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世界には、目に見えるものと、目に見えないものがある。
それは人々が信じるかどうかに関わらず、確かに存在している。
しかし、見えないものを「ない」と断じることは、果たして正しいのだろうか?
――誰もいないはずの夜道で感じる視線。
――背後に立つ気配。
――夢の中でだけ会う、名も知らぬ誰か。
あなたは、それらすべてを 「気のせい」 だと、言い切れるだろうか?
この物語は、ある少年が“見えてしまった”ことで始まる。
そして、それが 「病」 であることを知る。
これは 「悲病」 をめぐる物語。
心の奥に巣食う 悲しみの形 を暴き出し、
その先に待つ 真実 を求める旅の記録。
もしも、あなたがこの物語を 「他人事」 だと思えるのなら――
それは まだ、あなたの番ではない ということだ。
夜の風は冷たくもなく、かといって暖かくもなかった。
まるで、この場所だけが季節の概念から外れてしまったかのように、風はただ肌を撫でるだけだった。しんとした静けさの中、耳をすませば、風の音さえも聞こえない。まるで世界が息を潜め、何かを待ち構えているかのようだった。
田島海翔は、一人で歩いていた。
街灯が点々と続く一本道。だが、その光はあまりにも頼りなかった。
まるで何かに怯えているかのように、街灯の灯りは薄暗く、不安定に揺れていた。はっきりとした影を作るには弱すぎ、闇を完全に払うこともできない。まるでそこに何かがいることを知っていながら、直視することを拒んでいるような光。
アスファルトの上には、誰の足跡もない。
この道は人通りの多い通りのはずだった。それなのに、今はまるで忘れ去られた廃道のように、人気がない。遠くから聞こえる犬の鳴き声が、どこか遠のいていくような錯覚を覚えた。
ポツ、ポツ――
街灯の灯りの下、ゆっくりとした足音が響く。
しかし、それは 彼の足音ではなかった。
「……ッ」
背筋に冷たいものが走る。
彼は立ち止まり、息をひそめた。
音が、止まる。
――今のは、空耳だったのか?
だが、そんなはずはない。彼は確かに聞いた。自分の歩調とは違う、もうひとつの足音を。まるで、誰かが彼の歩調に合わせるように、すぐ後ろで静かに響いていた。
誰もいないはずの道。
それでも、彼は知っていた。
この街には、“何か”がいる。
何も見えない。だが、確実に“何か”はいる。
それはずっと昔から感じていた。誰もいないはずの道で感じる視線。電車の窓に映る、そこにはいないはずの影。誰もいない部屋でふと聞こえる、微かに震えるような息遣い。
それは決して目に見えることはない。
しかし、確かにそこにある。
――おかしい。
ここ数日、そんな異変が増えている。
まるで、何かが彼に近づいてきているような――そんな感覚。
今もまた、彼は 日常のすぐ隣にある“異常”を感じながら、歩き続ける。
そして――
「……やっと、見つけた」
その声が、静寂を破った。
足が止まる。
彼の視線の先、街灯の光の届かない暗闇の中に、それはいた。
いや、いたという表現が正しいのかさえわからない。
少女のような形をしていた。だが、その存在はまるで現実に馴染んでいない。銀色の髪が風もないのに揺れる。白い肌は、月の光を受けて淡く輝いている。彼女の輪郭だけが、まるで現実と夢の境界に引っかかっているかのように、微かに滲んでいた。
「……誰だ?」
思わず声を漏らす。だが、答えを聞く前に、彼女の瞳に引き込まれる。
その瞳には、確かな感情が宿っていた。
その涙は、静かに揺れていた。
夜の薄暗い街灯の下で、それは水滴のように小さく震えながら、今にも零れ落ちそうだった。
――知らない。
この少女を知らない。
なのに、どうしてこんなにも 知っているはずのもの のように思えてしまうのか。
「……俺を、探していた?」
言葉を発するたびに喉が乾いていく。まるで、声にすることで何か取り返しのつかない事実を引きずり出してしまいそうな、そんな感覚だった。
少女は何も言わない。ただじっと、涙の浮かぶ瞳で海翔を見つめている。
その沈黙が、耐え難かった。
「冗談だろ?」
どこか、かすれた声が出る。自分が何を言いたいのかもわからない。ただ、この異常な状況を笑い飛ばしたかった。
けれど――
「冗談じゃ、ないわ」
彼女は静かに首を振った。
「あなたは私のことを知らない。でも、私はずっとあなたを知っているの。ずっと――ずっとよ」
白雪八重。
そう名乗った少女の声は、静かなのに、どこかとても悲しげだった。
「私のことを覚えていないのは、仕方がないわ。だって……あなたは、“悲病”に触れてしまったから」
悲病。
その名前を聞いた瞬間、何かが胸を締めつけた。
この言葉を、どこかで知っている気がする。
だけど、思い出せない。
「……悲病って、なんだよ?」
海翔は眉をひそめた。
「あなたの中にあるもの」
「……は?」
「あなたは、すでに“悲病”に選ばれてしまっているの」
八重は、ふっと微笑んだ。
その笑顔が、ひどく痛々しかった。
まるで、すべてを知っている者の顔。
まるで、取り返しのつかないものを見つめるような目。
まるで―― 死者が生者を哀れむような表情だった。
「ついてきて」
彼女はそう言うと、踵を返し、街灯の光の外へと歩き出した。
「おい、待てよ!」
呼び止めようとするが、なぜか声が掠れる。息が詰まるような感覚。心臓が微かに震える。
八重の影が、闇の中へ溶けていく。
――ここで行かなければ、永遠に彼女とは会えなくなる気がした。
それはなぜだかわからない。けれど、彼の直感がそう訴えていた。
海翔は足を踏み出した。
一歩、また一歩。
そのたびに、周囲の景色が歪んでいくような錯覚を覚えた。
街灯が遠ざかる。音が消える。
闇が深くなる。
そして――
気づけば、まったく知らない場所に立っていた。
静寂。
月明かりだけが淡く照らす、異様な場所。
古びた廃墟のようだった。
床には埃が積もり、壁にはひび割れが走っている。だが、何よりも異様だったのは、ここが 完全に無音 であることだった。
足音すら響かない。
まるで、この空間だけが世界から切り離されているかのような――そんな感覚。
「ここは……」
「“悲病”の始まりの場所よ」
八重がそう言った瞬間――
世界が歪んだ。
ここまで読んでくれたあなたに、心からの感謝を。
この物語は、「見えないもの」 に焦点を当てている。
それは幽霊かもしれないし、呪いかもしれない。
しかし、本当に恐ろしいのは、人の心が生み出す影 なのかもしれない。
登場するキャラクターたちは、みな何かを背負っている。
忘れたくても忘れられない記憶。
見たくなくても目の前に現れる過去。
それを「病」と呼ぶならば、果たしてそれは 誰にでも起こりうるもの なのだろうか?
もし、この物語を読んでいる途中で、ふと 自分の心の奥底 を覗きたくなったなら――
きっと、あなたの中にも 「悲病」 があるのかもしれない。
それが 「救い」 なのか 「呪い」 なのかは、あなた次第だ。
最後まで読んでくれてありがとう。
この先の物語の続きを、どうか見届けてほしい。