こうで咆哮が響き、続けざまに銃声が二発。


 しばしの沈黙の後、三発目の銃声が鳴った。


 それを合図に、ライグは顔を上げ、静かに言った。


「行こう。……絶対に、無駄にしない。」


 

 夜が更け、皆の疲労はピークに達していた。


 斥候の一人が膝をつきかけ、隣の少年に肩を貸されている。


 小さな身体が、大人を支えていた。その滑稽な構図が、誰にも笑えなかった。


 女性が息を切らしながら呟く。


「もう、限界……、でも、死にたくない……。」


 ライグは彼女の肩を支えながら、励ました。


「もうすぐ第2拠点だ。あと少し、頑張ろう。」


 しかし、獣たちは容赦なく襲いかかってくる。


 斥候隊員の一人が、獣に喰われた。


 避難民の一人も、逃げ遅れて命を落とした。


 そのたびに、ライグの心は痛んだ。また、守れなかった。


 だが、立ち止まるわけにはいかない。



 第二拠点までの道のりは、あとわずかだった。


 それでも、夜の帳は容赦なく彼らを包み込み、静かに、確実に、死を運んでくる。


 「……っ、来る!」


 ライグの声が届くより早く、森の奥から数体の獣が躍り出た。


 群れではない。毎回、少数の獣が襲い掛かってくる。


 こちらの疲労がピークになるのを待つかのように。


 弓を構えていた斥候が、一体の猿型の眉間を即座に射抜く。


 だが、その死骸を飛び越えるように猪型が突撃してきた。


 ライグは避難民をかばいながら、太刀を構える。


「ここを突破するぞ! 生き延びるために!」


 斥候隊員たちも、疲労を乗り越え気力のみで戦った。



 獣の攻勢は間断なく続く。


 木々のざわめきが、不自然な静寂を切り裂く。


「くそっ、もう来るなよ……!」


 少年の叫びと、斥候隊員の放つ銃声が重なる。


 直後、避難民の一人が背後を取られ、喰われた。


 再び、一つの命が消えた。


 少年が、呆然とその場に立ち尽くしていた。


「見てるだけじゃ、ダメだ!」


 ライグが駆け寄り、少年を抱えて飛び退く。


 太刀が閃き、銃弾が空を裂く。


 斥候の一人が猪型の牙に腹を貫かれながらも、動きを止めた。


「うおおおッ!ライグ、やれええ!」


 身体を貫く牙を物ともせず、猪型の突進を全体重をもって防ぐ。


「ルード!今...、行くッ!」


 ライグが飛び込む。猪型の首に切れ味の落ちた太刀を無理やり突き刺す。それでも動きが止まらない。


 太刀を捩じり込み、無茶苦茶に掻き回す。重要な神経を断ったか、動きが止まった。


 ずるり、と太刀を引き抜く。


「ごぼっ...、ライグ、後は......。」


 ルードの目から光が消えつつある。それでも視線を必死に合わせ、自らの銃をライグに手渡す。


 受け取ったのを確認すると、満足そうに微笑みながらライグと拳を合わせる。子どもの頃、よくやっていた握手の代わり。それが二人の“別れの印”になった。


 混乱のなか、再び獣を撃退することに成功した。


 また一人、幼馴染だった斥候隊員の命と引き換えに。


 休む間もなく、移動が再開される。


 夜はすでに深く、獣たちの気配は濃くなる一方だった。


「……歩けるか。」


「……はい。」


 少年の返事は震えていたが、それでも前を向いていた。


 ライグは空を見上げる。


 雲が流れ、灯火のない夜を照らすのは、異様な月だけだった。地上の惨劇を冷ややかに見下ろすように、光は血の色をしていた。


 避難民は4人。男が1人、女が2人、そして年端もいかない少年が1人。


 斥候部隊の残存者は3名。ライグを含め、わずか8名の生存者。


 少年の手には、ユウカからプレゼントされた短刀がしっかりと握られていた。よく手入れされ、斬れ味も良い。彼にとっては唯一の“武器”だった。


 ユウカがよく面倒を見ていた子だった。——守れなかった彼女の代わりに、絶対に生かしてみせる。


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