13、チェスは簡単?
ローランがチェスに興味を持ってくれたのは、喜ばしいことでした。
愛息子のノエルはまったくの無関心ですもの。負けるからと、対戦もしてくれません。
「これはチェスと言って……」
「そんなことは、わかっていますよ。僕が疑問に思ったのは、そんなくだらない遊び、大人がやって楽しいんですか?……ってことです」
な、なんてことを……これはレオンじゃなくても、ムッとしますよ? チェスがくだらない遊び? 人が楽しんでいる趣味をそのようにけなすのは、いただけません。
わたくしは怒りを隠すのに苦労しました。
「えっ、ええ……楽しいわよ? 心理的な駆け引きや戦略を考えるのが、おもしろいの」
「そうは思えませんけどね。子供だって今どき、そんな馬鹿げた遊びはしませんよ。脳が退化しそう」
ええ。うちのノエルは嫌がって全然遊んでくれませんけど、嘲ったりはしません。
「それは言い過ぎじゃないかしら? やってみないと、おもしろさに気づけないことって、あるわよ?」
「いやぁ……やるまでもないでしょう? どこからどう見ても、子供っぽいおままごとにしか見えません。実際に戦略を練って、兵を動かすのは大変なことですよ。ちゃっちい盤上でそんなゴッコ遊びをしてるなんて、情けない話です」
あのぅ……実際に戦略を練って兵を動かした人なら、わたくしの前に座っているのですが……
「僕なら、そういうゲームはしたくないなぁ。僕は兵を率いる側の人間になるつもりですから、ままごと遊びに影響された変な策に惑わされては困るんですよ」
「そんなに簡単なものでも、なくってよ?」
「簡単に決まってますよ。駒の種類は歩兵とキングとクイーン、それと僧侶と塔ぐらいでしょ?」
「騎士を忘れてる」
ここで、怒り心頭のレオンが口を挟みました。あーー、カンカンですよ? 実戦で華々しい戦績を残された方です。その方に知ったかぶりはマズいでしょう。
意外にも、レオンは落ち着いていました。乱れ知らずの口ひげの先は、ピンと上を指しています。
「簡単だというのなら、勝てるのだろうな?」
「当然ですよ。馬鹿らしいから、やらないだけです」
「あいにく、私はチェスをつまらないとも、簡単だとも思わない」
「それは残念です。あなたほどの名声を得た人が……」
「いいかい? 騎士の世界では決闘裁判というのがある。戦いで平等に罪を裁くのだ」
「??……騎士の話です? 決闘裁判は野蛮な方法だと思いますが。力で、どうにかしようだなんて……」
「単なる力ではない。プレッシャーに耐えうる精神力、戦闘技術、勝つための知略、チャンスをものにできる才覚、神に愛される能力。最後に運を味方にできた者が勝てる。君は無神論者かね?」
「その質問には答えたくありません。脱線してますが、意図的に論点をずらそうとされてます?」
子供から見れば、レオンは怖いオジサンです。よくもまあ、物怖じせずに受け答えができるものだと、わたくしは感心してしまいました。
言い争いは続きます。
「論点ずらしではないさ。全部つながっている。さっきも言ったように、勝敗を決めるのは強さだ。決闘裁判というのは、非常に原始的かつ合理的な裁判なのだよ?」
「意味がよくわかりませんが、世の中が弱肉強食ということをおっしゃりたいので? なるほど……強者が勝利して、弱者を淘汰するという点に関しては、決闘裁判は合理的です」
よかった。二人の意見が合致しました。これで仲直り……と思いきや、
「ふむ、強さは正義だと君は考えるのだね? ならば、証明せねばならぬな?」
「え? 僕がです? 何を証明するんですか?」
「先ほど、君はチェスを簡単だと馬鹿にした。私はチェスを愛している。愛する人をけなされた時、君ならどうする? 名誉を回復したいと思うだろう?」
「それはあなたの問題であって、僕の問題では……」
「君は一方的に偽りの認識をもってして、チェスの名誉を傷つけた」
「チェスがくだらない根拠は、さっき述べたはずです」
「ままごとだの、駒の数だのは根拠にならない。簡単だと言うのなら、証明しなさい」
ローランは黙りました。減らず口を叩くのにも、限度があるということでしょうか。相手が悪かったですね。
「大人は自分の言ったことに責任を持つ。人の上に立つ者は、なおさら気をつけねばなるまい。将来、兵を指揮するような人物になりたいなら、逃げてはいけない」
レオンは言い聞かせるように話します。まっすぐなグリーンアイは、笑っていました。不敵な笑みといったところでしょうか。
そんな顔をされたら、また惚れ直してしまうではないですか。
「何度も言うよ。君はチェスが簡単だと言った。世の中が弱肉強食だとも。男に二言はないはず。私は愛するチェスの名誉を回復するため、君に戦いを申し込む」
チェックメイト――
心の声がつぶやきます。さあ、逃げ場を失ったキングはどうするでしょうか? まさか、裸の王様ではないですわよね?
「受けてたちましょう」
ローランの緊張した声が、広間に響きました。
というわけで、レオンとローランがチェス対決をすることになったわけですが、すぐには試合を始められませんでした。
あれだけ見下し発言をしておいて、ローランはチェスのルールすら知らなかったのです。わたくしが一から教えることになりました。
「ん? なんで歩兵はニマス動けるんです? 移動範囲と取れる駒の位置がちがうのも、腑に落ちません」
「ポーンは地味だけど、特殊な駒なのよね。ニマス動けるのは初動だけよ? アンパッサンという技もあるわ。これは使っても使わなくてもいいんだけど……あとで説明するわね。それと、相手の陣地の一番奥に行くと、キング以外の好きな駒に変えることができるのよ」
「好きな駒って、一番強い駒に変えるに決まってるじゃないですか? わざわざ、好きな駒っていうルール設定にする必要あります?」
「ええ。だいたいみんな、クイーンにするわね。でも、まれに……」
わたくしは騎士の駒をポーンと入れ替えました。
「ナイトにすることもあるわ。ほんとに、ごくごくまれだけどね。わたくしも噂で聞いただけ。遊び以外では見たことないわ」
「嫌いだなぁ、そういう無駄ルール。変化する駒は指定すべきですよ。くだらない」
「そうかしら? ゆとりがあったほうが、わたくしは良いと思うわ。娯楽ですもの」
「娯楽に興じるのは幼稚ですよ。僕は教養を得られるものにしか、興味がないです」
文句が止まりませんねぇ。でも、楽しいです。ローランも口でああは言っても、興味津々ではないですか。青い目が生き生きしているのですよ。こんな彼を見るのは初めてです。
「ねぇ、ローラン。あなたはどの駒が一番好き?」
「そんなの決まってるじゃないですか? 一番強い女王以外に選択肢はないですよ」
「強さっていうのは、一つの駒では成り立たないわ。わたくしは、他の駒にない動きをするナイトが好き」
わたくしは、視線をレオンへと移動させます。満足そうに微笑むわたくしのナイトが好きなのは、クイーンですよ。やはり血筋ですわね。
クイーンが好きな理由はわたくしみたいだから……ですって。わたくし、そんなに女傑みたいかしら? 素敵なナイトに守られるか弱いお姫様ですわよ?
トスはレオンがやります。白と黒のポーンをふさいだ両手の中で混ぜ合わせ、それぞれの拳で握りました。さ、お選びなさい。
神妙な面持ちで、ローランが選んだ右手から出てきたのは、白でした。
先手必勝ですよ。頑張って!