月のイルカ
きらきらと夜空の星たちのように煌めく、銀色のふたつの瞳がありました。その煌めきを、ほんの少しちらりと見ただけの渡り鳥でさえ心を奪われてしまうほど、それはそれは美しい瞳でした。その瞳の持ち主は、広大な海をたったひとりで旅するふしぎなイルカでした。仲間からはぐれてしまったわけでも、放浪の旅をしているわけでもありません。彼は宝物のように大切で尊いなにかを、ずっとずっと探し求めているのです。
ある日のことでした。白く光る衣装を身にまとい、ゆるやかに踊りながらゆらゆらと旅をつづけるクラゲたちが、イルカに近づいて挨拶をしました。
「こんばんは。きみも旅をしているのかい?」
「そうだよ。宝物を探しているんだ」
そう答えたイルカは、クラゲたちのまわりをくるくると踊るように泳ぎはじめました。
「どんな宝物?」
白いドレスを身にまとった小さなレディーがたずねました。
「見つけたらきっと、心が優しくなるもの」と、イルカは答えます。
「見つかるといいわね、宝物」
「うん。ありがとう」
小さなレディーにお礼を言うと、イルカはクラゲたちとさよならをして、夜の海へと消えていきました。
ある日のことでした。夜空に浮かぶ満月を見つめている少年がいました。くるくるとうねり、無造作にはねる茶色い髪が、ふわりと潮風になびいています。目を閉じて耳を澄ませば優しい波の音が聞こえ、深呼吸をすれば潮の香りが少年の胸を満たしました。夜の海にいるあいだだけ、彼はありのままの自分になることができるのです。
「どんなことを祈るの?」
少年の足もとにはイルカがいました。満月の光をとりこんで煌めくふたつの瞳が、少年の顔をじっと見つめています。少年はイルカの声にも姿にも気づくことなく、涙でぼやけてしまった満月を見つめたまま静かにつぶやきました。
「ただ、ありがとうの気持ちを伝えたい。父さんと、母さんに」
それは潮風にのる波の旋律のように美しく、海の泡のように儚げな祈りでした。
ある日のことでした。こと座のほうに向かって海をすすんだイルカは、小さな島を見つけました。その島には水の妖精が住んでいました。彼女の肌は透き通るように白く、エメラルドグリーンの瞳とコバルトブルーの艶やかで長い髪を、より美しくきわ立たせていました。
水の妖精は島を訪れる人々にいたずらをすることが好きでした。霧となって人々を迷わせ、嵐を呼んで人々を困らせ、雨あがりには、なにごともなかったかのように水滴の音を響かせて、軽やかにスキップをするのです。
水の妖精のいたずらは彼女にとってはただの挨拶のようなものでしたが、人々は水の妖精の姿を見ることができないので、いつしかそのいたずらを、神の祟りだとか亡霊のしわざだと信じてしまい、とうとうその島へはだれも訪れなくなってしまいました。
ひとりぼっちになってしまった水の妖精は夜のあいだずっと、ながれ星の数を数えたり、日ごとに姿を変える月を眺めたりして、涙をぽろぽろとこぼしつづけました。
「わたしはここにいるの。だれか気づいて」
水の妖精の祈るようなつぶやきを耳にしたイルカは、彼女にたずねました。
「もう、いたずらはしない?」
「うん。しないよ」
水の妖精のそばにはイルカがいました。イルカのその問いかけに、水の妖精は迷うことなく答えました。今まで自分のことしか考えていなかったことを、深く反省していたのです。イルカはすぐにアクアマリンの風にお願いをして、《水の妖精を見ると幸せになれる》という噂を世界中の人々に届けてもらいました。
ほどなくして、彼女の島は人々でにぎやかになったのでした。
ある日のことでした。寂れた海底の街のなかを、何日も彷徨っている人魚姫がいました。思うように体が動かないようです。銀色に光る魚の群れが、ちらりと彼女を見てそのまま通り過ぎていきました。海面から届くわずかな月の光が、彼女の胸元で揺れる真っ白な真珠のネックレスを、うっすらと照らしています。
「なにをしているんだい?」
人魚姫のことが気になったイルカは、彼女にたずねました。
「ええと、泳ぎ方を忘れてしまったのかしら」
彼女は答えましたが、自分の答えに満足していないようです。
「ここは……どこなの?」
「海のなかだよ」
「ええ、そうよね」
彼女は、イルカの答えにも満足していないようです。
先ほどの銀色の魚の群れがふたたび戻ってきましたが、ちらりと彼女を見ると、やはりそのまま通り過ぎていきました。彼女が困っていることにだれも気がつきません。いいえ、気づこうとしないのです。
「大丈夫。きみは今、迷っているだけなんだ。いつか思い出せるよ」
イルカのその言葉を聞いた人魚姫は、こくりとうなずきました。そして、光を求めるように海面を見あげると、胸元の真珠を両手で包み、しずかに歌いはじめました。
憂いを知らず
喜びの心はわからない
悪を知らず
善の優しさはわからない
闇を知らず
光の美しさはわからない
どちらかひとつを選んでも
必ずもうひとつが
恋しくなるわ
ある日のことでした。海岸沿いのちいさな家に、青年がひとりで暮らしていました。彼は、いつかの満月の夜の少年でした。
白い壁には青年が描いた彼の両親の肖像画が飾られており、机の上にはノートとスケッチブックが何冊も積み重ねられ、床の上は未完成の作品と絵具で埋め尽くされていました。
青年は陽の光のなかで絵を描きつづけ、月の光のなかでいつまでも詩を紡ぎました。
そうして、ある日の夕刻のことです。下まぶたを深い海の色に変えた彼は、屋根の上にのぼると大きく両手を広げ、沈みゆく水平線の太陽に向かってこう叫びました。
「残せるものはすべて残した! やりとげた!」
彼の未完成だったすべての作品が、ついに完成したのです。
その日の夜、浜辺に青年がやってきました。そっと靴をぬいで裸足になった彼は、あの日と同じ満月のまばゆい光に照らされながら、少しずつ、ゆっくりと冷たい海のなかへと進んでいきます。
--この世界への未練はもうなにもない。
青年にとって死ぬということは、この世界からの卒業であり新天地への旅立ちでしたが、彼の揺るぎない決意を感じとったイルカは思わず叫びました。
「だめ! きみにはまだ、やるべきことがあるだろう?」
「やるべきこと?」
どこからともなく聞こえてきた切羽詰まったようなイルカの声で、青年はふと我に返り、立ち止まりました。そして、そんな彼にゆっくりと近づいたイルカは、ふたつの瞳を煌めかせながら懇願するように言いました。
「生きて。ひとりじゃないから」
あの夜、この海のなかで泡となりそのまま消えるつもりだった青年は、幼い頃に両親を亡くし、ずっとひとりぼっちでした。心にぽっかりと空いた穴を、絵を描くことや詩を書くことで埋めようとしました。満月の夜になるといつもここに来て、ひと晩中、神にすがるように祈っていました。けれど、彼はようやく気づいたのです。
青年には、毎朝新鮮な野菜や魚を届けてくれるおじさんやおばさんがいます。彼のことを「絵描きのお兄ちゃん」と呼ぶ近所の子供たちがいます。家のなかには植木鉢で大切に育てているガジュマルの木があり、庭にはたくさんの花が咲いています。夜空を見あげれば、瞬きながらこちらを見つめる星たちと、彼の足もとを照らしてくれる大きな銀色の月が浮かんでいます。
「そう、ぼくはひとりじゃない。いままでも、これからも」
ある日のことでした。夜空に浮かぶ満月を見つめている青年がいました。くるくるとうねり、無造作にはねる茶色い髪が、ふわりと潮風になびいています。目を閉じて耳を澄ませば優しい波の音が聞こえ、深呼吸をすれば潮の香りが青年の胸を満たしました。夜の海にいるあいだだけ、彼はありのままの自分になることができるのです。
「どんなことを祈るの?」
青年の足もとにはイルカがいました。満月の光をとりこんで銀色に煌めくふたつの瞳が、青年の顔をじっと見つめています。青年はその瞳を見つめ、優しく答えました。
「ただ、ありがとうの気持ちを伝えたい。父さんと、母さんに。そして、きみに」
きらきらと夜空の星たちのように煌めく、銀色のふたつの瞳がありました。その煌めきを、ほんの少しちらりと見ただけの渡り鳥でさえ心を奪われてしまうほど、それはそれは美しい瞳でした。その瞳の持ち主は、広大な海をたったひとりで旅するふしぎなイルカでした。仲間からはぐれてしまったわけでも、放浪の旅をしているわけでもありません。彼は宝物のように大切で尊いなにかを、ずっとずっと探し求めていたのです。
そして、ようやく見つけたのでした。