2 臆病な逃亡者は話を聞かない
狭い店だ。足の長い彼が三歩も進めばカウンターに辿り着いてしまう。
エレネから見て左手側には屋根がついたテラスに続くガラス扉があり、右手側には大きな窓の下に三人掛けの古いソファーが置いてある。他にはなにもない。
街中にあるようなアレスの店は、神秘的で退廃的な雰囲気を前面に押し出しているようなところが多い。それは、エレネの前世の記憶の中の『占いの館』のイメージに近い。『黒や紺の布が天井から幾重にも吊り下がっていて、昼でも薄暗く甘い香りの煙が漂っている』というような。
でも、エレネは自分の店を持つとき、そういういかにもな感じにはしないと決めていた。
――明るくて清潔で、よく風が通る居心地のいい店。
それは一般的なイメージとは真逆かもしれないが、お客にも、近くの村の人たちにも、アルゴにも好評だった。店のソファーはミディアのお気に入りの読書スペースで、ここに遊びに来ると日がな一日寝っ転がって本を読んでいる。
「こちらに、しるしのある方の手を乗せていただけますか?」
カウンターの上にちいさなクッションを置く。ミディアから贈られた大判のハンカチーフで作ったものだ。手触りが素晴らしいから高級品に違いなかった。このクッションに手を乗せたお客は大抵うっとりとする。
一枚のハンカチーフから二つできたのだが、爪を整える時に使いたいからと言って、ミディアがひとつ持って帰ってしまった。
見るからに身分の高そうな青年は、クッションを目にした途端、零れ落ちんばかりに目を大きく見開いた。
「……え? ……これ、これに、手? 手……乗せても?」
ぎぎぎぎ……と軋むような音が聞こえるような感じで、青年が顔を上げる。
その時エレネは悟った。あのハンカチーフは、鋏を入れていいようなものではなかったのだ……と。でも、もう切って縫ってしまったのだから仕方ない。贈り主の許可は取った。
「ええと、どうぞ」
内心の動揺を隠しつつ、エレネは青年に再度勧める。恐る恐るというようにクッションの上に手を置いた青年は、「うわぁ」っと子供のように感嘆の声をあげて目を輝かせた。やはりエレネより年下のようだ。表情や口調にまだ少年の雰囲気が残っている。
エレネは左右色違いの瞳で、青年の手の甲にあるしるしを見つめた。
しるしは神様によって異なる。神様そのものを表すサインのようなものだ。
神殿で祀られている神様ともなると、それこそ繊細で美しい、思わず見惚れしまうような模様であることが多い。それに対して、例えば湖の神様とか、巨石の神様とか、土着の神様はシンプルだ。
今目の前にあるしるしは、『画』という漢字に似ている。この辺りの神様のものではない。
このしるしは、一度だけ見たことはあるが……いつだったろう?
エレネは口元に手を当て、記憶を必死になってひっくり返し始める。
かなり神格は高く、大きな神殿に祀られている神様に匹敵する。そういうことがアレスであるエレネにはわかる。
「……絶対に見たことがあるけど……どこ……いつだった?……」
目の前に差し出された手をじーっと眺めながら。エレネは内心焦っていた。ぶつぶつ独り言を言ってしまっている事にも気付いていない。
「多分、この模様は水の系統…………思い出せない……出てこない……」
エレネは諦めてため息をついた。依頼人をあまり待たせるのも良くない。暗い顔をして深々と頭を下げる。
「申し訳ございません。私には、このしるしがどちらの神様のものかわかりかねます」
「……ええと、気を悪くされたら申し訳ないのですが、それはつまり読み取れないということでしょうか」
そう尋ねる青年は、不信感を示すことなく、ただただ不思議そうな顔をしていた。
まだ若い彼は、個人でやっているアレスの店のルールを知らないのだ。
エレネはそういう訳ではないと静かに首を横に振った。
「郊外でひとりで店を構えているようなアレスは、お客様に信用していただくために、そのしるしがどこの神様のものかを、依頼主の前で当ててみせたりするんです。……どうされますか? 他のアレスの店に行かれます?」
アレスはエレネの他にも大勢いる。街中に店を構えている者も、それこそ森の奥の奥に庵を結んでいる者もいる。国内であれば料金は一律なので、依頼人からすれば、より力あるアレスに正確に読み取ってもらった方がいいに決まっている。
聖職者に聞かれても恥ずかしくない悩みなら、神殿に行くことをお勧めするが、ここに来ている時点で神殿には行きたくないのだ。
「いえ、他のアレスに頼るつもりはありません。あるお方に、あなたを強く勧めていただいたので」
その言葉でエレネはピンときた。
「ああ、思い出しました。アルゴさんと同じ模様ですね。ということは、レンゲル山の湖の神様ですね。アルゴさんの紹介となると……絶対失敗できませんね……」
アルゴの紹介の客なら安心だ。エレネは念のために僅かに残しておいた警戒心もすべて捨て去った。
「大切なものを盗まれた時、あなたのおかげですべて取り戻せたと聞いています」
「神殿まで行く時間が惜しくて、近くにいたアレスを頼ったという話ですよ? たまたまです」
エレネはゆるく首を振る。でも、その出会いがあったからエレネはここに店を構えることができたのだ。
――あれは、エレネが人形劇団の一座に匿われて各地を回っていた頃のことだ。
「その馬車にアレスが乗っていると聞いたっ。頼むっ、しるしを読み取ってくれっ」
そう大声で叫びながら、馬で馬車を追いかけてきたアルゴは血まみれだった。一座の団長は、彼が取り出して広げた布に刺繍された紋章を見た瞬間に顔色を変えてすぐに馬車を止めさせた。
アルゴは、団長に連れて来られたエレネに無言で駆け寄り、殴り掛かるような勢いでエレネに向かって拳を突き出した。訳がわからないエレネは、血の匂いを漂わせる男への恐怖でがたがた震えながらも、しるしに触れたのだ。
「このまま馬を南東に走らせ、鷲の名の崖の裏に隠された船を探せ。出港は三日後。それまでなら必ず取り戻せる」
瞼の裏に浮かぶ、神様からの助言を声に出して読んでゆく。みっともなく声は震えてしまっていたのだが、読み終わるころには、『この人は何かとても大切なものを奪われて、これから取り戻しに向かうのだ』と理解していた。アルゴはエレネの言葉を聞き終わるや否や、料金も払わず馬に飛び乗り走り去っていった。
「大丈夫だ、必ず後で支払ってもらえる」
団長は何故か強くそう確信している様子だった。
数週間後、人形劇団が興行していた大きな街の広場にふらっと現れたアルゴは、エレネにちゃんと代金を支払ってくれた。人形劇団の方にも謝礼が支払われたそうで、団長はひどく恐縮していた。
奪われたものをすべて無事に取り戻すことができたとアルゴは言った。彼の一族にとって、それは命に代えても守らなければならないものだったのだと。
「ありがとう。エレネたちは、俺と俺の一族の命の恩人だ」
エレネは顔を引きつらせて無理矢理の笑顔を浮かべる事しかできなかった。
取り戻せなければ殺される……。
それがエレネの暗い記憶を刺激して、喉が詰まったような感覚を覚えた。
「ここから少し離れた村に、俺が昔住んでいた家がある。……エレネだったか、自分の店を持つ気はないか?」
突然そう提案されて、エレネは息苦しさも忘れてぽかんとした顔になった。しかし、団長の方は特に驚いた様子がなかったから、二人の間ですでに話がついていたのだなと気付いた。
団長はエレネの肩に手を置くと、色違いの目を見つめて言ったのだ。
「俺たちは自由を愛する鳥だけど、エレネは木だ。性格的に地に根をはって生きる方が向いてる。……あいつが探しているのは片目が緑のアレスだ。だから、そう簡単に見つかりはしない。少しずつでいい、信頼される赤い目のアレスになれ。それが身を守ることに繋がる。わかっているとは思うが、エレネが一緒にいるのが迷惑だとかそういう話じゃない」
エレネは拳を強く握り締めて、泣きそうになりながら頷いた。エレネは彼等に傷付いた雛鳥のように守ってもらっていた。……とうとう、巣立ちの時が来たのだ。
「これまでエレネを守れたことは俺たちの誇りだ。俺たちの役割はきっと、この場所にエレネを連れてくることだったんだよ」
雪が降り出したら皆で世話になりに行くと、団長は晴れやかに笑った。
そうして、二年間一緒に旅をした人形劇団から離れ、エレネはこの村はずれに『赤い目のアレス』として店を開いた……
懐かしい人たちの面影が脳裏に浮かぶ。エレネを助けてくれた彼等に恥じない生き方をしなければならない。アルゴの顔を潰すような事をするわけにはいかないし、絶対に自らの評判を下げるようなこともしてはならない。
「では、はじめましょうか」
「え……」
いきなりすぎたのか、青年は驚いた顔になった。そして突然頬を赤らめ動揺し始める。
「あ……あの……準備とか……」
「特に必要ないので、はじめますね?」
アレスの中にはしるしの読み取りを開始する前に、部屋を暗くしたり瞑想したりというパフォーマンスを行う者も多い。でも正直……それをやったから読み取りの精度が上がるという訳でもない。
「ごめんなさい。少し触れますね? これはどうしても必要な事なので」
そう一言断ってから、エレネはテーブルの上に置かれたままの手に、そっと手を重ねて目を閉じる。冷たかったのか彼の手が大きく震えた。
流れ込んできたのは力強い水の気配……
エレネは、小さく息をついてから、瞼の裏に浮かび上がった文字を声に出して読み上げて行く。
それは視力検査に少し似ている。力あるアレスはどんな文字でも読み取れるが、力ないアレスは視力が弱い人のように、文字をぼんやりと見る事しかできない。しかも神様によっては大変癖のある字であったりするのだ。
『赤い目のアレスが作るニンナ婆さんのスープを、三日に一度ここに必ず食べに来ること』
アルゴの時も思ったが、湖の神様は大変達筆だ。そして、とても読み取りやすい。エレネが目を開けると、彼の手の甲にあったしるしは綺麗に消え失せていた。
「ええ!」
青年が困惑した声をあげた。真っ赤な顔でおろおろと目を泳がせている。
さすがにエレネにもこの助言の意味はわからない。もしかして、健康関連の悩みだったのだろうか。体重を早急に落としたいとか……
何にせよ、神様がそう助言してくれているのだから仕方がない。スープ作るくらい大した手間でもないのでエレネとしては問題がないが、よく知りもしない女が作ったスープを口にするなど、彼は嫌かもしれない。
ニンナ婆さんのスープというのは、要するに『貧乏人のスープ』という意味だ。ちょっと癖のある香りがする発酵食品を使う。庶民の食べ物なので貴族は絶対に口にしない。
「……お嫌いですか?」
「いえ……普通に食べますが……あ、それよりまず料金……」
「そうなんですね。良かったです。では、こちらへどうぞ。今から準備しますから」
エレネは立ち上がるとさっさとテラスへと続くドアを開け放った。来るか来ないは彼が選ぶことだ、エレネが口を出すようなことでもない。
「え? ……今からですか? あの、お金を……忘れない内に……」
「昼食をどこかで食べてからいらっしゃったのですか?」
「え……ええと、まだ、です……はい……」
狼狽していた青年は、観念したようにそう言った。
恒の下にテーブルと椅子が置いてある。天気のいい時エレネはそこで食事をしているのだ。風が通って気持ちいいし、店に匂いが籠らない。
一脚しかない椅子を引いて彼に座るように促すと、エレネはさっさと奥に引っ込んだ。
丁度昼食用に作っておいたニンナ婆さんのスープがある。それを彼に譲ればいい。
(丁度固くなってきたパンがあるから、お昼はパン粥にしよう)
そんな事を考えながら、エレネは食器棚からスープ皿を取り出した。