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悲しみは、病になるのだろうか?」
ある日、ふと、そんなことを考えた。
誰しもが悲しみを抱えて生きている。
失ったもの、叶わなかった願い、二度と戻らない時間。
だが、それはただの感情ではなく――もしも、病 だったとしたら?
人が「悲しみ」によって 忘れられ 、存在そのものが消えてしまうとしたら?
それは、ただの都市伝説なのか。
あるいは、既にこの世界で進行している 現実の病 なのか。
本書は、そんな 「見えない病」 に取り憑かれた者たちの物語である。
誰も気づかぬまま消えていく“悲病”に、君は まだ他人事でいられるだろうか?
闇の中に、何かが蠢いていた。
それは風でもなく、獣でもなく――ただ、そこに ある だけのもの。
田島海翔は、息を呑んだ。
彼の立つ場所は、今朝まで確かに 存在しなかったはず の廃校。
しかし、それは記憶違いではない。
こんな場所、今まで町のどこにもなかった。
それなのに、彼の足は確かにこの校舎の廊下を踏みしめている。
長い時間、放置されていたかのように埃をかぶった床。
壁には無数のひび割れが刻まれ、黒ずんだ雨染みが広がっている。
廊下の奥には、扉の外れた教室が並び、机と椅子が不規則に散乱していた。
そして――音がない。
完全な静寂だった。
風の音も、遠くの車の音も、虫の鳴き声すらもない。
まるで、この場所だけが切り取られた 異界 のように、現実の気配が存在しなかった。
(……おかしい)
自分の呼吸音すら聞こえない。
耳を塞いだわけでもないのに、空間ごと 無音 に支配されている。
それが、言葉にならないほどの恐怖を生み出していた。
「ここは……?」
声を発した瞬間、空間が揺らいだ気がした。
まるで、水面に小石を投げ込んだように。
その波紋の中心に立っていたのは――
「ようこそ、“忘れられた場所”へ」
白雪八重だった。
校舎の奥、半壊した教室の窓辺に立ち、静かに彼を見つめている。
相変わらず無表情で、しかし、どこかその姿は 儚い ものに見えた。
「ここは、かつての学校――でも、もう誰の記憶にも残っていない」
「……誰の記憶にも?」
海翔は眉をひそめる。
「そんなこと、ありえないだろ。町の住人が忘れるなんて――」
「本当に、そう思う?」
八重はゆっくりと、歩み寄ってくる。
彼女の足元には、影がない。
それに気づいた瞬間、海翔の背筋に冷たいものが走った。
「これは“悲病”の影響よ。この学校は、悲しみの中で消えたの」
「悲しみ……?」
その言葉を噛み締めるように繰り返す。
まるで、霧の中にいるように、頭の中がぼんやりとした。
言葉の意味が、すぐには飲み込めない。
「ある日、この学校は突然 無くなった のよ。
生徒も、教師も、何もかもが」
海翔は息を呑んだ。
「……それって、どういう――」
「忘れられたのよ」
八重の声が、酷く静かに響いた。
「誰の記憶からも、この学校は消えた。そして、学校が無くなったことにすら気づかれなくなったの」
「そんなこと……」
だが、言いかけた言葉が喉の奥で詰まる。
思い出せない。
この町に、こんな学校があった記憶は ない 。
でも、それならば――この廃校は なぜ、ここにあるのか?
(――俺は、何かを忘れているのか?)
考えれば考えるほど、頭が霞んでいく。
まるで、この校舎そのものが、記憶を奪うように。
「ねぇ、海翔」
ふいに、八重が彼の名前を呼んだ。
「もし、君が誰の記憶からも消えたら……君は、自分が“存在している”って証明できる?」
その問いに、海翔は言葉を失った。
「人はね、誰かに覚えられていることで存在できるの」
八重は小さく微笑んだ。
「でも、もし誰も君のことを思い出せなくなったら……君は、生きているって言えるのかしら?」
その瞬間、海翔の背後で 何かが動いた。
ギギ……ギギ……
擦れるような、軋むような音。
教室の奥、机と椅子の山の中。
影のようなものが、ゆっくりと 形を成していく。
黒い霧のようなものが渦を巻き、やがて “それ” が現れた。
四肢の形を持たない、不定形の影。
顔のない人の形をした “何か” 。
それが――
「……僕を、忘れないで……」
声を発した。
その瞬間、世界が弾けた。
何かが 海翔の意識を引きずり込む。
音が溢れ、視界が歪み、頭の中に無数の声が流れ込んできた。
「ねぇ、誰か、覚えてる?」
「僕は……ここにいた……」
「お願い、僕のことを忘れないで……」
――誰かの叫び。
――記憶の狭間に沈んでいく声。
その全てが、混ざり合いながら、彼を飲み込もうとしていた。
(……俺は……)
頭の中がぐらぐらと揺れる。
でも――
「……八重……!」
掴んだ手が、確かな感触を持っていた。
その時、海翔の視界が、一気に 現実へと引き戻された。
八重の手が、彼の腕を握っていた。
「大丈夫……私は、君のことを忘れたりしない」
そう囁く彼女の瞳は、哀しみに満ちていた。
まるで、それが 彼女自身の願い であるかのように。
ここまで読んでくれてありがとう。
「悲病語」は、ただの怪異譚ではない。
それは 「存在の証明」 に関わる物語だ。
人は、なぜ生きていると実感できるのか?
それは、自分を知る誰かがいるからだ。
けれどもし、世界中の誰からも 忘れ去られたら ――?
名前を呼ばれず、写真も残らず、記録さえ消えてしまったなら、
それは果たして、生きていると言えるのだろうか?
「忘却は、死よりも残酷なものかもしれない。」
この物語を通じて、そんな問いを投げかけたかった。
誰もが「自分は関係ない」と思っているかもしれない。
でも、君の隣にいる誰かが、今まさに“悲病”に侵されている可能性だってある。
「あなたは、誰かのことを忘れていませんか?」
最後に、この物語を読んでくれた君へ。
君が 誰かを思い出すきっかけ になれたのなら、それだけで本望だ。
また、次のページで会おう。