夏草の冠
ダメだと言われるとわかっていても、それでもどうしても確認せずにはいられなかった。まさにそんな感じだ。声の主は多分、姉と一緒に人形劇を見たいという訳ではなかったのだとエレネは思う。
――行ってらっしゃい。
きっと、その一言が欲しかっただけなのだ。外に出るための理由は何だってよかった。
ドアの向こう側に目を凝らすが、人がいるような様子はない。幻聴なのだ。そう思った途端、なんだか頭がぼんやりとして、考えていたことがわからなくなってしまう。……そして、わからなくなったことすら忘れ去る。
あれ、とエレネは首を傾げた。
どうしてドアの方を見ているのだろうか。……何をしようと思ったのだろう。……ん? と軽く首を傾げていると、薪を床にばら撒いたような音が廊下の方から聞こえてきた。
「大きな音がしましたけど、大丈夫ですか?」
エレネは椅子の背にかけてあったショールを羽織ると、少し足を引きずるような歩き方でドアの前まで移動する。あたたかい空気が廊下に逃げないように、隙間から身を滑り込ませるようにしてドアの外に顔を出した。
「大丈夫だ。置き方が悪くて箱が倒れただけだ。壊れては……ない。多分」
団長の声は隣の隣辺りの部屋辺りから聞こえてきている。声はすれども姿は見えない。今手分けして床に散らばった箱の中身を拾い上げている最中なのだろう。
「エレネ、外で作業している奴らのために、体が温まる飲み物を用意してやりたい。茶葉だけ用意してもらえるか? 湯を沸かしたりするのは自分たちでやる」
「具の入っていない『ニンナ婆さんのスープ』ならすぐに作れますよ」
「病み上がりなんだろう? 無理するな」
「疲れたらすぐに休みます。私、調理場に移動しますね」
声だけでやり取りした後、エレネは室内に体を引っ込めて、シュカを振り返った。
「火の番をお願いします」
男の子のマリオネットがまかせておけ! と胸を叩く。
そういえば、ジルがなかなか戻って来ない。ケリーが見つからないのだろうか。調理場にいるのだろうか。そんな事を考えながらエレネは廊下に出ると、冷えた壁に手を添わせながら、ゆっくりと調理場に向かって歩き出した。
店のドアの前に立つ人物に気付いた訪問者は、足を止めて忌々しそうに呟いた。
「……二月か」
「どうぞこのまま来た道をお戻りください」
頬に剣と羽根のしるしを持つ二月の神官は、何の表情も浮かんでいない顔で冷たく言い放つ。
訪問者の左のこめかみから目尻にかけて、魚の鱗のようなしるしが浮き上がっていた。華美な装飾を施された護衛隊の軍服を着て、長い黒髪を後ろでひとつにまとめている。
護衛隊は上流階級出身者によって構成されており、王族の及び王宮の警護、式典の際の儀仗任務にあたる。
村外れにあるアレスの店に派遣されてくることなど、万が一にもあり得ない。……道に迷ったという訳でもないだろう。
「なぜいつも邪魔をする」
「その言葉、そっくりそのまま返しますよ、カゼル・イウリオス」
興味なさなげな表情でそう返して、ルカが僅かに体を傾けると同時に、訪問者が背後に飛び退く。細いナイフが一瞬前まで彼が立っていた位置に深々と突き刺さっていた。
「あーあ、失敗。心臓の位置を狙ったのにちょっとズレちゃったなぁ。思ってたより左足の動きが鈍いねぇ。傷が予想以上に深かったってことかなぁ?」
おどけた声でそう言いながら屋根の上から飛び降りてきたのは、ルカと同じ神殿騎士の軍服を着た小柄な人物だった。赤みの強い銅色のくせ毛を少年のように短く切り、頬にはそばかすが目立つ。左目を丸く取り囲むように、葡萄の葉と蔓のしるしが浮き上がっていた。
フェーレス・オクトブリオス。
眠たそうなたれ目と童顔のせいで、温和で優しい性格だと勘違いされることが多いが、気ままでプライドが高く、命令違反を繰り返す問題児だ。
「……どうして野良猫がここにいる?」
自らの影の喉の部分を刺し貫くナイフを一瞥し、苦々しい表情で尋ねたカゼルとは対照的に、フェーレスには、八重歯を見せて機嫌よく笑う余裕があった。
「久しぶりだね、七月のカゼル。ぼく今、ここで飼われてんの」
その言葉はカゼルにかなりの衝撃を与えたらしい。大きく目を見開き愕然とした表情で、よろりと一歩後ろに下がる。
「でさ、ぼく、昔っからあんたのこと嫌いなの。暑苦しいから」
「今改めて言う必要はないですけどね」
二人から少し離れた場所に移動ながら、ルカはぼそりと呟いた。
「そういう訳で、大人しくこのまま帰ってよ」
フェーレスはペロリと唇を舐めると、何の予告もなくカゼルに向かってナイフを投げつける。そのまま身体を低くして一気に間合いを詰めると、猫が背伸びをするように伸びあがり、どこから取り出したのかわからない小型ナイフで、首筋を狙って切りかかった。
一方カゼルは鞘に入れたままの半月刀で薙ぎ払うようにして、飛んできたナイフを弾き飛ばし、ギリギリのところで喉に迫りくる刃を避ける。無理な態勢のまま半月刀を鞘から一気に引き抜き、フェーレスの左肩を狙うがすでに彼女の姿は影も形もない。右に回り込んだフェーレスは最初に投げたナイフを回収すると、地面に片手をついて、軽業師のように大きく背後に飛び退いた。
素早いフェーレスの動きに、カゼルは全く反応できていない。周囲を大きく見回す顔には焦りばかりが浮かんでいる。
――季節を司る神々から加護を与えられた者たちは、次に来る季節に対して劣勢になるという宿命を持っている。季節は一定方向に巡る。それが世界の理だからだ。
カゼルの動きが普段より固いのは、フェーレスによって指摘された怪我のせいばかりではない。勝てないと本能的にわかっているため、体が委縮してしまう。
春に属するケリーとセラスが、夏に属する騎士の襲撃を受けて防戦一方の状況に追い込まれたように、どうしたってこの世の理に逆らうことはできない。
フェーレスが余裕の表情で投げつけたナイフを、地面に片膝をついたカゼルが半月刀で叩き落とす。金属同士がぶつかり合う音がしたと同時に、うめき声をあげたカゼルの手から半月刀が滑り落ちた。剣を握っていた手の甲に金串のような刃物が深々と突き刺さっている。真っ白だった手袋にじわじわと赤い染みが広がり出していた。
「これはケリーの分。セラスとエレネの分もあるけど、どうしてくれよっかなぁ~」
フェーレスは蔑みの目でカゼルを見下ろしながら、妙な節をつけて歌っている。
仕留めた獲物をいたぶって遊んでいる時が一番生き生きとしているな……と、ルカはそんな感想を抱いた。元々この二人にはかなりの実力差がある。そういう意味でもカゼルに最初から勝ち目はなかった。
春までに完治しないような怪我は負わせるなと命じられている。そろそろ止めなければならない。しかし、フェーレスは何が何でもお気に入りの場所から、カゼルを追い払いたいのだ。二度と戻ってくる気が起きないように徹底的に痛めつける気でいる。
「そのくらいにしてもらえますか? 月名を授けられた騎士同士が争うことは固く禁じられています」
「やだなぁ、これは実戦を想定した訓練だよ。加護持ちのぼくたちが本気出せる相手って、なかなかいなかったりするしぃ」
ルカを振り返ったフェーレスの顔には当然『邪魔をするな』と書いてあった。しかし、実力差のある相手を一方的にやり込めるのを訓練とは言わない。
「これ以上やると言うのなら、私が相手になります」
カゼルに対して絶対的に有利な立場にいるフェーレスも、冬に属するルカが相手だと立場が逆転する。それでも大人しく彼女が引いてくれるとは思えないので、こういう状況に陥った時にどうするかは予め考えてあった。
「軍服が汚れたり破れたりすると、飼い主に迷惑をかけることになります。彼女のことだから、ほつれた個所を丁寧に補修して、染み抜きもして、きれいに洗ってアイロンをかけるところまで全部やってくれるでしょうね。……病み上がりなのに」
フェーレスはパチパチと目を瞬いてから、両手を広げて左右に体を捻り、自分の着ている軍服の状態を確認する。思っていた以上に砂ぼこりで汚れていたらしく、「うわぁっ」と両手で頭を抱えた後、慌てて白っぽくなっている部分を両手で叩き始めた。彼女は今の飼い主を大変気に入っているのだ。
ドサリ……と、重いものが倒れた音と共に砂埃が舞う。ルカが視線を音の方へと向けると、カゼルが横向きに地面に倒れていた。
カゼルは自分の身に何が起こっているのわかっていない様子だ。茫然としている顔から一気に血の気が引いてゆく。
ルカは深い呼吸をして、心の準備を整えてからフェーレスに向き直った。
「……ひょっとして、即効性の毒を使いました?」
「ええー? 切れ味確認するために、あの辺に生えていた草を刈ってみただけだよ。切り口から白っぽい汁は出てたけど、まさか毒草だったなんて知らなかったなぁ」
一旦手を止めて、わざとらしく驚いてみせたフェーレスを数秒間無言で見つめた後、さてどう上に報告するかなとルカは空を仰ぐ。今は冬だ。毒草の話は嘘に決まっているし、彼女が解毒剤を用意しているとも思えない。
時間はどうしたって巻き戻せない。
加護持ちであるカゼルが毒で命を落とすとは思えないのだが、昏睡状態に陥ったなどということになれば、確実にフェーレスとルカは命令違反と監督不行き届きで罰を受けることになる。
フェーレスを睨みつけているカゼルの顔はすでに土気色になっていた。口の端から血が垂れているが、吐血した訳ではなく、倒れた拍子に口の端を切ったのだろう。
「そろそろ息が苦しくなってきたかなぁ?」
「ひ……きょう……もの……」
「あっはは。それ、ぼくにとっては最っ高の褒め言葉だよ!」
腹を抱えて笑っているフェーレスと、今にも死にそうな顔色で地面に倒れているカゼルを見比べてから、ルカは重いため息をつく。自由気ままに生きてきた元野良猫は、気に入らない相手は、誰であろうがどんな身分だろうが関係なく攻撃するのだ。
重力に負けたように地面に這いつくばっているカゼルは、先程からずっと手に刺さったままの金串を抜き取ろうとしている。小刻みに震える指先は宙を掴むばかりだ。視界が暗くなってきたのか、瞬きを繰り返している。目を開けている時間が短くなり、やがて目を閉じたままぴくりとも動かなくなった。
「…………生きてるんですよね?」
うんざりとした声でルカが尋ねると、
「さぁどーだろ? どっちでもいいよね」
カゼルを見下ろしていたフェーレスは気のない声でそう返す。そして、拳を空に突き上げるようにしておおきく伸びをしてから、壁や窓枠を足掛かりにして、あっと言う間に屋根の上に駆け上がっていってしまった。
ルカはカゼルの隣に膝をつくと、念のためにポケットから応急処置用の布巾を取り出して顔にかける。さて、これをどうしようかと悩んでいると、店のドアが開いて、病み上がりの店主が顔を覗かせた。
「あ、神官様、こちらにいらっしゃったんですね。猫さんと班長さんを見かけませんでしたか?」
「エレネ!」
すぐさま焦った様子でフェーレスが屋根から飛び降りてくる。驚きのあまり目をまん丸にして声を失っているエレネの腕を掴んで方向転換させると、背中をぐいぐい押して店内に押し込み始めた。
「あ、猫さん、屋根の上にいらしたんですね。体冷えてませ……」
「寒いから今すぐ中入んな! まだ本調子じゃないんだからっ!」
「丁度『ニンナ婆さんのスープ』が出来上がったので、猫さんと神官さまも良かったら……」
「話は中で聞くから、エレネは今すぐあったかい部屋に戻るっ!」
「あの、そこに誰か倒れて……?」
「あれは投げ飛ばす訓練用の人形。中に砂が入ってるの! ルカが片付けるからエレネは気にしなくていい!」
「あ……そうなんですね。スープ、奥の調理場の方に用意してあります。神官さまも片づけが終わったら来てくださいね」
エレネはフェーレスが適当についた嘘をあっさり信じた。勢いよくドアを閉まるのを確認した後、ルカはカゼルを振り返って隣にしゃがみ込む。一瞬どうしようか迷ったが、結局、顔にかかっていた布を渋々両手で持ち上げた。
「何故顔に布をかけた」
目を開けたカゼルが恨めしそうな目をしてルカを見ていた。セラス程ではないが、加護持ちの中でも彼は特出して治癒力が高い。もう意識が戻ったのかとルカはげんなりとした。
「もらってきましょうか? ニンナ婆さんのスープ」
冷えた地面に転がされ体の芯まで冷えきっているだろうからと、親切心で言ったつもりなのに、カゼルからは憎々し気に睨みつけられる。
「高貴な生まれの方は苦手ですよね……あの独特の匂い」
幼少期から食べ慣れていないと、独特の匂いをどうしても受け入れられないものらしい。カゼルは『ニンナ婆さんのスープ』を相当苦手としていた。つまり、彼が訪ねてきたまさにその時に、忌避剤のようなスープが完成していた訳だ。偶然にしては出来すぎているようにも思える。
「成り代わることなど到底不可能だと思いますよ? スープ食べられないんですから」
「その言葉そっくり貴様に返す」
「私は庶民なので、ニンナ婆さんのスープは普通に食べられます。……でも、それはどうでもいいんです」
ルカは目を伏せて微かな笑みを浮かべてから、カゼルの手の甲に刺さったままの金串を抜き取る。血で赤く染まった部分の上にある、黒く太い輪郭線のようなものが毒物に違いない。
さすがに致死量の毒が塗られていたという訳はなかったようだが、加護持ちでなければ命を失っていた可能性もある。
「二月、お、まえ……一体何をしようとしている?」
不穏な空気を感じたカゼルが警戒した声を出す。ルカは落ち着き払った目で、地面に倒れ伏しているカゼルの頭からつま先までをじっくりと眺めた。
輪郭線が隠れるまで……となると、結構深く刺す必要がある。さて、どこに刺すのが一番効果的だろうか。
狙いを定めて腕を大きく振り上げようとした時だ。今度は別の方角から人の気配が近寄ってくるのを感じたルカは、ゆっくりと背後を振り返った。巡回の騎士二名が、灰色の外套を着た少女を伴って、徒歩でこちらに向かって来るのが確認できた。新しく隣村に派遣されてきたアレスが、数日中に挨拶に来ることになっていたな……と、ルカは思い出す。
「どうされましたか」
アレスの少女は地面に倒れているカゼルに気付くと、さっと顔色を変えて駆け寄ってくる。神殿騎士であるルカは彼女の顔に見覚えがあった。幼い頃に神殿に預けられ、ずっとゲディンスのラウラの側で修行をしていた、シェリナという名前の少女だ。最年少で資格試験に通ったと聞いたような気がする。外見からすると十代前半くらいだろうか。彼女は血で汚れた手袋を見て眉を顰め、ルカの隣に両ひざをついて座り込むと、傷口の上に手を翳す。
「私に触るな!」
大声で彼女を叱責して、カゼルは怪我をしていない方の手で、シェリナの手を乱暴に払い除けた。
「も……もうしわけ……」
びくうっと大きく体を震わせたシェリナが、怯えた目で謝罪しようとするのを遮り、カゼルは威圧するような大声で続けた。
「血を介して感染するような病気だったらどうするんだ! 迂闊すぎる!」
うるさい上に暑苦しい。ルカは無言のまま、持っていた金串を振り上げて思いっきりカゼルの右肩に突き刺した。悲鳴をかみ殺したカゼルは、憤怒の表情でルカを睨みつける。残念ながら、毒によって再び意識を失う様子はない。やはり、二度目は効きが悪い。
シェリナが悲鳴を上げたのは、カゼルの形相に恐れをなしたのか、それともルカの行動に驚いたのか、どちらの理由だったのかまではわからない。
騎士たちが唖然とした顔をして立ち尽くしている。身分差を考えれば当然の反応だ。
平民であるルカが、貴族階級のカゼルに対して強気な態度に出られるのは、月名を授かった者たちは、生まれや年齢性別関係なしに、季節を守護する神々のもとに平等であるとされているためだ。あと、個人的な好き嫌いも関係しているというのは否定しない。
「神官さま、申し訳ございません」
シェリナが真っ青な顔でルカに向かって頭を下げる。
「私に謝る必要などありません。……心配して声をかけたのに、怖い思いをしましたね。大丈夫ですか?」
「わたしがわるいんです……ご、ごめんなさい」
しゅんっと項垂れた少女は、怯えながらも涙目でカゼルに謝罪した。自分の半分くらいの年齢の少女に対して厳しい態度を取りすぎたという自覚はあるようで、カゼルは「わかれば、いい」と小声で呟いて、眉間に深い皺を寄せたまま目を逸らした。実際は毒のせいで体が痺れており、表情筋と舌をうまく動かすことができない状態なのだが、それをシェリナに説明する気にはどうしてもなれない。言ったところで、彼に対して抱いた苦手意識が軽減されるとも思えない。――第一印象が悪すぎた。
「ゲディンスのシェリナは何も悪いことをしていませんよ。護衛隊は、言ってしまえば騎士に選抜されなかった高位貴族出身者の集まりなので、人格的に問題がある者たちも存在します。目を合わせたり声をかけないようにしてください」
「はい。わかりました。神官さま」
従順に頷いたアレスの少女を見て、同行していた騎士たちが表情を曇らせた。
「えー……ちょっとその説明はどうかと……」
「儀仗任務に憧れて護衛隊を志願する兵士も大勢おりますし……」
遠慮がちにそんな事を言っていたのだが、ルカは何も聞こえないフリをした。
「気をつけて下さい」
「はい、神官さま!」
真剣な目をしてシェリナはしっかりと頷く。彼女は優秀なアレスだが、エレネのように前世の記憶を持っていない。幼いころから世俗と切り離された世界で生きてきたため、彼女は周囲が不安になるくらい世間知らずだった。
これからしばらくシェリナはエレネの元で見習いとして働くことになる。彼女はカゼルの来訪を歓迎しないだろう。『なぜいつも邪魔をする』と、カゼルは言ったが、本当にルカは何もしていないのだ。しかし……
――二人の運命はいつまで経っても一向に交わる気配がなかった。




