3、始まり(短編の話③)
「どうしたんだい、ルイーザ? 最近、いつも浮かぬ顔をしてるじゃないか?」
渋い低声で我に返りました。いつもどおり、わたくしとピヴォワン侯爵は大広間でチェスをしておりました。
夏、真っ盛りの蝉の鳴き声が外から聞こえてきます。
心配そうなグリーンアイに吸い込まれ、わたくしはポロポロと涙をこぼしてしまいました。
眼鏡が濡れて、さぞ、みっともなかったことでしょう。わたくしは眼鏡を外し、小テーブルに置きました。ボヤけた視界に、息を呑む侯爵のお顔が映りました。
「なにか苦しんでいるんだね? 私でよかったら、なんでも聞くよ? 君は息子の婚約者……いや、私の大切な友人だからだ」
もう、無理です。わたくしはあなたの息子ではなく、あなたを愛してしまったのです。しかも、両親は借金まみれで、あなたの財力を当てにしている――そんなセリフが喉のところまで、出かかっていました。
わたくしが打ち明けられたのは、借金のことだけでした。
これで彼は愛想を尽かしてくれる。わたくしは幸せを奪われる代わりに、罪悪感からは解放されるのだと思いました。それなのに彼は……
「借金のことは気にしなくていい。私がなんとかするから」
と、おっしゃったのです。
そして、唖然とするわたくしを抱きしめてくださいました。
ほのかに立ち昇る香水と男臭さの融合に、わたくしは訳がわからなくなりました。彼の匂いを胸いっぱいに吸い込み、「ありがとうございます」を繰り返すしかなかったのです。
それから、わたくしの意識は大きく変化しました。大好きなピヴォワン侯爵に負担させるものか、自分の力で戦ってやると。
四六時中、考えて考えて考え抜きました。寝る間も惜しみ、彼の屋敷へも行かなくなりました。これも愛する彼のため。
そして、ついにひらめいたのです。
チェスと母が開くサロン。これを結びつける!!
チェスは貴族社会で人気でしたが、公式な試合というのはまだありませんでした。
賞金を用意し、頂点を決定する試合を開催するのです。人も集まりますし、夢があります。予選は無料、本戦は会員制のサロンで開き、有料にします。
わたくしはさっそく、母に相談してみました。我が家は美なら父、知なら母なのです。母には人脈もあります。
賞金を用意するのくだりで眉間に皺を寄せていた母は、最後まで聞き終えるとニッコリ微笑みました。
「いいんじゃないかしら! やってみましょう!!」
姉さん女房強し。正直な話、誰が見ても美形の父ではなく、知的な母に似ていると言われるのが嫌だったんです。でも、この時は母に似ていることが、大変誇らしく感じられました。
母の行動力には目を見張るものがあります。すぐさまサロンを開き、チェス大会の参加者を募りました。母だけでなく、父や兄妹もそれぞれの人脈を駆使し、宣伝してくれます。王家とのつながりもあるジェラーニオ家だからこそ、立てられた戦略でした。
わたくしも、ぼんやりはしてられません。久しぶりに婚約者宅へ出向きました。目的はもちろん、ピヴォワン侯爵です。アルマンはやはり留守でした。
わたくしは侯爵にチェスの大会の話をしました。
「大会を開催するにあたって、何かアドバイスがございましたらと思い、お訪ねいたしました」
いつもの大広間で、チェス盤を挟んだ向こうにいる侯爵は顔を輝かせました。
「そういうことなら、ぜひ協力させていただきたい! 人集めもするし、賞金は私に用意させていただけないだろうか?」
賞金なんてとんでもない……。これ以上、ご迷惑をおかけするわけにはいかないと固辞しましたが、侯爵は首を縦に振りませんでした。
「君が屋敷に来なくなって、傷つけてしまったのだろうかと、私はずっと気に病んでいた。君のためにできることなら、なんでもしてあげたい、そういう気持ちなのだよ? なぜだろう? 実の息子より、君のことを愛おしいと思ってしまうのだ」
こんな嬉しいことを言われて、頭を振り続けるわけにはいきません。わたくしは彼の好意を受け入れることにしました。
グリーンアイに捉われると、時が止まってしまいます。訪ねてこないことを気に病んでいたと聞いて、わたくしは昇天してしまいそうでした。
しばらくぶりの彼の碧眼には熱く燃えたぎる炎が宿っていました。以前の物憂げな感じとはちがいます。とてつもない生命力を感じたのです。彼のパワーに影響されてか、わたくしの体内にも小さな炎が生まれたようでした。それは欲望に近く、表に出すのが浅ましく感じられましたが、彼に手を握られると、燃え盛る烈火になりました。
あの時のように抱擁されたい。彼の匂いを胸いっぱいに吸い込み、厚い胸板にこの身を預けたい。クルンとした口髭や目尻の皺を指でなぞることができたら、どんなに幸せでしょう。
わたくしの勇気は体内を暴れ狂う欲望に比べたら、ごくごくささやかなものでした。
「あの……ピヴォワン侯爵……厚かましく恐縮なのですが、一つお願いを申し上げても構わないでしょうか?」
彼は疑問符を頭の上にくっつけて、少しだけ首を傾けます。それは小鳥の動きに近しいものがありました。おわかりになるでしょうか? 彼は身長も高いし、筋肉質なのです。強面の初老なのです。
そんな厳つい彼が、かわいらしい振る舞いをすることの希少価値が! いわゆるギャップ萌えというやつです。
わたくしはキュンキュンしながら、勇気を振り絞りました。
「おとうさま……とお呼びしても構わないでしょうか?」
侯爵、卿という呼び方には距離があります。わたくしはもっと彼に近づきたかったのです。
ピヴォワン卿はキョトンとした鳥しぐさから一転し、破顔されました。
「なんだ、そんなことか? いいよ、好きなように呼びなさい。君は未来の娘なのだからね……」
最後の言葉はどこか影があるように感じられました。わたくしの密やかな願望が、そのように感じさせたのかもしれません。彼のそばにいられるだけで充分なのだから、欲深にならないようにと、わたくしは自分を戒めました。決して叶わぬ望みを抱いても、不幸になるだけですから……
ピヴォワン卿……いえ、おとうさまは貴族以外にもチェスを広めてはどうかと、ご提案されました。
「貴族社会は案外狭いものだよ。それに一年の半分は地方に住んでいる。王都に集結するのは春夏の社交シーズンだけさ。身分関係なしに能力だけで戦える場があるとしたら、とても素晴らしいことだと思うのだけどね」
「ナイスアイデアですわ!! おとうさま! すぐにでも実行しましょう」
まずは王都から……
わたくしは様々な場所へ行き、チェスの無料教室を開きました。修道院、教会、孤児院、図書館、博物館、美術館……まだまだ、これでは庶民まで下りていません。わたくしは町の酒場と呼ばれるような場所や街頭などでも、チェスを教えました。
大活躍したのが、絵で意味がわかるようにした解説書です。腕に覚えのある妹が協力してくれました。これによって、文字を読めない庶民でもチェスを楽しめるようになりました。
よその若い娘たちがデビュタントを終え、お茶会や舞踏会に興じている間、わたくしはチェスの伝道に力を尽くしていたのです。
夏が終わり、王都に集まっていた貴族たちはそれぞれの地方に帰ります。父は各地方の領主たちに印刷したチェスの説明書を何部も渡し、広めるよう依頼しました。
チェスのルール自体はわかってしまえば簡単です。五、六歳の子でも理解は可能なのですよ。難しいのはゲームの中での駆け引きや戦い方です。シンプルなルールの下でどれだけ能力を生かせるか。地位、経済力に関係なく、いまや誰にでも門戸は開かれています。
チェスの大会の予選は冬に開かれました。そして次の夏、母の開くサロンで決勝戦が行われたのです。