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 4 臆病な逃亡者は過去を振り返る(*)

(*)暴力をふるわれるシーンがあります。苦手な方はご注意下さい。




 一目で貴族とわかる身なりのいい青年だった。


「おまえのせいだ!」


 視線で殺してやりたいとでも言いたげに、血走った目がエレネを真っ向から睨みつけている。投げつけられた燭台はエレネの額に大きな傷をつけていた。流れ落ちる血が視界を赤く染める。


 何が起こっているのかわからなかった。どうして自分が初対面の貴族の青年に暴力をふるわれているのかもわからなかった。痛みすら遠い。


「おまえのせいで、おまえが偽りを伝えたからっ」


 目の青年が何を言っているのかエレネには全くわからない。偽りを伝えた? 誰が? 誰に? 

 店の棚に飾られていた絵皿が、花瓶が、鏡が次々と投げつけられる。エレネは腕で顔を庇いながら固く目を閉じた。

 皿が割れ砕ける音と、店の従業員たちの悲鳴……目を瞑った世界までが赤く染まってゆく。


 皿が割れる音が止むと、今度は人が争っているような音が聞こえ始める。エレネは恐る恐る目を開けた。スカートの上にも床にも割れた皿の破片が散らばっている。その横には血がついた鉄製の燭台が転がっていた。

 綺麗な金の髪をした小柄な少年が、貴族の青年の腕にしがみついていた。従者なのだろう。着ている服は主である青年のものより随分質素だ。

 二人にはかなり体格差があり、少年の身長は青年のお腹のあたりまでしかない。声変わり前の高い声が部屋に響き渡った。


「おやめくださいっ、まだ彼女と決まった訳じゃないですっ」


「こいつに決まっているだろう。この魔女が担当したのだと、そこにいる女が言ったんだ。こいつが日付を間違えて伝えたのだと!」


 エレネは限界まで大きく目を見開く。ちがう、私じゃない。そう言おうとするのに、恐怖で声が出ない。唇だけが同じ動きを繰り返す。

 見習いのエレネはまだしるしの読み取りを任されたことは一度もない。

 絶対に違う、私じゃない。必死で声を絞り出そうと喉に力を込めた時だ。


(やめなさい。何を言っても無駄よ)


 エレネの頭の中に、冷めきった声が響き渡った。


(反論すれば、余計に相手を怒らせるだけ。だって彼の中で、犯人は私だと決まってしまったのだから。これ以上被害を大きくしないためにも、ここは黙っているしかないの。誰だって自分の身が一番かわいい。貴族にたてついてまで、助けてくれる人なんているわけがない)


 エレネの中には事態を冷静に受け止めて、すべてを諦めたもう一人の自分がいた。


(『私』の言う通りだ)


 青年貴族の目にはエレネに対する憎悪しかない。エレネの言葉を受け入れてくれるとはとても思えない。

 結局この場には、犯人という生贄が必要とされていて、それが一番立場の弱かったエレネに押し付けられた。ただ、それだけのことだったのだ。


(殺されるのが今か、散々拷問を受けた後になるのか……短い人生だったわね)


 目を閉じて、頭の中の『もう一人の自分』の言葉に小さく頷く。このまま目を閉じて二度と目覚めない眠りに落ちてしまいたい。そう思った……


「証拠は何もないし、店にいた他の人間の証言も取れていませんっ。……誰か、誰か、その人を別の場所へ避難させて下さいっ。早くっ」


 その声が、すべてを諦めたエレネの心を大きく揺さぶった。ガンっという大きな音と、少年のうめき声。そして、同僚たちの引きつったような悲鳴が一度に耳に飛び込んでくる。エレネは、重い瞼を必死に持ち上げた。

 飾り棚の前に少年がうつ伏せで倒れていた。それを見た瞬間、エレネの頭の中は真っ白になる。

 痛みに顔を顰めながらも少年は床に手をついて立ち上がり、主に駆け寄って再び腕にしがみついた。


「どうか、どうかもうおやめくださいっ」


「離せっ。今すぐ火あぶりにしてやるっ。あの魔女は我々貴族を謀ったんだ。そんなことは絶対に許されてはならない。市井をうろつくことしかできないゴミたちの言葉に耳を傾けたりしたからキーレンは!」


 足で蹴られ、顔に肘をぶつけられても、髪を掴まれて力任せに引っ張られても、少年は荒れ狂っている主を離そうとはしなかった。やがて貴族の青年の怒りの矛先は、エレネからその少年に移る。


「邪魔をするなと言っている! 私に触れるな汚らわしいっ!」


 力任せに投げ飛ばされた少年が、床に背中を打ち付けて苦し気に呻いた。すすり泣く声がどこからともなく聞こえ始める。

 よろめきながら立ち上がろうとして、力尽きたように倒れて。それでも……それでも少年は床を這うようにして主の元に戻り、両手を伸ばして足にしがみついた。反対側の足で何度顔を蹴られても決して手を離そうとしない。少年の顔も服もすでに血まみれだ。


「もうやめてっ! お願い、その子にひどいことしないでっ」 


 気がつけばエレネは大声で叫んでいた。自分よりずっと小さな子供が理不尽な暴力に晒されているのだ。とても見ていられない。

 青年がぴたりと動きを止める。今の声でエレネの存在を思い出したとばかりに、ぎらついた目が再びこちらに向けられた。ひっとエレネはちいさな悲鳴をあげ、のけ反るように体を後ろに引く。


「誰かっ誰かっ、どうか早くその方を外に連れ出してください!」


 少年が喉を壊しそうな大声で叫ぶ。ひとりの男性が店内に駆けこんで来てエレネを抱え上げると、外に向かって走り出した。


「待て、その魔女をどこに連れて行くつもりだ。この私の命令がきけないのかっ。今すぐ、今すぐ魔女と一緒に火あぶりにしてやる。その命を持って私に贖え! はなせっ、はなさないか、この出来損ないが!」


 常軌を逸しているとしか思えない青年の怒鳴り声が追いかけてくる。どこまでも……どこまでも……


(あの子が、あの子が私の代わりに殺されてしまう!)


 ぞっと全身の血の気が引いて、エレネの意識は一瞬にして暗闇の中に落ちて行った。





 エレネはそのまま町はずれの廃屋に匿われた。

 助けてくれた男は街の自警団の一員だった。たまたま休みで、私服で外をぶらぶら歩いている時に、騒ぎに気付いたのだそうだ。


 幸いにも、エレネの怪我は、燭台が額に当たった時にできた裂傷だけだった。

 男は簡単にエレネの額の傷の手当てをすると、夜になったら戻って来るから、自分以外の誰が来ても絶対に姿を見せるなと強く言い置いて去って行った。

 エレネは真っ青な顔で壁に凭れて膝を抱えて座り、震えている事しかできなかった。

 

 あの子は、大丈夫だろうか。

 血まみれの姿が頭にちらついて離れない。

 もし自分のせいで殺されるようなことになっていたら……


 生きた心地がしなかった。いっそあの場で捕まった方がよかったとさえ思った。


(神様、あの子をお守りください。私はもうどうなってもいい)


 ただ、ひたすら祈り続けた。できることはそれしかなかったから。


 夜闇に紛れるようにして、食料と水を持って戻って来た彼は、真っ青な顔で「あの子、あの子は……」と喘ぐような声で言ったエレネを見て、すぐさま「大丈夫だ。ちゃんと怪我の手当てもされていた」と何度も力強く言い聞かせた。エレネは歯を食いしばって必死に声を殺す。ぐうっと喉の奥から何かが潰れたような音がした。


「自分の代わりにあの子が殺されると思ったのか。……そうか……不安だったな」


 大粒の涙を零しながらエレネは大きく頷く。大きな手が優しくエレネの頭を撫ぜた。


「悪いが時間がないんだ。それ飲みながら聞いてくれ」


 持って来た水筒をエレネの手に握らせると、男はエレネの身に何が起きたのかを説明し始めた。


 やはり……というべきか、あの青年は高位の貴族だった。


 エレネがアレスの資格を取得した直後に見習いとして入った店は、恋愛の悩みを専門に扱う店だった。

 丁度店の近くに、恋愛に関する神様が祀られているちいさな泉がある。神格がそれ程高い神様ではないけれど、この神様の助言の通りにすれば恋は必ず実るとの評判で、店も大変繁盛していた。

 店には貴族の娘たちが街娘風の服を着てお忍びでやって来ることもあった。

 少女たちは純粋な気持ちで泉に向かって一途に祈りを捧げる。そしてしるしが手の甲に現れると、無邪気に喜んで、そのままエレネが働くアレスの店を訪れるのだ。


「婚約者がアレスの言葉に従って旅行に出掛け、崖から転落して命を落としたらしい」


 男は暗い声でそう言った。その場に沈黙が落ちる。

 神様の助言に従ったのに、事故に巻き込まれる筈がない。


 ――ならば、アレスが助言を読み違えたのだ。


 それで彼は……あんなに怒り狂っていたのか。目の前に現れたエレネにいきなり燭台を投げつけてくるほどに。

 絶対に自分ではない。どうか店のオーナーに確認してほしい。藁にも縋る思いでそう言ったのに、自警団の男は申し訳なさそうに静かに首を横に振った。


「すでに自警団の方で確認した。同じ店で働いている他のアレスたちにも話を聞いた。でも全員が全員、あんただと言い張るんだ。そいつらが嘘をついているのだとしても、それを証明することができない。店によく来てた客たちは、あんたは掃除しかしてなかった。絶対にあんたじゃないって、そう言ってる。でも、どうしても店のやつらが認めない」


 その言葉は鋭い刃物のようにエレネの胸に深く突き刺さった。


「そうですか……」


 ははっと乾いた笑いが唇から零れ落ちる。店の信用を保つために、同僚たちはエレネを切り捨てたと、そういうことなのだ。


「見習いが勝手にやったってことに、しときたいんだろうよ」


 吐き捨てるように男はそう言った。正義感の強い人なのだなと思った。


「……ありがとうございます。……調べて下さったんですね」


「店のやつら全員、明らかに様子がおかしいんだよ。それは俺たちにもわかってるんだ。でも相手が貴族ってだけで、街の連中は口を噤んで見て見ぬふりをする。今までもそうだった。これからもずっとそうだろうな。……でも、こういうのは、本当に俺は嫌いなんだよっ。胸糞悪ぃ。子供が血まみれになりながら必死に戦ってたのに、大人が誰ひとり動かないなんて……そんなの絶対におかしいだろっ」


 男は怒りに任せてガンっと壁を蹴った。


 自分のために怒ってくれる人がいるのだと、涙が溢れて止まらなくなった。

 それに……同僚たちには裏切られたけれど、客の中には勇気を振り絞って『エレネではない』と証言してくれた人たちもいたのだ。それはきっと、ボロボロになりながらもエレネを守ろうとしてくれたあの少年の姿を見たからだ。

 

「自警団の連中があんたを探してる。今すぐここを出ろ。三本目の辻を左。その次を右に曲がると広場に出る。そこで興行している人形劇団の連中は古くからの知り合いなんだ。明日の朝出発する。乗せてもらえるように話はつけておいた。いいか、絶対にこの街に戻って来るなよ」


 男はそう言って自分が被ってきた古布をエレネの頭から被せると、腕をひっぱって立ち上がらせ、無理矢理の背中を押した。

 あの青年貴族は、この場で火あぶりにしてやるとまで言っていたのだ。そう簡単にエレネのことを諦めるとは思えない。

 着の身着のままだが、財布だけはポケットに入れてあった。それを男に差し出したが男は受け取ろうとはしなかった。


「金はないよりあった方がいい。あんた、自分では気付いてないだろうが、片目の色が緑から赤に変わってるんだ。多分神様の御加護なんだろうな。あいつが探してるのは片目が緑色の目のアレスだ。必ず逃げ切れる」


「ならばこれを。本当に……本当にありがとうございました。何があっても絶対にあなたのことは喋りません。アレスの名に懸けてお約束します」


 指にはめていた指輪を外して、相手の手に握らせる。そこまで高価なものではないが、お給料を貯めて自分へのご褒美として奮発して買ったものだ。


「絶対に、絶対に諦めるなよ!」


 エレネはそのまま振り返らずに外に向かって走り出した。額の傷が痛むが、今は我慢するしかない。これ以上彼に迷惑をかける訳にはいかない。

 周囲を警戒しながら夜の街を足音を立てないように進んだ。男の言っていた通り、ランプを持った自警団と思しき男たちが、隊列を組んで街を巡回している。明かりを見かければ物陰に身を顰め息を殺してやり過ごす。そんな事を繰り返していたため、公園に辿り着いた頃に夜が明け始めていた。


 広場の入り口のアーチに凭れて、ジャグリングの練習をしていた男が、頭から布を被って浮浪者のようにふらふら歩くエレネに気付くと、すぐに駆け寄ってきた。布を軽く持ち上げて色違いの目を確認するやいなや、エレネを抱き上げる。


 エレネの意識がもったのはここまでだった。




 人の声がして意識が戻る。気が付くと、エレネは狭い箱の中で仰向けに横たえられていた。重い物が体の上に乗っていて身動きが取れない。かろうじて動かすことのできる目を動かして確認する。顔の前には人形の手があった。どうやらエレネは人形をしまう箱の中に隠されているようだった。


「それで、こっちは人形を入れておくための箱ですよ。開けて確認されますか?」


 微かにそんな声がして蓋が持ち上げられる気配があった。慌ててエレネは目を閉じ、体を固くして息を止めた。


「よくできたものですね」


 少し枯れているけれど子供の声だ。その大人びた話し方には覚えがあった。あの子だ、とエレネはすぐに気付いた。体の上の人形が動かされる気配があった。口の中がカラカラに干上がってゆく。その時エレネの瞼に指先が触れて、はっとしたように手が離れた。


「この箱は僕が調べます。あなた方は他を確認してください」


 慎重に顔の周りの人形が少しだけずらされる。


「そっちは男性の人形で、こっちは女性の人形ですね、こちらも確認されますか」


 すかさず別の箱に誘導する声に、少年の手が一旦止まる。そのまま蓋が閉められほっとしたのもつかの間、僅かに蓋が開いて「あなたに神様の御加護がありますように」という微かな声が耳に届いた。何かが箱の中に落とされた気配と共にすぐに蓋が閉じられる。


「女の子の人形の方が衣装が豪華なんですね」


 そんな声が微かに聞こえたのを最後に、再び箱の中は静寂に包まれた。

 車輪が動き出す気配がして、箱の蓋が開いた。公園の前でジャグリングの練習をして待っていてくれた男が顔を覗かせる。すぐにエレネの上に乗せられていた人形が退かされた。


「危なかったな」


「気付かれていました。でも……見逃してくれた。あの子、箱の中に何か入れて……」


「これか!」


 男はそう言って、エレネの手を引っ張って箱の中から起こすと、丁度膝の辺りに落ちていたちいさな革製のきんちゃく袋を拾い上げた。紐が緩んでいたのか、スカートの上に銀貨がばらばらと零れ落ちる。エレネは片手で口元を覆った。これはきっとあの子の財布なのだ。


 小さな体で必死に青年貴族を止めようとしていた姿を思い出す。肘が頬にめり込んでも、足で蹴られても振り払われても、何度も青年貴族に体当たりするようにしがみついていた。あの少年の怪我はエレネよりひどかったはずだ。


 体が震えはじめる。視界が涙で歪む。


「あの子……ひどい怪我をしていたのではありませんか?」


「顔の痣は見ているこちらが辛くなるくらいひどいものだったよ。体を庇いながら歩く姿も痛々しかった。それでも……とてもきれいな澄んだ目をしていた。あれはきっと俺みたいないい男になる!」


 男は冗談めかしてそう言うと、顔をくしゃくしゃにして笑った。エレネも笑おうとしたのに、代わりに出てきたのはひきつったような嗚咽だった。ぶわっと涙が溢れ出して、エレネは顔を両手で覆って大声で泣いた。




 遠く離れた名前も知らない少年に、エレネが直接返せるものは何もなかった。


 だから彼が祈ってくれたように、朝に夕に夜に、日に月に雲に、祈った。

 助言を求めている訳ではないから、しるしが現れることもない。

 神様に祈りが届いているかはわからない。

 それでも毎日欠かさず、天に向かって両手を組み祈りを捧げた。


 馬車の幌の破れ目から覗く青空に。

 お客を見送った後に見た薔薇色の夕焼けに。

 仕事終わりで店を閉めるときに目に飛び込んできた細い月に。

 就寝前、カーテンを閉める時に見上げた星空に。


 神様、どうかあの少年をお守りください。ご加護をお与えください……と。


 この世界の神様は優しいからきっと……きっと、あの少年を守ってくれると信じて。



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