4
「深淵の向こうで待つもの」
目を閉じたとき、そこにあるのは闇か、それとも――誰かの視線か。
光が届かない場所では、自分がどこにいるのかも分からない。
壁の感触を確かめても、それが本当に"壁"なのかも分からない。
音がない。
だが、何かがいる。
この物語は、日常の奥に潜む"異常"を描くものだ。
何かを"忘れる"ことは、何かを"喪う"ことに等しい。
もし、君の記憶から、誰かの存在が静かに消えたとしたら――
その喪失は、本当に"ただの記憶違い"だろうか?
これは、"存在"と"忘却"の物語。
君が今、確かにここにいるのなら、それを忘れないでほしい。
夜は深かった。
いや、"深い"という表現では足りない。
この夜は、まるで"何かが喰らい尽くした後"のような暗闇だった。
街灯の光は、妙に弱々しく揺れ、あたかも自らの存在を疑っているかのようだった。
道端に並ぶ家々の窓は閉ざされていて、光一つ漏れていない。
それどころか、まるでそこに住人が存在しないかのような静けさだった。
海翔は、ゆっくりとその道を歩いていた。
何かがおかしい。
"異常"がすぐそこにある。
それは確信だった。
――カツン。
足音が響く。
自分の靴音のはずだった。
だが、遅れてもう一つの音が重なった。
……誰か、いる。
海翔は静かに息を呑んだ。
背後には何もない。
それでも、確かに"誰か"がついてきている感覚がある。
幽霊か?
違う。
幽霊であるならば、"見えないもの"として理解できる。
だが、これは"見えない"のではなく――"存在しないはずのもの"がいるのだ。
記憶の中にない"誰か"が、そこにいる。
海翔の鼓動が速くなる。
だが、怖がってはいけない。
彼はゆっくりと振り返る――
――何もいない。
……はずだった。
だが、確かに"何かの影"が地面に伸びていた。
「……海翔」
かすれた声が、どこからともなく響く。
その声には、聞き覚えがあった。
「八重……?」
海翔は思わず名前を呼んだ。
だが、声は返ってこない。
代わりに、影がじわりと揺れた。
まるで、生きているかのように――
その時、耳をつんざくようなノイズが響いた。
――ギィィィィィ……
まるで古いスピーカーから発せられる異音のような、不快な音。
脳に直接入り込むような、痛みを伴う響きだった。
海翔は思わず耳を塞いだ。
だが、それでも音は止まらない。
次の瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
景色が変わった。
海翔が立っていたのは、見覚えのない廃屋の中だった。
ボロボロの壁、剥がれ落ちた天井。
床には埃と紙くずが散乱している。
そして、そこには誰かの影があった。
「……海翔、私を見て」
その声に、海翔は顔を上げた。
そこにいたのは、確かに八重だった。
だが――
彼女の顔は、ぼやけていた。
「っ……!」
何かが違う。
何かが、決定的におかしい。
八重はゆっくりと手を伸ばした。
その指先が、海翔の頬に触れる――
――その瞬間、全ての音が消えた。
海翔は、息が詰まるような圧迫感を感じた。
世界から"自分"が消えていくような感覚。
これは、忘却だ。
このままでは、自分が"存在しなかったこと"にされる。
海翔は、必死に声を出そうとした。
だが、喉が動かない。
声が出ない。
視界が暗くなっていく。
思考が、掻き消されていく。
――海翔の"存在"が、消える。
「……ダメだよ、まだ、消えないで」
次の瞬間、八重の声が響いた。
その声は、どこか哀しげだった。
海翔は、はっと息をついた。
視界が一瞬、戻る。
八重が、目の前で微笑んでいた。
その顔は、どこか寂しそうで、どこか懐かしくて――
「……八重、お前は……」
だが、その言葉の続きを、海翔は言えなかった。
八重の顔が、涙で滲んで消えかけていたから。
「存在の意味、忘却の恐怖」
もし、自分がこの世に存在しなかったとしたら?
誰かが、君のことを"忘れた"としたら?
それは、本当にただの記憶の欠落なのか。
それとも――"喰われた"のか。
この章では、"忘却"の恐怖をテーマに描いた。
海翔は"消えかける存在"と対峙し、彼自身もまた、その渦に飲み込まれそうになった。
八重は、何を隠しているのか?
海翔は、何を喪ったのか?
次の章で、さらなる深淵が待っている。
それでも君がこの物語を読み続けるのなら――
次も、"君の存在"をここに刻みつけてくれ。
では、また次の章で。