夜の牙
逃げる。
ただ、それだけだった。
村が崩壊し、トンネルが爆破されてから、ライグたちはひたすらに走り続けていた。
足場の悪い岩場に足を取られ、転倒する者もいた。木々が揺れるたび、風音が獣の唸りに聞こえて、皆が怯えた。夜の空気は冷え、吐く息が白く滲んだ。
避難民十五名、斥候隊員七名、そしてライグ。
だが、その数は徐々に減っていった。獣たちは執拗に追いかけてくる。
時折、乱れた隊形を立て直そうと立ち止まると、すぐに襲撃される。
逃げる、戦う、また逃げる。その繰り返しだった。
ある時、老人の一人が足を止めた。
「……ここまでだな。」
誰よりも静かだったその声に、ライグは振り返る。
その男は、村の誰もが「爺さん」と親しみを込めて呼んでいた人物だった。
幼い頃、太刀の素振りを見てくれた。銃の整備方法を教えてくれた。腹を空かせたときは、こっそり食料を分けてくれた。
何度も叱られ、何度も救われた――そんな“家族”のような存在だった。
今、その男が、獣の気配が迫る闇をじっと見据えている。
「ワシが、囮になる。……未来ある者たちが、生きていってくれれば、それでええ。」
「……やめてください。そんなこと……!」
ライグの声が震える。拳も、喉も、すべてが拒絶していた。
けれど、老人は穏やかな目で彼を見た。
その目は、あの日のままだった。怒ると怖くて、でも誰よりも優しかったあの目だった。
「もう、ワシには……守るもんがない。ただ、お前らが、これから何かを守れるなら、それでええんよ。」
言葉が、喉の奥で詰まった。
涙は出ない。ただ、息が詰まって仕方なかった。
ライグは黙って、腰のホルスターから自分の銃を抜いた。
傷だらけで、だけど手入れの行き届いている古い銃だ。
「……ありがとう、ございました。」
震える手で、銃を手渡す。
その手を、老人がそっと包んだ。
「立派になったな、ライグ。……ユウカも、きっと喜ぶじゃろう」
その言葉に、ライグはついに顔を伏せた。
老人は静かに背を向ける。
獣たちの気配がする方向へ、一歩、また一歩と歩み出す。
「……ありがとう。生きて……」
誰かが呟いた。誰の声かはわからなかった。
それは、誰もが思っていたことだったからだ。
やがて、闇の向こうで咆哮が響き、続けざまに銃声が二発。
しばしの沈黙の後、三発目の銃声が鳴った。
それを合図に、ライグは顔を上げ、静かに言った。
「行こう。……絶対に、無駄にしない。」
夜が更け、皆の疲労はピークに達していた。
斥候の一人が膝をつきかけ、隣の少年に肩を貸されている。
小さな身体が、大人を支えていた。その滑稽な構図が、誰にも笑えなかった。
女性が息を切らしながら呟く。
「もう、限界……、でも、死にたくない……。」
ライグは彼女の肩を支えながら、励ました。
「もうすぐ第2拠点だ。あと少し、頑張ろう。」
しかし、獣たちは容赦なく襲いかかってくる。
斥候隊員の一人が、獣に喰われた。
避難民の一人も、逃げ遅れて命を落とした。
そのたびに、ライグの心は痛んだ。また、守れなかった。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
第二拠点までの道のりは、あとわずかだった。
それでも、夜の帳は容赦なく彼らを包み込み、静かに、確実に、死を運んでくる。
「……っ、来る!」
ライグの声が届くより早く、森の奥から数体の獣が躍り出た。
群れではない。毎回、少数の獣が襲い掛かってくる。
こちらの疲労がピークになるのを待つかのように。
弓を構えていた斥候が、一体の猿型の眉間を即座に射抜く。
だが、その死骸を飛び越えるように猪型が突撃してきた。
ライグは避難民をかばいながら、太刀を構える。
「ここを突破するぞ! 生き延びるために!」
斥候隊員たちも、疲労を乗り越え気力のみで戦った。
獣の攻勢は間断なく続く。
木々のざわめきが、不自然な静寂を切り裂く。
「くそっ、もう来るなよ……!」
少年の叫びと、斥候隊員の放つ銃声が重なる。
直後、避難民の一人が背後を取られ、喰われた。
再び、一つの命が消えた。
少年が、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「見てるだけじゃ、ダメだ!」
ライグが駆け寄り、少年を抱えて飛び退く。
太刀が閃き、銃弾が空を裂く。
斥候の一人が猪型の牙に腹を貫かれながらも、動きを止めた。
「うおおおッ!ライグ、やれええ!」
身体を貫く牙を物ともせず、猪型の突進を全体重をもって防ぐ。
「ルード!今...、行くッ!」
ライグが飛び込む。猪型の首に切れ味の落ちた太刀を無理やり突き刺す。それでも動きが止まらない。
太刀を捩じり込み、無茶苦茶に掻き回す。重要な神経を断ったか、動きが止まった。
ずるり、と太刀を引き抜く。
「ごぼっ...、ライグ、後は......。」
ルードの目から光が消えつつある。それでも視線を必死に合わせ、自らの銃をライグに手渡す。
受け取ったのを確認すると、満足そうに微笑みながらライグと拳を合わせる。子どもの頃、よくやっていた握手の代わり。それが二人の“別れの印”になった。
混乱のなか、再び獣を撃退することに成功した。
また一人、幼馴染だった斥候隊員の命と引き換えに。
休む間もなく、移動が再開される。
夜はすでに深く、獣たちの気配は濃くなる一方だった。
「……歩けるか。」
「……はい。」
少年の返事は震えていたが、それでも前を向いていた。
ライグは空を見上げる。
雲が流れ、灯火のない夜を照らすのは、異様な月だけだった。地上の惨劇を冷ややかに見下ろすように、光は血の色をしていた。
避難民は4人。男が1人、女が2人、そして年端もいかない少年が1人。
斥候部隊の残存者は3名。ライグを含め、わずか8名の生存者。
少年の手には、ユウカからプレゼントされた短刀がしっかりと握られていた。よく手入れされ、斬れ味も良い。彼にとっては唯一の“武器”だった。
ユウカがよく面倒を見ていた子だった。——守れなかった彼女の代わりに、絶対に生かしてみせる。