10、哀れな子
ノエルがローランを傷つけてしまったと、思ったのです。わたくしは愛する息子ではなく、ローランのほうへ向かいました。
「ローラン、大丈夫!? まさか、ケガをしてしまったの!?」
「……ノエルが僕を剣で打ちました」
ショックで目の前が真っ暗になりました。あれだけ人を傷つけてはいけないと、言い聞かせていたのに、預かっていた子を……しかも血のつながった甥を……
でも、ノエルに限って、弱い者いじめをするわけがありません。何か理由があるはずです。決して揺らがぬ信頼があるからこそ、わたくしは冷静でいられました。
「すぐに手当てをしないと……打たれたのはどこ?」
「肩です」
ローランは碧眼を潤ませます。現実にはあり得ないのでしょうが、わたくしは心臓をギュッと握りしめられたような感覚に襲われました。
「ごめんなさいね。立てるかしら? 歩ける?」
ヨロヨロと立ち上がる様子は、演技とは思えませんでした。少なくとも、子供がするような芝居には見えません。薄闇でわかりにくくても、青ざめて額に汗をかいているのが、見て取れましたし、小刻みに震えていました。
申し訳なくて情けなくて、わたくしが泣きたくなってしまいました。
しかし、傷ついた人を前に泣いている場合ではありません。わたくしは被害者ではなく、加害者の母。責任を問われる側なのですから。
わたくし、これまでにないほど眼筋に力を入れて、ノエルをにらみつけました。
「事情はあとで聞くわ。ローランにあやまりなさい」
ノエルはわたくしの豹変ぶりに、びっくりしていました。何度か叱ったことはあります。やはり、男の子だから遊んでいて手が出ることはあるのですよ。ですが、凶器を使ったのは始めてです。木剣は凶器です。打ちどころが悪ければ、命にかかわります。
これまでとは違う空気を感じ取ったのでしょう。ノエルはうつむきました。
「ノエル!」
「おれは、あやまらないよ」
ノエルから出たのは、思いがけない返答でした。ことの深刻さを理解して即座にあやまると、わたくしは思っていたのです。しかも、一人称“おれ”ですよ? たぶん、使用人の子の影響だと思いますが。
「どうして?……人を傷つけてはいけないと、いつも言っているでしょう? なぜ、こんなことを……」
「おれは悪くない。でも、理由も言いたくない」
「どうしてなの!? 木剣は当分使ってはいけません。反省するまでは、武器の所持を禁じます!」
「そうか、そいつの肩を持つんだな? わかった」
ノエルはそれだけ言うと、わたくしの横を素早く通り過ぎていきました。ローランを支えるわたくしには、追いかけることができません。
さまざまな思いが駆けめぐり、わたくしは吐いてしまいそうでした。泣いたり吐いたりしなかったのは、責任があるからです。
わたくしは足元のおぼつかないローランを背負い、屋敷に戻りました。
九歳はまだまだかわいい盛りですが、おんぶや抱っこの年齢ではありません。驚いた使用人がわたくしの役目を代わろうとすると、ローランは「大丈夫です」と言って、降りました。数分前のおぼつかない足取りが嘘のように、しっかりしています。談話室まで手助けなしにたどり着けました。
重傷であれば、その場で手当てすべきでした。しかし、意識もしっかりしており、自分の足で立てたため、談話室まで歩かせることにしたのです。
わたくしは談話室のソファーにローランを座らせました。薔薇の季節ですから、夕暮れ時はまだ冷えます。暖炉の火をつけて、使用人は出て行きました。医療品を届けるよう、申し付けています。
「さぁ、服を脱いで。傷の具合を確認するわ」
「え?」
当たり前のことです。この子の幼いところは、その当たり前のことに考えが及ばなかった点でした。いいえ、ケガをしたら手当てをしてもらえる、当然の権利すら、これまで与えられていなかったのかもしれません
「どうしたの? ケガをしたのは肩だったわね? 動かすと痛むのかしら? 脱ぐのを手伝うわ」
わたくしが伸ばした手をローランは、はねのけました。
「もう大丈夫です。たいしたケガじゃありませんし、氷で冷やせば治ります」
「何を言ってるの? さっきまで、足元がふらついていたじゃない。ちゃんと見せないとダメよ?」
「……ごめんなさい。ちょっと大げさにしてしまいました。本当は少し、かすった程度です。どうか、ノエル君を叱らないでください」
この子、嘘をついていたのでしょうか? だとしても、ノエルが木剣を振り下ろしたのには変わりありません。
「いいえ、見せなさい。かすったのでしょう? そのままにしておくわけには、いきません」
「全然、大丈夫ですって! ほら!」
ローランはピョンピョン、ジャンプして見せました。
「見た目がなんともないとしても、あとで症状が出る可能性もあります。ノエルがしたことで、ケガをさせてしまったのが事実なら、わたくしは確認する義務があります」
わたくしも断固としてゆずりません。万一、この子が嘘をついていて、無傷だったとしても、怒るつもりはありませんでした。ノエルの不自然な態度が気になっていましたし、少しでも情報がほしかったのです。
大人に強く出られると、こまっしゃくれた子でも逆らえないようでした。
ローランは肩を落とし、ジュストコールを脱ぎ、チュニックの紐を解きました。
傷一つないきれいな体が出てくるものだと、思っていました。ノエルが打ったとされる肩も、顔と同じで白いのだと……。あいにく、肩は赤黒く内出血していました。
それだけではありません。お腹や腕に打撲や切り傷、背中には火傷の痕があったのです。
彼が服を脱ぎたがらなかったのは、これが原因でした。
ちょうど、使用人がノックしたので、わたくしは医療品を受け取りました。中へは入らせません。
「痛かったでしょう。ひんやりするお薬を塗って、あとは氷で冷やしましょう」
傷痕のことは非常に聞きづらいです。痛々しい。見て見ぬふりは絶対にできません。
「あの……」
「傷痕のことです? 馬車の前に飛び出してしまって、この有り様ですよ。あ、でも、見た目ほど痛くはないんです」
嘘に決まっています。ローランの声はうわずっていました。背中に点々と散らばるケロイド状の火傷痕は、明らかに人為的なものです。けれども、問い正せるほどの信頼関係を、わたくしはまだ築いていませんでした。
相手が沈黙している時、嘘つきは饒舌になります。ローランの舌は休みませんでした。
彼の言い訳はこうです。
馬車の前に飛び出す度胸試しのゲームが、子供たちの間で流行っていた。見事、やり遂げたヒーローは仲間の全員から宝物をもらえるのだと。
庶民の子供だって、そんな野蛮なことするのかしら? 実際にある遊びかもしれませんけど、貴公子然としているローランがするとは、にわかに信じ難いです。この子、そんなに嘘が得意ではないようですね。
でも、歩けないのが演技だったとしたら、性格に一貫性がありません。下手なパッチワークみたいにチグハグしていました。
「手当てを奥さま自らされるのですね? 使用人の仕事では?」
「医療の知識を持つ使用人は限られています。手の空いた人がやるのですよ」
器用に包帯を巻くわたくしを、ローランは凝視します。そんなに変でしょうかね?
包帯ぐらい巻けますよ。ノエルが六歳のころ、木から飛び降りて、足を捻挫したことがあります。夏だったので、毎日包帯を取り替えてあげましたもの。
そのエピソードを話したところ、ローランの顔つきが暗くなりました。暗いというか、陰険な顔つきです。どことなく、マルグリットに似ていました。