ラベンダーの河
この首輪をいちばん最初に嵌められたのは、彼だった。
『俺は必ず戻ってくるぞ国民ども! なにせ俺様は、不滅だからな!』
いつもみたいに自信たっぷりにそう言って、彼は……ダフィンは扉の奥に消えた。
それ以来、俺はあいつの姿を見ていない。
王城を探しても、あらゆる家畜小屋を探しても、あいつはいなかった。
だから、いるとしたら、繁殖係のところなんだ。
「きっと、そうに違いないよ」
これは夢だとわかる。夢の中で俺は、春の庭にいた。
目の前には、淡紅色や白色の花(正確には萼らしい。あいつが教えてくれた)が綺麗に咲いていた。すん、と鼻を鳴らせば、甘いような高貴な香り。そっと触れようとすれば、ぴちょん、と何かが、花の上に降ってきた。
空を見上げる。
夢の中だとわかっているのに、とてつもなく怖かった。最初はぽとぽとと落ちていた赤い血は、一気に花の上に降り注いだ。まるで、叩きつけるように。
声が聞こえた。
『植物図鑑なんです、これ。素敵でしょう?』
あの少年が見せてくれたページには、春の花が描いてあった。誰かがわざと汚したようなページには、この花が描かれていたんだ。
「ダフネオドラは、不滅なんだろ?」
この俺としたことが、泣きそうな声が出た。
見つからない王族。王様は自死した。あいつは扉の奥に消えた。あいつの妹のお姫様は……わからない。
「待ってろ、必ず俺がーー」
その続きは、思い浮かばなかった。
「あー、最悪だよ。ナザルお義兄様のせいだ」
がばりと起きたトラメルは、代わり映えのしない自室を認めて安心した後に、そう呟いた。
意味深ナザルお義兄様があんなことを言ったせいで、変な夢を見た。今日は体調不良で家畜業務休もうかな。
とは言ってられないのが家畜の性。朝ごはんを届ける声が玄関から聞こえた。
「はーい、はいはい」
「おはよーっス、トラちゃん! きゃぁあっ!?」
玄関扉を開けると、なぜか悲鳴をあげるお届け係の少女。
「と、と、トラちゃん、なんて格好をしてるっスか!? はやく服着て!!」
お届け係の少女は、ばっと自分の目を手で覆っていた。尖った耳まで真っ赤である。
トラメルは、自分の格好を見た。寝起きだから、パンツ一丁だ。
「牛や豚だって裸じゃん。何を恥ずかしがる必要あるんだか」
「わ、わ、わ、私は乙女なんスよ!?」
「吸血鬼でいう乙女ってどのくらいだよ」
人間の十倍の年齢生きるっていうから、たぶん目の前の少女も百歳越えなのでは?
トラメルが邪推していると、パンチが飛んできた。可愛いパンチだ。
「あ、白だな」
後ろに倒れ際、見えた色を呟くと、蹴りも追加された。
「トラちゃんは余計なことを言うのをやめた方がいーっスよ。いつか殺されちゃいますよ」
目が覚めると、柔らかい太ももに頭を乗っけていた。ほとんどトラメルの自業自得なのに、律儀にも目が覚めるまで待っていてくれたらしい。
「余計なこと、パンツの色とか?」
ごっ。
脳震盪を起こした。
「忘れたっスか」
「忘れました、すみません」
笑顔で怒るお届け係は怖い。
そう心に刻み、服を着たトラメルは朝ごはんを食べることにした。今日の朝ごはんはトーストである。少し冷めているそれを、バターを塗ってもくもくと食べる。
やっぱり傍で朝ご飯の光景を見ている少女。暇なのだろうか?
「トラちゃんは、ご飯を食べることが好きっスか?」
「好きだよ。生きてることを実感するから」
「生きるためにじゃなくて?」
そんなことを訊いてくる少女は、どこか情緒不安定そうに見えた。トラメルは、なんとなく少女のオレンジ色の頭に手を乗せた。
「娯楽が少ない生活だからな。生きてることを実感するのが娯楽なんだ」
「娯楽……」
「食事すら娯楽に変える男、それがトラメル君なのです。お前も食事の時に……」
今度はジャムを塗って食べる。
「あ、そっか。血って味変できないもんな。どうしたものか」
悩んでいると、少女が小さくぽつりとこぼした。
「ごめんなさい」
「え? なんで謝るの?」
「ごめんなさい、トラちゃん」
少女の暗紫色の瞳からは、ぼろぼろと涙が溢れていた。
「ごめんね。でも、私はトラちゃんとだったら……なんでもない。またね」
立ち上がって、少女は出て行った。
一人残されたトラメルは、さくっとパンを齧った。
「あの色合い、どっかで見た気がするんだよな」
「色合い?」
「ちょっと図鑑見せてくれない?」
図鑑少年は、「いいですよ」と言って、絨毯の上に図鑑を広げてくれた。
「あれ」
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
めくれどめくれど、あのページは見当たらない。確か図鑑の最初に近い方にあったのに。まるであの出来事が白昼夢だったみたいに、血塗れのページは見つからなかった。
「それで、どんな色なんですか?」
「オレンジに、紫? ちょっと暗い感じの」
「けっこう、毒々しい色の組み合わせですね」
「でも綺麗な色だよ。あった」
夏の花だ。オニユリ。絵で見ると、たしかに結構毒々しい。
「庭にあったっけな。白いのはあったけど」
「白いの……」
「そうそう。今はこーんなに大きいんだぜ」
トラメルは立ち上がって、自分より頭ひとつ分くらい高い位置に手をやった。少年がぽかんと見上げてくるのが面白い。
「年々大きくなってくんだ。来年はもっと……」
「トラちゃん」
「へ?」
いつのまにか、レーテが後ろにいて、トラメルの右手首を握っていた。
「来て」
引きずられるままに、トラメルは退室。
連れてこられたのは、一面紫色の場所だった。
「右腕、千切れるかと思った」
庭に興味がないと思いきや、吸血鬼さんは、ちゃっかり花畑を作っていたらしい。ようやく解放されたトラメルは、地面の上で右手首をさすった。さすりながら、花畑を見る。
そこは、ラベンダー畑。
蛇行するように植えられたラベンダーたちは、夜風にそよそよと揺れていた。月光が花たちの間に降り注いでいるのもあって、畑というよりは、まるでラベンダーの河のように見える。
「トラちゃん」
「へ?」
本日二回目の「へ?」である。
気づいた時には、その河を背に押し倒されていた。首輪が外されて、レーテの舌が首筋を舐めた。
「忘れないで。トラちゃんは、私のものだよ」
「そっすね。俺はレーテのものです」
「本当に?」
くすくすと笑って、レーテはトラメルに牙を突き立てる。
トラメルは、漂ってくる香りに咽せそうになりながら言った。
「良い香りですね、これ。好きな香りだ」
「トラちゃんはぁ、良い香りの花が、好きなんだもんね」
「まあ、そうですね?」
「ふふっ」
痛いほどに牙を食い込ませて、レーテはトラメルの血を吸った。だから、レーテの顔は見えなかった。代わりに見えたのは、こちらを見下ろす銀の月。
「ねえ、トラちゃん」
「ん?」
なんだかくらくらしてきた。血を吸われすぎている。夜空が歪んでいる。顔を上げたレーテの口元も。
「うそつき」
花言葉はめちゃくちゃ楽しいんですよ!!(作者が)