7 臆病な逃亡者は立ち向かう
手の甲にしるしが焼きつけられた青年は、十日後に再びエレネの前に姿を現した。お仕着せを着た見目麗しい従者として。
彼が開けた扉から静々と店内に入って来たのは、エレネより少し年上の女性だった。貴族の象徴ともいうべき金の髪に青い瞳をしている。彼女はけばけばしい真っ赤なドレスを着せられ、大ぶりな金のアクセサリーで過度に飾り立てられていた。
きもちがわるい。第一印象はそれに尽きた。人目を惹くような華やかな美女ではないのだが、理知的な目をした優し気な雰囲気の人だ。もっと落ち着いた色とデザインのドレスが似合う。意図的に悪目出しさせ、彼女の品格を落とそうするような悪意が、その装いに込められている気がした。
彼女は店内を少し見回して懐かしそうに目を細めた。その背後には、陰気な影をまとった侍女らしき若い女性が、目を伏せ俯きがちに付き従っている。
またか……と、エレネは暗い目をして気付かれないように気を付いた。灰色の影に纏わりつかれた体が重い。店の空気も暗く淀み切っている。
頭痛はひどいし、立っているのもつらい程体は重い。それでも毎日様子を見に来てくれるおばあちゃんたちを心配させまいと、エレネは店に立ち続けていた。もう気力だけでもっている状態だ。
「あなたが、宮中伯が惚れ込んでいる、レガリアのアレスなのですね。あなたがたのせいで東と戦争になりかけましたよ? もしそうなったら、この地の多くの人間が命をうしなうことになったでしょう」
レガリアやら戦争やら、意味の分からない単語が一方的に並べ立てられる。しかし、彼女からは敵意や悪意は全く感じられなかった。責めるような響きもない。その言葉は、どうしてもこれだけは事実として伝えておかなければならない、という使命感から出たもののようにエレネには感じられた。
返事を期待している様子ではなかったので、エレネはただ静かな笑みを口元に浮かべた。そして、カウンターの上に手を置くためのクッションを用意する。片手だけ手袋をつけていない女性の手の甲には、複雑なしるしが浮かび上がっていた。彼女がお客としてここを訪れていることは間違いないようだ。
それがあの『苞』という漢字ににたしるしではないことに、エレネは心の底から安堵していた。
「そちらは、ゲディンスの南方を守る神様のものですね」
「その通りです。成程、勤勉な方のようですね」
「こちらに手を乗せていただけますか? 一度しるしに触れますがご容赦いただけますでしょうか?」
「許可いたします。まぁ、すばらしい織物ですこと。ふふっ、とても贅沢ね」
そっと指先でクッションの表面をなぞってから手を乗せる。彼女の笑顔が暗い翳りを帯びてゆく。どことなく危うい感じがする。情緒不安定な人かもしれない。こういう女性は、助言の内容が気に喰わないといきなり豹変して怒り出したりすることもあるから厄介だ。
「ありがとうございます。では始めさせていただきます」
これは早く終わらせた方がいい。そう判断したエレネは女性がクッションに手を置いた直後にしるしに触れた。心を無にして瞼の裏に浮かぶ文字を読んでゆく。
「己の過去の罪を認め、相手の心に寄り添えば、おなか……」
その途端にエレネの手は振り払われる。驚いて目を開けると、女性は蒼白な顔で胸もとに両手を押し当ていた。手袋をつけた手でしるしを隠している。
「もう……もう結構です。今日はこれで失礼させていただきます。あなたは本当に稀有な力を持ったアレスなのですね。……お代はそこの彼からもらって」
「気分を害されたのなら申し訳……」
「違うの。本当にあなたのせいではないのよ……」
彼女は縋るような目でエレネを見て、「お願いします。それ以上は声に出さないで」と唇を動かす。エレネはその先の助言まで読み取っている。ここでやめるのは本来ならば許されない事だ。
しかし、目に涙を溜めながら懇願する彼女の姿は胸に迫るものがあった。きっと何か深い事情がある……
(……あぁ、そういうことなのか)
心にひらめいたものがあった。エレネは目を伏せてぐっと唇を噛みしめる。これ以上はこの場で言葉にしないと決めた。助言を伝える方法はきっと他にもある。
「ご気分が優れないなら、どうぞあちらのソファーでお休みください…。お代は次の時で結構です。しるしは……まだ消えておりません。大丈夫ですよ」
隙間から見える手の甲を確認し、エレネが片手でソファーを差し示すと、彼女は顔を伏せて、再びエレネにだけ見えるように「ありがとう」と唇を動かした。
――その時だ。
従者の男が何かに気付いて入り口に歩み寄り、ドアを開いて侍女と共に深く頭を垂れた。
店内に入って来た男の顔を見た途端エレネの体は硬直した。
忘れもしない、あの男だ。そのまま宮殿に入れそうな、豪華な刺繍を施されたスーツに身を包んでいるが、まるで彼にだけ二十年以上の月日が流れたとでもいうように一気に老け込んでいる。
(こわい……)
指先に生まれた震えはやがて全身に広がる。彼の前から今すぐに逃げ出したいのに、足がその場に縫い留められたかのように動かない。エレネはカウンターに両手をついて体を支えながら、喘ぐように浅い呼吸を繰り返す。
(こわい……こわい……たすけて……)
ぎゅっとかたく目を瞑って、頭に浮かんだ面影に呼びかける。でもエレネは彼の名前すら知らないのだ。
「キーレン。迎えに来たよ。さあ、馬車に戻ろう?」
聞こえてきたのは甘えるような猫撫で声だった。驚きのあまりエレネの頭の中は真っ白になる。目を開けるのは怖い。しかし、本当にこの優し気な声の主が彼なのか確かめずにはいられない。エレネは恐る恐る瞼を持ち上げた。
「我々貴族は、下賤な魔女などに頼るべきではない」
柔和な表情と穏やかな声は、あの時とはまるで別人のようだ。エレネは思わず男の顔を凝視してしまう。
視線を感じている筈なのに、彼はまったくエレネの方に目を向けない。ガラス玉のように澄み切った瞳は、キーレンと呼びかけた貴族の女性だけを映している。
「ああ、私の妻は今日もとても愚かで可愛らしいね」
妻というのだから、目の前のこの二人は夫婦という事になるのだろう。夫は妻が愛おしくて仕方がないという表情で見つめているが、妻の方はエレネと同じく、恐怖で相手の顔もまともに見られないというような状態だった。
「さあ、キーレン、今すぐ私の元に戻っておいで!」
それでも、男は頬を染めて、軽く両手を広げてうっとりとそう言ったのだ。駆け寄って来る妻を抱き留めようとするように。
「わ、わたくし、ひとりで大丈夫だと申しましたよ……ね? しばらく馬車の中でお待ち下さいと……」
震える声で妻がそう言った途端に、彼はとても嬉しそうに目を輝かせた。
「寂しがり屋の君を一人にする訳がないだろう? 予定は変更だ。今日は天気がいいから、今から戻ってピクニックの準備をさせよう。ああ、君は私が贈った青いドレスに着替えなさい。君は大して美しくもないのだから、せめてドレスは豪華なものにしないと見栄えが悪いからね。本当に君は、私が教えてやらないと何ひとつまともにできない人だから困ってしまうよ。そこが可愛らしいのだけれど」
男は幸せそうに微笑んだ。エレネの右耳から左耳に抜けて行く彼の言葉は、時折鋭い棘のようにひっかかりを残してゆく。何だろうこの不穏で気持ちの悪い空気は。
「さあ行くよ?」
にこやかにそう言って彼はいきなり女の腕を強く掴むと、口調の穏やかさとは打って変わった強引さで自分の方に引っ張った。
「ちゃんと私の言う事をきいて、すべてその通りにしなければいけないよ。もっと時間をかけてわかりやすく説明しないと頭の悪い君にはわからないのかな? じゃあピクニックもやめだ。戻ったら君に色々教えてあげないといけない。理想的な貴族の妻の姿というものを」
男は上機嫌で一人で話し続ける。明らかに正気ではない。あの時怒り狂ってエレネに皿を投げつけた時より、確実にひどくなっている。
男の手はギリギリと夫人の手首を締め付けていた。彼女は必死に痛みを堪えている様子だったがとうとう我慢ができなくなったのか。
「いたっ、いたいですわ。もう少し力を緩めて下さいませ」
そう懇願して僅かに腕を引く。しかし、その声を聞いた夫は、まるで愛の言葉を囁かれたように嬉し気に笑ったのだ。さらに腕を掴む力が強くなったのか、夫人がとうとう悲鳴を上げる。
「いた……いたいんです。本当にっ……もうゆるしてっ。どうかおゆるしくださいっ」
侍従も侍女も何も見ていない、何も聞こえないという態度を崩さない。侍従は恭しく店のドアを開けた。夫は夫人を引きずるように歩き始めてしまう。
やはりそうなのだ……。エレネはカウンターの上で両手を強く握りしめていた。
彼女のお腹には新しい命が宿っているのに、誰も彼女を労わろうとしない。転んでしまったりすれば、取り返しのつかないことになるかもしれないのに。
(……お腹の子供は、あの男の子供ではない)
そう確信した途端に、ぞっと全身を冷たいものが駆け下りた。怖くて息が上手くできない。足も手もがたがたと震えている。
灰色の影が店の床や壁からしみ出して、怯えるエレネにじわじわと迫ってくる気配があった。幾重にも体に纏わりつき、エレネの体の自由を奪ってゆく。頭がガンガンする。考えがまとまらない。気持ちが悪くて吐き気がする。体が重くて今にもその場に崩れ落ちそうだ。
エレネの体からがくっと力が抜け落ちた。上から押さえつけるような力に抗えず、カウンターに肘をついて突っ伏す。そのまま強制的に目を閉じさせようとする強い力を感じた。強烈な眠気に抗えない。頭が痛すぎて、気持ちが悪すぎて意識が楽な方へ楽な方へと逃げようとする。
『……諦めなさい。あの従者や侍女と同じように、見ないふりをしなさい。それですべては通り過ぎてゆく。あなたは悪くない。見て見ぬふりをしているのはみんな同じなのよ?』
誰かがエレネの耳の中に甘言を吹き込む。若い女の声だ。その声を聞いていると頭の中に灰色の靄がかかったようになって、何も考えられなくなってゆく……
『……もういいのよ? さっさと諦めてしまいなさい。こんな場面に遭遇してしまったあなたが不運だっただけなの。何もできないあなたは悪くないわ。関わりたくないのはみんな同じよ。苦しいでしょう? つらいでしょう? もう楽になっておしまいなさい?』
エレネは大きく首を振って、その声を必死に声を払おうとする。しかし、猛烈な眠気に抗えない。疲弊した心と体が、率先して眠りの世界へ逃げ込もうとする。男がエレネの目の前で、夫人を店から引きずり出そうとしている。やめさせなければと思うのに、どうしても……どうしても声が出ない。
――五年前、店の中にいる同僚もこんな気持だった。わかっている。どうすることもできなかったのだと。
『……見て見ぬふりをしているのはみんな同じ。誰だって自分が一番かわいい。罪の意識なんて時間と共に忘れられる』
再び誰かが暗い声で囁く。エレネの意識を眠りに誘うのは、気持ちが悪い程優しい声だ。
(ほんとうに、そうだろうか?)
指先に力をこめる。それから手のひらでカウンターを押す。
(ほんとうにほんとうに、みんながみんな見て見ぬふりをしただろうか?)
歯を食いしばり、必死に体を起こして、圧し掛かって来る灰色の影に必死で抗う。
血まみれになりながらエレネを守ってくれた少年。
助け出してくれた自警団の男。
エレネではないと証言してくれたという常連客。
二年間匿い続けてくれた人形劇団の人たち。
アルゴにミディアにおばあちゃんたち……他にもたくさん……
感謝しても感謝してもし足りない。助けてくれた人たちに恥じない生き方をする自分であろうと、今までそう思って生きてきたのではなかったか。
それが今まさに、嘘にされようとしている。
これは、周到に準備され整えられた舞台だ。
やり直させられているのだと、そうエレネは直感した。
ここで見て見ぬふりをすれば、エレネはあの時の同僚たちと同じということになる。
――これはそういう意図で行われている遊戯なのだ。
でも、それがわかっても、今のエレネには、あの少年のように血まみれになってまで、目の前の夫人を助ける覚悟はできない。
(ちがうっ。そういうことではない。ちがう! 騙されてはダメ!)
エレネの頭の中に、もう一人の自分の声が響き渡った。
(これはそういう話ではない。状況はあの時と全く違う。すり替えられようとしているの。騙されないでっ)
『諦めなさい。怖いわよね? 恐ろしいわよね? あなたはもう一度燭台を投げつけられる覚悟を持てるの? 怖くて怖くてとても無理よね? 怪我をしたくはないわよね?』
甘い声がもう何も考えるなと眠りに誘う。それでも「ちがうちがう」とエレネの心の中でもう一人の自分が必死に声をあげている。
(ねぇ、あの時『私』は、あの少年が自分の身代わりになればいいと、一度でも思ったの? あの『やめて』という言葉は何だったの?)
がんっと頭を殴られたような衝撃があった。それこそ鉄製の燭台をぶつけられた時のような。
あの時、額から血を流して恐怖に震えていたエレネが望んでいたことは、何だった? それは……誰かに身代わりになって暴力を受けてもらうことだった? そこまでのことを自分は望んでいただろうか。
(ちがう……それは絶対にちがう!)
自分の代わりに少年が血まみれになってゆく姿を見ているのは、苦しかった。つらかった。誰だって、自分の代わりに誰かが傷つくのを見るのは嫌なのではないだろうか。きっとそれは、目の前で引きずられてゆく夫人も同じだ。
彼女はエレネが燭台を投げつけられることも、目の前で火あぶりになるようなことも望まないだろう。
(ちがう、それすらもちがう)
状況がすり替えられている。目の前の男は燭台を投げつけようとしている訳でも、たいまつを突きつけようとしている訳でもない。今はあの時と全く違う。
エレネはカウンターの中の安全な場所にいて、しかも、襲われた時の対処方法を身につけている。この店には投げつけられるようなものは何もない。
(人生二周目のくせに、私は一体何をやってるの!)
そうだ。そうだった。たった一言でいい。たった一言でよかったのだ。
「もう……もう……やめて!」
誰かにそう言ってほしかった。それ以上のことは望んでいなかった。その言葉をあの少年がエレネにくれたのだ。だから、同じ言葉を返すことができた。
エレネは、カウンターに両手をついてぐっと身を乗り出す。
キーレンと呼ばれた女性が涙で濡れた目でエレネを振り返る。安堵と怯えと心配がぐちゃぐちゃに混ざった表情だ。
「お願いですから、もうやめて下さい」
最初よりは大きな声が出る。夫人の目から大粒の涙が溢れ出す。
「無礼なっ」
ドアを押さえていた従者が、エレネの言葉を打ち消そうとするように大声で叫んだ。余計な事をするな! とその顔にはっきりと書かれていた。
その瞬間、怒りが――今までどこに隠れていたのだろうかという程の怒りが湧きあがった。血が沸騰するというのはこういう事なのだろう。怒りは恐怖に打ち勝ち、エレネは従者の男を睨みつける。
まるで目の前に巨大な滝が現れたかのように、水しぶきが混ざった涼やかな風がエレネの全身を包み込んだ。それが体に纏わりついた灰色の影を引きちぎって払い落としてゆく。水の匂いがする新鮮な空気が体の中に入ってくる。
レンゲル山の湖の神様の美しい文字が頭の中にはっきりと浮かんだ。その文字を声に出して読み取る。
「大切な大切な奥方様です。幸運を与える男児をお産みになる方です。どうか……どうか奥方様を大切になさって下さい。優しい言葉をかけて差し上げて下さいっ。アレスの名に懸けて偽りではございません!」
エレネが最後まで言い切るのを待って、夫人を引きずっていた男がぴたりと足を止めた。
遅くなってしまって申し訳ございません。