それが終わったその後に
絞られた。まじでこってり、絞られた。
本国に帰ったらお説教を食らうことを覚悟しつつ、ギリエフ外交官は、レーテ姫が読み上げる条件を聞いていた。
「はい、これ契約書です。サインお願いします」
ちょっと不機嫌そうなトラメなんとか少年が、ずいっと紙を渡してくる。条件が全て通るのは予想通りだったのか、タイプライターで打たれた書類のインクはとうの昔に乾いていた。
付け足されていたのは、ヤボク君の図鑑関係のみ。それも、手書きで詳細条件が付け足されているだけだ。図鑑自体はもともと書いてある。
署名をしながら、やはり契約者名に、ダフネオドラ王子の名前が使われているのを確認する。
「今は君の名前でも、十分通じると思うのだが」
「念には念を入れておかないと」
「王子はまだ、生きているのかね?」
「ええ、まだ、生きていますよ」
少年は笑った。おそらく、それは嘘だ。ギリエフ外交官はその笑みに、愁傷を抱いたから。
……王子を喪ったこの国は、まだ、生きながらえている。
それが良いことなのか、悪いことなのか、ギリエフ外交官には、わからなかった。
王子の名前を使っているのは、彼がまだ生きていると知らしめないと、他国が助けてくれないからだ。王子なき王国なんて、価値がないと、この少年は思っているのだろう。
それくらい、ダフネオドラ王子は、王国の灯火だった。東の小国に生まれ落ちた、大国を治めうる器。それが、ダフネオドラ・スティルラントだ。
だから……小国を治めるのには、別に、ダフネオドラ王子でなくとも良いのだが。
「君は、一生王子の名前を背負って生きていくのか?」
忘れないようにするには、名乗る数を多くすればいい。自分の名前すら、押しのけて。
少年は、頷いた。
「俺は、ダフネオドラ・スティルラントです」
王国に待つのは緩やかな死か、それとも、我々が死に追いやられるのか。
いっそ楽しみな気持ちで、ギリエフ外交官は、王城の廊下を歩いていた。と。
「む、人間か? こんなところで、何をしている?」
前から歩いてきた、銀髪の吸血鬼が、片眉を上げて言う。そうそう、この反応が正解なのだ。
だが、この吸血鬼は、ギリエフ外交官の襟のバッジを見て、「ああ」と声を上げた。
「遠路はるばるご足労だった。パルマヤ共和国の外交官殿」
「貴方は……」
「くだんの交渉の調停役である、レーテの夫だ。オリバー・ティアールという」
「ギリエフ・マルシェです」
なんと、頭を下げてきたので、こちらも頭を下げる。そうか、この吸血鬼が書面で伝達されたティアール公爵か。
「交渉は、うまくいったか?」
「絞られるだけ、絞られました」
「……そうか。まあ、アレはこちらのペースを崩させるからな」
柔らかな苦笑。こんな人間的な……違う、こんな優しい笑みもできるのだ、かの種族は。
「アレ……ですか?」
「そうだ。ほら、出てきた。おーい、トラメルーッ!!」
「げぇっ、ティファール公爵!?」
「ティアールだこの阿呆がッ!」
会場となっていた応接間から出てくる少年に、手を振るティアール公爵。
「なんでここに!?」
「お前がここに来ると聞いてな! 急いで公務を終わらせてきた!! お前には言いたいことが山ほどある。よく聞けよ、お前はレーテのお気に入りで僕の親友でありながら……」
くどくどくど。気のせいか、先ほどまで威嚇する猫に見えたトラメルが、今度は飼い主に怒られて耳を垂れる猫に見えてきた。
だが、そんなこと、今のギリエフ外交官にはどうでも良かった。
ーーと、トラメル!?
動揺を顔に出さないように会釈して、また歩き出す。歩くスピードは増すばかり。
「ていうか、俺の名前をバカでかい声で言うのやめてくださいよ! せっかくの秘密だったのに!」
「お前は自分の名前で堂々としてればいいんだ! なに勿体ぶってるんだトラメル!」
「また呼んだー! レーテぇ、公爵が虐めるーっ!」
「人の妻の胸に飛び込むな!?」
どうやら、レーテ姫の夫とも、うまくやってるらしいが、って、そうじゃない!
ギリエフ外交官は、耐えきれなくなって、後ろを振り向いた。
レーテ姫に抱きつくトラメル……少年に、それを引き剥がそうとするティアール公爵。よしよしとトラメルの頭を撫でるレーテ姫。
すぽんっとレーテ姫から引き剥がされる時、トラメルの茶色の目は、呆然と立ち尽くすギリエフ外交官を捉えた。
それは、一瞬だった。
トラメルは、唇に人差し指を当てて、ギリエフ外交官にウインク。
「は、はは……」
ギリエフ外交官は、共和国式の最敬礼をして、今度こそ回れ右をして立ち去った。
ーー名前を教えてくれなかったのは。
ダフネオドラ王子の名前を、最後まで騙っていたのは、こちらに優位性を示すためでも、他国に見捨てられないためでも、何でもない。
ーー自分の名前を教えたくなかったから、か。
レーテ姫は、我関せずトラちゃんと呼んでいた。だが、あの銀髪の吸血鬼は、“私のもの”と呼び、ヤボク君も、トラメルの名前を呼ぼうとしなかった。それは、交渉の方針として、あらかじめ、言い含められていたのだろう。
ーーさて、これを、報告するべきか否か。
期せずして、ギリエフ外交官は、吸血鬼のお気に入りの少年の名前を知ってしまったのである。これは、人間側を含めての強力なカードだが……。
ーー決まっている。
ギリエフ外交官は、肩をすくめて、その名前を忘却した。わざわざ、ギリエフ外交官ではなく、連合の国家元首の命で脅してきた優しい少年に、逃げ道を作ってくれた少年に、仇は返すまい。
ーーそれに、そんなことをしたら、ヤボク君に嫌われてしまうしな。
今度の交渉が楽しみだ。首に縄つけてでも、図鑑関係者達を引っ張ってこなければ!
ギリエフ外交官は、意気揚々と歩き出した。
「パルマヤ共和国が堕ちたらしいですよ兄さん」
「くくく、奴は連合の中でも最弱」
「最弱なのは兄さんの頭ですよ、っと!」
ばらばらばらっ!
積み上げられていた木片が、一気に雪崩を引き起こす。いわゆるジェンガである。
「はいこれで来月も再来月も兄さんが食糧係! おめでとうございます」
「ちっともめでたくねえわ」
面白くなさそうな兄。手に残る木片を見て、端正な顔を憂いに沈めさせる。
「この木片は、共和国だ……」
「いきなり何を言い出すかと思えば」
「俺たち裏切り連合は、共和国を引き抜かれることによって、瓦解するんだ……」
「元から瓦解してるでしょ。ま、こっちとしては? 吸血鬼たちが来たおかげで、旧連合に別の国も加わって、お山がもっと高くなって嬉しい限りですけど?」
「親父は胃が痛いって言ってたぜ。盟主なんてやめちまえばいいのになぁ」
嘲笑する兄に、弟は苦笑。
「ま、罪悪感でしょうね。一番悪いところを引き受けて、罪を償った気になってる。または、切り捨てることで、自分も身を削ってるんですってアピール」
「そうすることで、我がレッサリアは成り立ってるわけだ」
兄は、ちょいちょいと木片を動かして、簡易的な大陸地図を形作った。ちょうど王国にあたる木片を、優しい手つきで撫でる。
「俺らとしても、まだ消すには惜しいからな。難儀なこった」




