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 6 臆病な逃亡者は追い詰められる




「必ず火あぶりにしてやる!」という声ではっと目が覚めた。暗闇の中にエレネはぺたんと座り込んでいる。


「おまえのせいだ! おまえが読み違えたせいだ」


 燭台が飛んでくる。皿が、カップが、鏡が、次々にエレネに投げつけられる。目の前には憎悪に目をぎらつかせたあの貴族が立っていた。その手に握られてたいまつが赤々と燃えている。男が炎をエレネに向けて近付いて来る。


「……いや……こないで……いや……ちがう……わたしじゃない……」


 何を言っても憎悪で心を壊してしまった男には伝わらない。わかっているのに、命乞いをするようにエレネは「ちがう、わたしじゃない」という言葉をただ繰り返す。

 赤い火が目前に迫る。愛する婚約者を奪われた男の憎悪が大きな炎となって赤々と燃えている。それは逃げ出した魔女を焼くための火だ。


「……ちがう……ちがう……私じゃない……」


 息がうまくできない。はっはっと浅い呼吸を繰り返すエレネの背中を誰かが撫ぜてくれている。


「エレネさん、目を開けて」


 強い声がそう促すけれど、今エレネは目を開けている。目の前には炎がある。視界が真っ赤に染まる。


「いやあっ」


 振り払おうとして大きく動かした手は誰かに掴まれてしまった。パニックになって身を捩るとそのまま強く抱きしめられた。恐怖でぞっと肌が泡立つ。


「大丈夫です。もういない。あなたを傷付つける人はもういないんです。だから、だからお願いだから目を開けて下さいっ。あなたの現実はこっちです。誰もあなたがやったなんて思っていない! エレネさんじゃない。エレネさんのせいじゃない。ちゃんとみんなわかってるんですっ。だから、お願いだから目を開けて下さいっ」


 泣いているような必死の声で呼びかけられる。エレネは反射的に首を横に振っていた。


「あなたのせいじゃない。だから、戻って来て下さいっ。お願いだから目を開けてっ」


 体が軋むほど力任せに強く抱きしめられる。次の瞬間目の前の赤が消えて視界は黒一色に染め上げられる。はっと瞼を上げる。最初に視界に飛び込んできたのは、すっかり見慣れてしまった彼の軍服の色だった。


「い……いた……」


 エレネが呻くと、すぐに腕が緩んで体が離される。目を瞬きながらのろのろと顔を上げる。頬にあたたかい雫が落ちた。ソファに座ったエレネを、床に両膝をついた青年がゆるく抱きしめている。

 青い瞳から涙が零れ落ちる。その色をエレネは今初めて知った。

 そっと手を伸ばして彼の頬を流れるあたたかい涙に触れる。


「………………あなたのせいでもないよ?」


 くしゃりと彼は顔を歪めて。泣き顔を見られたくないと言うように、エレネの頭の後ろに回した手に少し力を込めた。とんっと額が彼の胸に当たる。


「助けてもらうばかりで、何も返せなくてごめんなさい……」


 声もなく静かに泣いている気配を感じながら、エレネは体の力を抜いてそのまま前のめりになり、青年に凭れかかった。なんだかとても……疲れてしまった。

 目を閉じてももう赤は見えないことにほっとする。


 どのくらいそうしていただろう。そっと両肩を押されて体をソファーに戻される。


「今は、夜ですか?」


 周囲を見回して、エレネはちいさな声で尋ねた。大きな声を出したらこのピンと張りつめたような空気が壊れてしまいそうで……


「ええ。おばあちゃんたちはだいぶ前にお迎えが来て帰りましたよ。エレネさんのことをとても心配されていました」


 囁くような声でそう返された。


「隣に座りますか?」


 空いている右隣を手で差すと、青年が立ち上がって腰を下ろした。二人で並んでソファーに座りながら、ぼんやりとテラスへと続くドアを見つめている。


「……どうしたらエレネさんは、私の名前をきいてくれますか?」


 ぽつりと、耳を澄まさなければ聞こえない程のちいさな声で彼が尋ねる。どきんと心臓が鳴った。


「どうしたら私の気持ちを受け入れてくれますか?」


 のろのろと傍らの青年に顔を向ける。彼は怖い程真剣な顔をしていた。


「どうしたら、私を好きになってくれますか?」


 その気持ちはあまりにまっすぐで、弱り切っているエレネの心に鋭い痛みをもたらした。思わず心臓を押さえて顔を顰める。痛くて……苦しい。


「罪悪感なんかじゃないんです」


 青年は目を伏せて、自嘲するように笑う。


「花束を受け取ってくれる時の笑顔が好きです。私が話しかけると、いつも困ったような、少し怯えたような顔で笑いますよね……すみません、その顔も結構好きです。それは自分でもどうかと思う。スープとても美味しかったです。あなたが私のために、時間を合わせてあたたかいスープを用意して待っていてくれる事が嬉しかった。私の苦手な野菜を入れないようにしてくれたんだと気付いた時は、少し恥ずかしかったけどやっぱり嬉しくて幸せで。この時間を絶対に壊されたくないと思った。……だから、終わらせます」 


 そう言って彼は後ろの窓をちらりと振り返る。


「エレネさんの身の潔白はすでに証明されているんです。……現実はもっと残酷だった。あの人の心は完全に壊れてしまった」


 ソファーから立ち上がった青年は寂し気に微笑んだ。


「振り返らないで下さい。あなたは何も知らなくていい。……大丈夫、命を取るようなことはしません。あるべき場所に戻っていただくだけです」


 頬に手が触れて、前髪に優しいキスがひとつ落とされる。


「一階の戸締りはしておきました。私が外に出たらドアに鍵をかけて部屋に戻って下さいね。………おやすみなさい。良い夢を」


 ドアに手をかけて振り返り、彼は最後に淡く微笑む。

 エレネはソファーから動けないまま、ドアが閉まる音をぼんやりと聞いていた。


 彼が湖の神様に何の助言を求めたのか、これでようやくわかった。

 彼もまた探し続けていたのだ。すべてを終わらせるために。

 ならばもう彼はここには来ない。


 ――目的は果たされ、ここで三日ごとにニンナ婆さんのスープを食べる必要はなくなったのだから。





 今でも、名前も知らない彼の声を思い出す。

 どうしたら好きになってくれますか。そう真摯に囁いた声を。胸が鋭く痛んで一瞬息が詰まる

 あの夜からすでに一ヶ月近く過ぎているのに、まるで昨日のことのように覚えている。


 もらった花束はすべて押し花になってしまった。そこにだけ……あの時間が閉じ込められて残っている。


「気になるなら聞けばいいのに。答えは全部用意されてる。ここに来たくても来られない事情があるんだ」


 エレネがカウンターに両手をついてぼんやりテラスへと続くドアを見ていると、遊びに来ていたミディアが本から目を上げることなく呟いた。ゆったりとしたワンピースを着て、長い金の髪を三つ編みにして、ソファーにだらしなく寝転んで本を読んでいる。お客がくればさすがに起きるのだが、店でその恰好はどうなのだろうか。


「……何も知らなくてもいいと、言われたので」


「それ多分、意味が違う。人生二周目とか言うわりには、恋愛下手だな」


 ミディアは呆れ顔でちらりとエレネを一瞥した。青い宝石のような本当に綺麗な瞳だ。父親のアルゴと同じ色。そして彼も同じ色だった。この国では、金の髪と青い瞳は貴族の色だと言われている。


「そこは否定しません」


「結局は状況ではなく本人の問題か。ある程度強引に持って行かない限りこれは無理だな」


 ミディアはぱたんと勢いよく本を閉じて、ソファーから起き上がると、挑むような目をエレネに向けた。


「このままだと私があいつと結婚することになる、と言ったらどうする?」


 さすがに一瞬呼吸を忘れた。世界からすべての音が消える。

 何かを確かめるようにじっと目を覗き込まれていることに気付いて、慌てて取り繕った笑顔を浮かべる。胸の痛みには気付かないふりをした。


「……おめでとうございます。誠実で優しい方ですよ。きっとミディアさまを幸せに……」


 少し震えて掠れてしまった声は、ため息で遮られる。


「その言葉は私に対してもあいつに対しても大変失礼だとは思わないか? あいつは惚れてもない女を全力で幸せにできる程器用じゃないぞ?」


 ミディアは怒っているのではなく、不貞腐れたような顔をしていた。確かに彼女の言う通りだ。エレネは申し訳なさに俯いて、強く拳を握りしめる。


「ごめん……ミディ」


「私の言い方も悪かった。ごめん。……まだしばらくは私があいつの虫除けになっておいてやるから安心しろ。ずっと諦めて逃げるしかなかったエレネの心は、当たり前のことができなくなってるんだな、やはり許しがたい。八つ裂きにしてやればよかった」


 何やら恐ろしい事を言って、ミディアは再びソファーにどかっと座って本を開いた。……と思ったら本を投げ捨てカウンターに駆け寄り、両手でエレネの胸倉を掴む。

 反射的に後ろに引きそうになる体を気力で押しとどめて、以前教えられたとおりに相手の腕を掴んで体を捻るように振り払い、そのまま奥の部屋に駆けこむと体重をぶつけるようにして内開きのドアを閉め、鍵をかけた。


「巡回の騎士相手に練習しろ。まだまだだ。実際襲われた時は恐怖で頭が真っ白の筈だ。自然に体が動くようでなければ何の意味もない」


 ドアの向こう側からミディアの冷静な声が聞こえてきた。






「しるしを読み取ってもらいたいんだけど」


 そう言って、若い男が店の中に入って来た時、嫌な気配を感じた。見えない日傘をさしているかのように、彼の体の周辺だけが妙に薄暗い。

 エレネは客に気付かれないように片手を伸ばして、さりげなく跳ね上げテーブルを上げる。これで、カウンターの中に男は簡単に侵入できない。いつでも逃げ込めるように背後のドアはいつも開け放たれている。


 お客は張りつめた店の空気にまるで気付いていない様子で、狭い店内を見回している、清潔なシャツにズボンとベスト。顔立ちが女性のように綺麗だ。スープを食べに来ていた青年と同年代くらいだろうか。この辺りの村人とたちと同じ、明るい茶色の髪と瞳をしている。


「へえ……こんな美人なアレスさんもいるんだね」


 お客はエレネを見て、わざとらしく驚いてみせた。エレネは愛想笑いを深くすると、ここしばらく使っていなかった、レース編みのドイリーを取り出してカウンターの上に乗せた。これもミディアからもらったものだ。クッションを作る前はこれに手を乗せてもらっていた。


「こちらにしるしのある手を乗せていただけますか?」


「いい声だね。好きだな。それは今度でいいからさ、これから僕と遊びに行かない?」


 カウンターに歩み寄って来た青年は、エレネの色違いの目をじいっと覗き込むようにして、甘く微笑んだ。

 エレネは内心ため息をついた。人形劇団の一座と共に各地を旅していた頃、毎日のようにかけられた言葉だ。物珍しい女を手に入れたと周りに自慢したい、優越感に浸りたい、それか、若い女ならなんでもいい……


 相手にするとつけあがるし、相手にしなければ自尊心を傷付けられたと怒り出す。

 うんざりした気持ちが顔に出ないようにしながら、エレネは手のひらでドイリーを指し示した。


「せっかく来ていただいたので、まずしるしを見せていただけませんか?」


「綺麗な手だね」

 

 いきなり手首を掴まれる。まずい! と思ったその時だ。パンっという、薪が爆ぜたような音と共に、腐った肉を焼いたような嫌な匂いが立ち昇った。まるで焼けた石をうっかり握ってしまったかのように、男がばっと手を離して飛びずさり、背後のドアに背中を激しく打ち付けて呻いた。


「……何なんだよ」


 独り言のようにそう言った男は、ちらっと自分の手の甲を見て、零れ落ちんばかりに目を見開いた。彼の左手の甲にあったしるしが灰色の煙を上げていた。焼き印を押されたかのように皮膚が黒く焼け焦げている。禍々しい気配と嫌なにおいの発生源は間違いなくそこだった。


「うわっ、うわぁぁぁっ……」


 右の手で左の手首を持ちながら、男は何かを振り払おうとするように大きく手を上下に振る。そんな事をしても、焼き付いてしまったものは消えない。一生残るかどうかまではエレネにもわからない。


「そのしるし、一体どこでもらったんですかっ」


 エレネが男を睨みつけながら詰問する。しかし、真っ青な顔をして手を振り回している男の耳に、彼女の言葉は届いていなかった。


 そのしるしは『苞』という漢字に似ている。今まで一度も見たことがないサインだ。

 そして、アレスであるエレネには、読み取る前にわかってしまった。


 あれは……間違いなく誰かを貶めるための助言だ。


 この世界には、憎い相手を呪う方法を助言として与える神様も存在する。それを専門に読み取るアレスもいるのだが当然違法だ。無資格で隠れてやっている者が多いと聞く。


「うそだろ……こんなことになるなんて、きいてない……」


 自分の身に起きたことを信じたくないというように、男は左手の甲を茫然と見つめている。ショックが過ぎ去った後には耐え難い痛みが襲ってきたようだ。男はガチャガチャとドアノブを回して体当たりするようにドアを開けると、一度も振り返ることなく店を出て行った。


 エレネは換気のために、店のドアと窓すべてを開け放つ。新鮮な風が入って来て、嫌なにおいはすぐさま消え失せたが、あの男が纏っていた灰色の影のようなものは、まるで脱ぎ捨てられ置き去りにされたかのように店の中にいつまでも残っていた。


 翌日から、同じしるしを持つ者が頻繁にエレネの元を訪れるようになった。

 年齢も性別もバラバラだったが、全員が全員、灰色の影のようなものを体に纏わりつかせおり、等しく暗く陰気な目をしていた。彼等はエレネが「どこでこちらを?」と尋ねると、怯えた目をしてしるしを反対側の手で隠す。そして、「もういいです……」と力なく呟くと、灰色の影を店内に脱ぎ捨てて、そそくさと店を後にするのだった。


 お客が帰るとすぐさま窓やドアを開けて換気をする。だが、彼らが置いてゆく暗い影がどうしても消えない。

 部屋の隅に溜まってゆく埃のように、店内に残る影が日に日に濃くなってゆく。それは、壁を、ソファーを、カウンターを灰色に染めて行き、明るく清潔だった店内の雰囲気をどんどん陰気なものに変えてしまった……


 彼等がどこからやってくるのかはわからない。一日に五人以上訪れることもあった。


 そんなことが一週間も続けば、エレネの心も疲弊してくる。夜眠っても、あの『苞』という漢字に似たしるしが頭にちらついて離れない。食べ物がおいしく感じられなくなり、食が細くなっていった。心と体が弱ってゆく……


 心配したおばあちゃんたちが、毎日昼食をもってきてくれるようになった。誰かが一緒にいてくれている間は平気だ。しかし、一人になるとエレネの心にも暗い灰色の影が差す。いつしかエレネはうまく笑えなくなっていた。


 ――それは、遅効性の毒のように、ゆっくりゆっくりと、エレネの心と体を蝕んでいったのだ。


 それでもエレネは、あの青年のために祈ることだけは、決して忘れなかった。

 一日の終わりに必ず開く帳簿に、水色の小花の押し花で作った栞が挟んである。

 それを目にすると、体に纏わりつく灰色の影が少し取り払われて、息をするのが少しだけ楽になるような気がした。





 明日はもしかしたらお休みするかもしれません。

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