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 8 臆病な逃亡者は臆病な逃亡者であることをやめる




「非礼は許す。……いい理由をもらった」


 大変機嫌良さげな声だった。彼はゆっくりと振り返って夫人の腹部に目をやると、とても満足気に笑ってすぐさま掴んでいた腕を離し、今度はエスコートするようにそっと夫人に腕を差し出した。夫人はしゃくり上げながらもその腕に手を乗せる。


「金を払ってやれ」


 エレネに顔を向けることなく、男は従者にそう命じた。

 従者の男が呆けたような顔になる。そして、みるみるうちにその顔を怒りで真っ赤に染めた。


「お待ち下さい。この女です、この女なんです。この女が助言を読み違えたアレスなんですっ。間違いありません。今すぐこの魔女に罰をお与えください!」


 突如従者はエレネを指差して喚きはじめる。しかし、その言葉はもう、エレネの心に恐怖を与えたりはしなかった。店内は涼やかな水の気配で満たされている。店内にこびりついていた暗い灰色の影をどんどん洗い流してゆく。


「……何の話だ? 私は料金を支払えと言ったのだが」


 前を向いたまま、少し苛立ったように男はそう言った。


「ですから、奥方様に偽りの助言を……」


「……黙れ。おまえは、幸運を与える男児が生まれるという助言が偽りだと言いたいのか!」


 男の声に抑えきれない怒りが滲む。従者の青年はびくっと肩を震わせ一瞬にして顔色を失い、媚びるような笑顔を浮かべ「め、めっそうもございません」と、しどろもどろに答える。そして、深くその場で頭を下げた。


「もういい、おまえが払っておけ」


 ドアの脇に控えている暗い目をした侍女にすれ違いざまに命令すると、男は夫人を伴いゆっくりと店の外へ足を踏み出した。


(元気に産まれてきてね。……お母さんを守ってあげてね)


 軽く目閉じて、彼女が宿している命に向かって心の中で呼びかける。すうっと水の気配が動く。エレネを中心にして大きな波が起こり、丸く広がりながら遠ざかってゆく。波は扉から一歩外へ出た夫人へと届き、彼女を追い越して外へ外へと広がっていった。何か感じるものがあったのだろうか。夫人がエレネを振り返って目礼し、再び前を向くと背筋を伸ばしてすっと姿勢を正した。そのまま夫と寄り添い歩いてゆく。


 支払いを命じられた侍女がドアを閉める。

 彼女は喉に違和感があるのか、床に向かってかはっ、かはっとという乾いた咳をし始めた。

 その奇妙な音にエレネが気を取られた時だ。突然侍従の男駆け寄って来て、怒りに任せてカウンターを両手で叩いた。


「おまえ……おまえのせいだ。お前のせいで何もかもが滅茶苦茶だ! どう責任を取ってくれるんだよ。あの女は、あのまま一生あの男にいたぶられ続ければ良かったんだよ。何もかもを台無しにしやがって! やっと……やっと開放されたと思ったのに」


 憤怒の表情でエレネの両肩を掴み強く揺さぶり始める。


「なんで俺ばっかりあの男の機嫌損ねないように顔色窺って、怯えながら生きていかなきゃならないだよ。なんであの女の方が守られるんだよ。全部全部あの女のせいなのに! あいつのことにしてもそうだ。おまえが加護なんか与えたせいで、家畜みたいに扱われたのが今では立派な騎士様だとよ。ふざけんなよ。ふざけんなぁっ」


「言いたいことはそれだけですか?」


 エレネは耳に届いた自分の声の冷たさに少し驚きながらも、従者の男を睨みつける。ふざけるなと言いたいのはこっちだ。都合の悪い事は全部他人のせいにして、自分だけが不幸だと喚き散らす。こんな幼稚な男に負けてたまるか!

 様々な状況を想定して、ずっと練習してきた。練習相手になってくれたのは巡回の騎士達だ。こんな貧弱な体つきの男になど負けるはずがない!

 怒りであたたまっていたエレネの体は流れるように自然に動いた。大きく開いた手のひらを、男の目を狙って容赦なく叩きこみ、相手が怯んで手を緩ませた隙に、手首を掴んで捻り上げる。


「いぃいいいいぃいーっ」


「それくらいにしとけっ」


 ガラス扉が勢いよく開いてアルゴが店内に駆け込んでくると、苦悶の声をあげている青年をエレネから奪い取り、そのまま引きずって行って、テラスに向かって放り投げた。庭に向かって「縛り上げとけっ」と鋭い声で叫んでいる。エレネは真っ赤な顔でぜいぜい肩で息をしながらその様子を見つめていた。


 エレネを振り返ったアルゴは、先程の貴族と同じ美しい装飾の施されたスーツ姿だった。いつもぼさぼさの髪はきちんと撫でつけられ、無精ひげもきれいに剃られている。


「相手を見て冷静に対処できたな。日頃の練習の成果だ。ミディが泣いて喜ぶ。これでひとつは片付いた。でもまだもうひとつ残っている。そっちは俺では何ともできないから専門家を呼んである。そこから動くなよ!」


 エレネに向かって早口でそれだけ言うと、アルゴはテラスに向かって飛び出していった。

 足からがくっと力が抜け、エレネはペタンとその場に座り込んだ。すうっと体の中に水の気配がする涼しい風が通って、頭と体の熱をさましてゆく。


「エレネさんっ」


 アルゴと入れ違いで店内に飛び込んできたのは、スープを食べに来ていたあの青年だった。彼はカウンターを迂回してくると、すぐさま片膝をついて床に座り込んでいるエレネの体を抱きしめた。

 水の気配が濃くなる。抱きしめられたまま二人で水の中に沈んでゆくようなイメージが頭に浮かんだ。


「少しの間、こうするのを許してください。どうしても、今必要なことなんです」


 エレネは、怖いくらい真剣な顔をしている青年をぼんやりと見つめた。会えなくなってほんの一ヶ月くらいなのに、随分と長いこと離れていたような気がした。彼は、随分痩せてしまっている。顔色も良いとは言えない。


「……お邪魔しますね? ああ、いい空気になったわね。そのままでいいわよ。よく頑張りましたね、ゲディンスのエレネ」


 年嵩の女性の声がして、びくっとエレネは身体を震わせ、声が聞こえてきた方角に顔を向けた。


「覚えていますか? 資格試験の時にお会いしましたね。わたしはあなたのことをよく覚えていますよ」


 質素な白いドレスに身を包んだ老婆が、同じドレスを着た女性二人を伴い、開け放たれたままのガラス扉からゆっくりとした足取りで店内に入って来る。女性たちは全員左右で目の色が異なっていた。

 忘れる訳がない。彼女はエレネが資格試験を受けた時の担当試験官だった。

 ゲディンスのラウラ。この国のアレスの頂点に立つ存在だ。金と青の瞳を持ち、光り輝く紫色のオーラを全身から放っている彼女は、神様に近い存在となっているようにエレネには感じられる。


「この世界の神様は、人間に助言を与える遊戯をしているのだと、その時あなたにはお伝えしましたね。覚えている?」


 エレネは青年から少し体を離して頷く。


「そのままでいいの。その方にあなたが与え続けた加護が、今はあなたを守っています。まだ終わった訳ではありません。絶対に彼から離れないように」


 再び体が引き寄せられる。エレネの耳が彼の胸元に押しつけられた。それでいいのだと、老婆は微笑んで、ドアの横に立っている侍女に向かって足を進める。

 灰色の影を纏っている侍女は苦し気に、かはっ、かはっという奇妙な咳を繰り返していた。その度に大きく見開かれた茶色の瞳から涙が零れ落ちる。その時になってエレネはようやく気付いた。彼女の目は、左右で色が違う。右目が茶色で、左目がそれより明るい琥珀色だ。


「あなたのこともよく覚えていますよ。神々の遊戯に参加するなど、愚かなことをしましたね。勝っている内は良いのです。でも負けてしまったら、人間である我々には代償を払い切れません。我々には命はひとつしかないのですからね。……あなたはゲディンスのエレネに負けたのではなく、レンゲル山の水神様に敗北したということになるのですよ。ゲディンスのロベルタ」


 エレネが大きく体を震わせたことに気付いた青年が、抱きしめる力を強くする。

 ラウラが告げた名前を聞いて、エレネは彼女の存在を思い出した。ロベルタはあの店で働いていた同僚の一人だ。他の店から引き抜かれた非常に優秀なアレスだったのだが、「仲良くする気はないから、仕事以外で話しかけてこないで!」と周囲にはっきりと言い放つような、きつい性格の女性だった……


(でも……そうだ。あの時、『あの女』と、彼が指差したのはロベルタだった……)


 名前を耳にした途端に、彼女が同僚と衝突して巻き起こした数々のトラブルが次々と思い出された。こうなると、今まで忘れていられたことのほうが不思議で仕方がない。


「あなたはもう、あちら側の存在です。私たちにはどうすることもできません」


 力なくラウラがそう告げた瞬間、ロベルタはいきなり立ち上がり、制止しようと前に回り込んだ二人の若いアレスを振り切ってカウンターに駆け寄った。その手にはどこから取り出したのか、禍々しい灰色の気配を纏ったちいさなナイフが握られている。


「あなただけ幸せになるなんて許さない!」


 口から泡を飛ばしながら叫んで、ロベルタはカウンターから身を乗り出すようにして、手に持ったナイフをエレネたちに向かって投げつけた。頭上で呻き声が上がり、エレネを拘束する手に力がこもる。

 エレネの丁度顔の前にある、青年の腕の付け根にナイフが突き刺さっている。『苞』という字に似たしるしが、ナイフを中心にして軍服の袖に浮かび上がった。文字から滲み出した灰色の影がじわじわと根を伸ばすように軍服の袖に絡みついてゆく。エレネは声にならない悲鳴をあげて限界まで大きく目を見開いた。


「これでわたしの勝ちよ!」目を大きく見開いて口の片側だけを上げるという不気味な笑みを浮かべ、ロベルタが天に向かって高らかにそう宣言した。


「さわってはいけません!」


 ナイフに手を伸ばそうとしたエレネを、ラウラが叱責する。


「大丈夫です。彼は大丈夫。もうすでに勝負はついています。そのまじないは彼には効かないし、傷もそこまで深くはありません。彼は騎士です。自分の体のことはわかっています。そうですね?」 


 冷静な声でラウラが尋ねると、顔を顰めた青年は深く頷いた。


「大丈夫。刃先が少し刺さっているだけです。痺れたようになっていますが、それもすぐに消えます。……いつもそうだから」


 その時また、あの滝の前にいるような水しぶき交じりの空気を感じた。ふわっと青年の体がから立ち上がったその気配が、袖に纏わりついた灰色の影を散らしてゆく。ひとりでに外れた灰色のナイフがぽとりと床に落ちる。そのままだんだん輪郭を失って煙のようになって消え失せた。それと同時に『苞』という字に似たしるしも消える。


「うそ……加護が……消えて、ない……? あれだけの深手を負ったのだから、使い切ったはず……なのに……」


 すべての感情が抜けおちた顔で、ロベルタはぼんやりとそう言うと、突然苦し気な表情になって再び喉を両手で押さえた。かはっ、かはっ、というあの空咳のようなものを繰り返し始める。


「エレネさんが、毎日祈ってくれているからですよ。どんなに心と体が弱っていても、それでも欠かさず毎日祈ってくれている。……最初からあなたに勝ち目などなかった」

 

 深手を負ったという言葉を聞いて顔色を失ったエレネの色違いの目を覗き込んで、青年は大丈夫だというように優しく微笑む。


 エレネを取り巻く水の気配が強くなってゆく。それに従って、ロベルタの席はひどくなり、咳き込み体を震わせる度に、体から灰色の影がぶわりと立ち昇るようになった、

 ロベルタの頭上に溜まった灰色の塊は巨大な手に変わり、エレネを抱きしめて守っている青年ごとエレネを握りつぶそうと、大きく指を開いて伸び上がる。


 エレネと青年を中心にして波が起こる。先程のものよりずっと大きな波だ。灰色の手はその波に押し流され、手のひらを上にして倒れる。すぐさま起き上がった手をすぐに次の波がぶつかり押し倒し、また起き上がった手を次の波が押し倒す……ということが何度も繰り返された。


 灰色の手は、波を被る度にちいさくなってゆく。最初は座り込んでいる大人二人を余裕で握れそうな大きさであったものが、やがて子供の身長くらいになり、エレネの手と変わらない程度の大きさになった。そこでついに力尽きたように、手のひらを上に向けて倒れたまま動かなくなる。そのまま次の波にさらわれ店の外まで運ばれて、空気に溶けるように消え失せた。

 同時に、糸が切れた操り人形のように、ロベルタがカウンターに突っ伏す。


「どうして……どうして、そのこだけがもらえるの?」


 ロベルタは僅かに顔を上げると、色違いの両目から涙を零しながらぼんやりとした声でそう呟いた。カウンターの上によじ登るようにして手を伸ばし、ずるっずるっと体を前に滑らせはじめる。

 もう彼女の目にエレネは映っていない。強い執着を宿した色違いの瞳には青年の姿だけを映している。絶え間なく寄せる波に阻まれながらも、青年に向かって彼女は必死に震える手を伸ばした。でも、その指先は届かない。


「どうしてわたしがほしいものを、いつもそのこはもっているの?」


 彼女の輪郭が薄くなってゆく。まるで空気に溶けるように消えて行こうとしている。それは……もう人間がこの世を去る時のありようではない。


「ねえ……どうして? どうしてそのこのねがいはかなうのに、わたしのねがいはかなわないの?」


 欲しい玩具を買ってもらえなかった幼い子供のような喋り方だった。そして、それがロベルタの最後の言葉になった。まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、彼女の姿は完全に消え失せる。


「……終わりましたね」


 ラウラは深い悲しみのこもった声でそう言うと、床に膝をつき両手を祈りの形に組んで祈りを捧げ始めた。二人の若いアレスもそれに従う。しばらくして、二人のアレスに支えられながらラウラは立ち上がった。


「私たちはロベルタの存在が完全に消え去る前に、彼女の軌跡を辿らねばなりません。だから簡単に。……彼女はあなたが見習いとして働いていた店に勤務しながら、請われるままに、恋敵を貶めるための助言を読み取っていたの。そんなことを続けて行く内に、他人の運命を捻じ曲げることに快感を覚えるようになってしまった。……ロベルタが与えたしるしを持つ者たちは、もう現れないでしょう。彼女が消滅したと同時に、しるしも消えているはずですから」


 エレネは何度も目にしたはずのしるしを思い出すことができなくなっていることに気付く。何かの漢字に似ていると思っていたはずなのに……

 すでに失われ、思い出すこともできなくなったそのしるしは、人間であることをやめたロベルタのものだったのだ。こうやって彼女の存在はこの世界から跡形もなく消えてゆく。祈る者がいなくなった神様の名前が失われてしまうように。


「エレネ、あなたは、レンゲル山の水神様にとても気に入られているの。それは、遊戯に勝ち続けるためにはあなたが必要不可欠だから。結局私たちはアレスは神々の暇つぶしの道具なのよね。いずれ、あなたにもそういうことがわかるようになります」


 ラウラはエレネに向かってそう言うと、二人のアレスを伴ってテラスに続くガラスの扉の前に移動し始める。

 そして、彼女は扉の前で一度足を止め、エレネと、そして後ろに従う若い二人のアレスを順番に見て、年長者の余裕を感じさせる表情で言ったのだ。


「アレスは神様と人のはざまの存在です。でも命はひとつしかないの。私たちみたいに二周目の人生を生きている者は忘れがちだけど、この人生は一度きりです。今ここで出会えた人と、次の生で出会える保証はどこにもないのよ? ひとつひとつの出会いを大切になさいね」



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[一言] 面白かったです! 一気読みしました( ´∀`)bグッ! 投稿楽しみに待っております
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