表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/30

 5 臆病な逃亡者は追跡者に怯える




 数回目を瞬いてから、ゆるりと窓の方に首を巡らす。カーテンの輪郭がぼんやりと明るい。


(……よかった……無事だった)


 エレネは淡く微笑む。……元気な姿を見られただけで、もう、充分だ。

 

 体をゆっくりと起こしてベッドからおりると、カーテンを開いて窓を開ける。吹き込んできた風に雨の気配を感じた。空は厚い雲で覆われている。

 そのまま振り返って、ベッド脇のテーブルの上に視線を移す。水を張った大き目のお皿に浮かんでいるのは、茎がもうすっかり短くなってしまった色とりどりの花たちだ。

 最初にもらった花束を今も覚えている、その次も……その次も、全部覚えている。少し照れたような彼の表情も。


 体を戻して再び空を見上げる。ぶ厚い雲と、その奥にある今日の太陽と月と星たちに、感謝の気持ちを伝え、深々と頭を下げた。


 五年前は声変わりもしていない少年だった。エレネの記憶の中の彼は、五年間ずっと血まみれだった。


 瞼の裏に、花束を持った青年が浮かびあがり……まるで時間を巻き戻すように、少年の姿に変わる。

 金の髪の少年がはにかんだようにエレネに笑いかけながら、一輪の花を差し出す。エレネが好きな水色の丸いベルのような花。柔らかい春の風のような可愛らしい笑顔だ。涙が溢れて止まらなくなる。

 

(もういいよ。もう十分。あなたのそれは――恋や愛じゃないよ)


 きっと、この五年間、彼の中でもエレネは血まみれの姿のままだった。優しい人だから、ずっと逃がしたアレスの事を心配してくれていたのだと思う。少年がそれを恋と錯覚してしまっても不思議はない。


「私はひとりで大丈夫」


 自分自身に言い聞かせるために声に出す。

 彼には彼の立場や事情がある、これ以上、()()()()()()()()()()()()に心を寄せるべきではない。

 

 ちいさな巾着袋は今も大切に持っている。五年の間に色々あったから、中に入っていたお金は一度全部使い切ってしまった。いつか返せる時がくるかもしれないと、ここに店を開いてから、毎月少しずつ袋の中に戻している。


 今日彼がスープを食べに来たら、お礼を言って返そう。エレネはそう心に決めて――


「神様どうか彼をお守りください。ご加護をお与えください」


 そして、いつものように空に向かって祈りを捧げた。





「最近、この辺りの村で『緑色の目のアレス』について聞いて回っている奴らがいるらしいんだよ。少し気を付けた方がいいかもしれん」


 朝早くにふらっとやって来たアルゴが、店に入って来るなりエレネにそう告げた。

 アルゴには過去のことをすべて話してあった。もし何かあった時に迷惑をかけてしまうかもしれないと思ったからだ。「ふうん。その手の話ってどこにでも転がってるもんだな」と彼は呆れたように笑って、それだけだった。


「ああ、ここを出てこうなんてバカなこと考えるなよ。エレネは俺のアレスなんだからな」


 エレネはひとつため息をついて、誤魔化しを許さないというような目でアルゴをまっすぐに見つめる。


「……彼は、誰なんですか?」


「それがまだよくわから……」


「アルゴの紹介だと言って店に来た青年です。……五年前は、少年でした。彼の事だけは、誰も私に教えてくれませんでした。アルゴが口止めしていたんですね」


「……気付いたのか。それでその顔か」


 彼はエレネの腫れた目をちらっと見てから、観念したようにふうっと長い息を吐く。


「黙っていてくれと頼まれていた。でも、エレネがあいつのことをずっと気にかけているのも知っていたから、いつまでも隠れてないで、一度しるしをもらってきて読み取ってもらってみたらどうだと勧めた。そうしたら三日に一度会いに来いと。なかなかに熱烈なお誘いだと思ったんだがな。……いい加減名前くらい聞いてやれよ。可哀想だろう?」


 エレネはゆるく首を横に振った。彼はエレネに関わるべきではない。


 二年間共に過ごした人形劇団の人たちは、雪が深くなる前にやってきて、雪が溶けるまでここで暮らす。彼等はいつも、エレネのために様々な情報を集めてきてくれた。後々わかったことも色々あったのだ。 


 助けてくれた自警団の男は、今も元気で街を守っている。あの時の自分の気持ちを忘れないようにと、今でも指輪を大切にしてくれているのだそうだ。

 嘘をついてエレネを貶めた同僚たちは、急速にアレスとしての力を失ってゆき、両目の色も茶色に変わってしまった。神罰だと噂になり、ほどなくして店は潰れたという。

 この世界の神様は優しいけれど、怒る時は怒る。

 助言があるのだから、当然神罰も加護もある。

 神様の怒りを買い、アレスでなくなった同僚たちの行方は一人としてわからない。


 婚約者をなくしたというあの貴族は、懸賞金を出してまで、片目が黒で片目が緑の若い女のアレスを探し続けている。でも、今のエレネの左目は赤いから見つかる訳がない。

 痺れを切らした彼は、憎い魔女を見つけ出して火あぶりにするために、旅に出た。復讐だけが、彼の生きがいになっている。


 そして……


 あの少年は、従者ではなく、彼の弟だった。

 エレネがあの少年について教えてもらえたことは、たったそれだけ。


「彼があの時助けてくれたから、私は今こうしてここで生きていられる。感謝の気持ちしかありません」


「……それは本人に言ってやれ。あいつは悩みが解決するまでは、エレネに冷たくされようが、迷惑がられようが、フられようが、店に通い続けるだろうよ。で、エレネも口では何と言っても、スープを作り続けるんだ。……さっさとくっつけ鬱陶しい」


「年下はちょっと……下手すると孫くらいなんで」


「前の人生分合算すると俺より年上になるとか言うのなら、その辺元気に走り回っている人間ほとんど年下だ」


「……そうですね、そうなりますね」


 エレネが茶化すように明るく笑うと、アルゴは痛ましいものを見るような目になった。


「そうやって逃げたくなる気持ちはわかるんだけどな。エレネは罪人じゃないだろう? 他人の罪を擦り付けられただけだ」


「でも、あの日、誰かの罪は私の罪になったので。それに……彼はきっと私を憎むことで命を繋いでいるのでしょう。多分彼の心はもう壊れていて、どんな言葉も通じない。復讐する相手はあの日目の前にいた私だと、彼は決めてしまった……」


 テラスへと繋がるガラス戸に目を向けて、エレネはぼんやりと笑う。


 雨粒が窓に斜めの線を引いた。ぱらぱらと音がしたと思ったらざっという音に変わる……





 雨が降り続いている。アルゴが帰ると、入れ替わるようにして近くの村に住むおばあちゃんが遊びに来た。二人仲良くソファーに並んで座って、編み物をしている。


「なぁんかねぇ、アレスのことを魔女とか何とか悪しざまに言う男が街道をうろついてるらしいんだよ。身なりだけはいいくたびれた中年男らしいんだけどね」


「片目が緑色の魔女が、助言を読み違えたせいで、人が死んだって。そいつの行方を知らないかと、道行く人を捕まえては大声でわめきたてるらしい」


「いくらこの辺は治安がいいと言っても、変な気を起こすヤツがいないとも限らないからね。面倒事になると嫌だからって、隣村の村長が自ら確かめに行ったらしいんだよ。でも、もういなくなってたって。巡回の騎士様には伝えたって言ってたから、すぐに何とかしてくれると思うよ」


 ぎくりっとエレネが顔を強張らせる。しかし、編み目を見ているおばあちゃんたちは気付かない。


「私らはエレネの事だとは思ってないよ? 眼の色が違うし、騎士様も『真に受けないように』って注意して回ってたってさ。……単なる言いがかりだって、みんなわかってるけどねぇ」


「そうそう、アレスが助言を読み違えたなんて、どこにでも転がってる話だよ。それに、本当にそんな大きな失敗をアレスがしたのなら、そのアレスを神様がお許しになる訳がないよ」


「今頃神罰が下っているよ」


「そんな訳で、誰も信じてないから、安心しな」


 目の前で繰り広げられるのんびりとした会話を、エレネは茫然としながら聞いていた。二人は雨の中それを伝えにわざわざ来てくれたのかと胸が熱くなった。顔を背けて零れ落ちそうだった涙をそっと拭う。


「……その貴族の男も憐れだよねぇ。誰かのせいにしないとやってられないって気持ちは、わからなくもないけどねぇ」


 おばあちゃんがふと手を止めて、暗い声でそう言った時だ。ドアが開いて、いつもの青年が顔を覗かせた。店の中が濡れないように雨除けのマントは外で脱いでくれたようだった。前髪が少し濡れて額にはりついている。

 おばあちゃんたちは一斉に顔を上げて、じろじろと青年を観察し始めた。


「あんたかい、最近エレネの店に通っている色男の騎士様ってのは」


「全く相手にされずに、いっつも一人で寂しく食事をしている可哀想な男ってのは」


 その言葉に、青年はとても悲し気な目をして「はい……」と頷いた。


「うん……顔はいいけど、確かに女性慣れしている感じではないねぇ」


「顔はいいんだけどねぇ。名前もきいてもらえないんだってねぇ……可哀想に」


 おばあちゃん二人から、あからさまに同情を込めた目を向けられて、青年はしょぼんと項垂れた。雨に濡れた迷子の子犬のように寂しげだった。


「……ものすごくいい子じゃないかい。なんでダメなんだい?」


「……誠実そうな子じゃないか。どこが気に入らないんだい?」


 おばあちゃんたちが、今度は同時にエレネの方に顔を向けた。


「ええっと、えええっと、今日はいつもより、随分早いですね……」


 エレネは愛想笑いをしながら、落ち込んでいる青年に声をかけ、さりげなく顔を背ける。普段彼がやってくる時間よりも二時間程早い。


「すみません。急にちょっとこの後用事ができてしまって……あれ? 目が腫れて……」


 やはり気付かれたと気まずく思いながら、言葉を被せた。


「私の方は大丈夫ですよ? スープ、温めてきますね。お急ぎなら、具は入れずにスープだけにしてカップに入れて来ますよ。雨が降っているのでこちらのカウンターでも良いですか? 立って食べていただくことになってしまいますが……」


 ソファーはおばあちゃん二人と毛糸の入った籠に占領されている。


「すみません。お願いします。立って食べるのは慣れているので問題ないです……」


「あたたかいスープ、私たちにももらえるかい?」


「湿気のせいで体が冷えてきたよ」


「はい。一緒にお持ちしますね」


 エレネは笑顔でおばあちゃんたちに告げて、店の奥に引っ込む。

 食器棚からカップを取り出し、雨の様子を確認しようと何気なく窓の外に目をやり――


「…………っ」


 気付けばエレネは手に持っていたカップを床に落として、ひきつったような悲鳴をあげていた。がしゃんという音が、記憶の中の皿の割れる音と重なる。目の前が一瞬真っ赤に染まった。


 少し離れた林の中に誰かが立っている。

 頭から黒っぽい布を被った背の高い人物が、雨に打たれながらじっと店の様子を窺っている。


「どうしましたっ」


 悲鳴に気付いた青年が駆け込んでくる。カップの破片が飛び散る床に蹲って真っ青な顔でがたがたと震えているエレネを目にすると、すぐさま抱き上げて、店へと連れて行く。


「ここ、こっちを頭にして」


 ソファーから立ち上がって待ち構えていたおばあちゃんたちは、青年がエレネをソファーに横たえると、持っていたひざ掛けを広げて体にかけた。エレネは身体を丸くして両手で耳を塞ぎ、硬く目を閉じて震えている。

 二人は躊躇いなく床に座り、幼い子供を慰めるように頭と背中を優しく撫ぜ始めた。


「割れたカップがそのままなので、奥には行かないで下さい。エレネさんをお願いしますっ」


 青年はおばあちゃんたちにそう早口で言い置いて外へと飛び出していった。勢いよくドアが閉まる音に、エレネはびくっと体を震わせる。


「エレネ、もう大丈夫だよ。怖かったねぇ」


「大丈夫、もう大丈夫だから、ここは安全だ。私たちも一緒にいる。騎士様が守って下さるからもう怖くないよ」


 おばあちゃんたちが穏やかな声で名前を呼んでくれている。優しく頭と背中を撫ぜて「もう大丈夫。何も怖くないよ。騎士様が守って下さるよ」と繰り返している。


 瞼の裏に、花束を抱えて微笑む少年の幻が浮かぶ。その姿が今度は青年の姿に変わった。


「騎士様がいるから大丈夫」


「もう怖くないよ。騎士様が守って下さっているからね」


 おばあちゃんたちの言葉は、まるで魔法の呪文のようにエレネの体に染みわたり、血液に溶け込んで全身を巡り始めた。心と体をあたためながら恐怖を遠ざけてゆく。


(……今も、あの子に守られている)


 彼は、今までもずっと……ずっと、エレネのことを遠くから見守ってくれていたのだろうか。


 アルゴの言葉には、そういう含みがあったのだと、ようやくエレネは気付いた。

 少しずつ体のこわばりがとけてゆく。エレネはそのまま眠りに落ちるように意識を失った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ