人間が勝てるもの
お気楽主人公が書きたかった(過去形)
「でも、ワルって言ったって、あくまでも人間の中での話でしょ? いざとなったら私がプチっとするし、そんなに恐れる必要はないと思うんだけど」
いち早く恐慌状態から脱したのはシアだった。彼女は拳をぎゅっと握って、ふんすと鼻息荒くする。
トラメルは、「たしかにそうだね」と肯定した。脆いとはいえ、王城の地下牢をナザルお義兄様ごと吹っ飛ばした彼女にかかれば、それこそ人間のワルなんて、内臓ごとプチっといかれるだろう。
いつでも殺せる。それは事実。
だが、それだけでは足りないのである。
「悪は、どんなところでも栄えるんだよ」
実感と共に、トラメルは吐き出した。自分がどんな声の調子になっているかわからない。トラメルは、パタンとファイルを閉じて、S級犯罪者の情報が収められている棚へと歩いていく。
居並ぶ分厚いファイルは、言い換えれば、人間の悪意の記録である。
「貧しくても富んでいても。場所を選ばずに悪は芽生えるんだ。外でも中でも生えてくるカビみたいにね」
「トラメルさん……?」
「たしかに吸血鬼は、あらゆる点で人間に勝ってるよ。タイマン張ったら勝つのは吸血鬼の方だ。だけど覚えておけよ、シア。だからこそ、吸血鬼には足りないものがあるんだ」
「足りないものって、なによ」
「それが、悪意」
棚にファイルを戻す。棚を背に、トラメルはシアに微笑みかけた。
「可愛い女の子でさえ、S級犯罪者になれる便利な道具だよ。な? 怖くなってきただろ?」
「ぜんぜん。私の方が可愛いし」
「どこで張り合ってんだよ」
ぷりぷりと怒るシアは、びしっとトラメルを指さした。たしかに可愛いけれども。
「それに、悪意なら私にもあるわ! ほら、私って、王都の門を潜るときに、貴方たちを見捨てたじゃない!?」
シアが両手を目いっぱい広げた。
「こーんな悪意を持ってて、それで強いって最強じゃない!? 私がいちばん怖い! ……何笑ってるのよ」
「いや、可愛いなあって」
「え!?」
「この場合の可愛いは、馬鹿だなあという意味ですよ」
頬を真っ赤にしたシアに、ラクタがジト目でツッコミを入れる。「そんなのわかってるわよ」と言うシアは、ちょっと泣きそうになっている。やはり、彼女にはそれが足りない。それが、シアをお馬鹿だと思う所以である。
「二年暮らしていてわかったよ。吸血鬼には、悪意が足りないんだって」
かつての主人を思い出す。たしかに、レーテはトラメルの嫌がることをするし、尊厳をバッキバキに折ってくる。だが、これまでトラメルが触れてきた悪意には、到底及ばなかった。及ぶとすれば……。
トラメルは、頭を軽く振り、棚にもたれかかった。
「人間は、弱いからこそ知恵を振り絞るんだ。どんなところでも生き延びる知恵をね。それが悪意。倫理観、道徳心……そういうストッパーを外して、強者が考えつかないようなことをする」
「要は、油断するなってこと?」
「そう。いざとなれば暴力でなんとかなるって考えは捨てること。その考えが油断を生むし……命取りになる」
「ふぅん。よくわかんないけど、わかったわ。人間って、お父様が言うほど優しくないのね」
シアは、ちょっと寂しそうに言った。
人間と穏便に取引しようとしていたという彼女の父。そんな父の言うことを信じたいのはわかる。だが、曲がりなりにも、現王政打倒まで協力する関係にあるシアには、人間の悪意を知って欲しかった。じゃないと、この監獄にいる人間に取って食われてしまうだろうから。
そこまで考えて、トラメルは心の中で自嘲した。
シアに言わなかったことがある。それは、自分にも当てはまることだから言わなかったことだ。
公開処刑が決まって、毎日毎日、トラメルを説得しにきた青年を思い出す。
ーー実は、俺たちには、おんなじところがあるんだよ。
それは、言葉が通じるという点だ。
人間が家畜の言葉を理解できないのとは違って、吸血鬼は人間の言葉を理解できる。ナザルお義兄様は、トラメルの言葉を鳴き声としか捉えていないだろうけれど、思うに、あの人は別格。
シアは良い子だ。カレーを配ったときに、自身にかけられる変態の言葉をきちんと聞いて、きちんとショックを受けていた。まさしく、食い物にされやすい。耳を傾けなければいいのに、律儀に話を聞いてしまう。
彼女の父親だってそうだ。どうして、吸血鬼に勝る悪意を持つ人間と、言葉で取引しようと思ったのだろう。
「そう、人間は優しくないんだ。だから、油断せずにーー」
「じゃあ、私は“仲良し同盟”の人たちを信じればいいのね」
「どうしてそうなるの?」
やっぱりシアちゃんはお馬鹿らしい。トラメルも人間だっていうのに。
「別に?」
シアがにっこり笑って、トラメルのいるところへと歩いてくる。赤い瞳を細めて、トラメルの顔を覗き込んだ。
「人間の悪意を教えてくれた貴方は、信じてもいいかなって思っただけ。そうでしょ?」
「おお」
ラクタが感心したような声を出す中、トラメルは、不覚にも、口をあんぐり開けるしかなかった。言葉が出てこない。目を擦る。そこには、金色の髪の友人は立っていなくて、代わりに銀色の髪の少女が立っていた。
「ね、私は貴方を信じるから、貴方も私を信じてよね!」
「……俺は、シアを信じてるよ」
「よろしい!」
ぽん、と頭に手を乗せられて、そのまま往復する動き。
「良い子のトラメル君は撫で撫でしてあげる。光栄に思いなさい?」
「やっぱり油断してるよねお前」
引き攣った顔で、かろうじてそんなことを言うと、シアは首を横に振った。
「ううん! 私はこれから頑張って、人間と同じ悪意を持つことに決めたから!」
シアが精一杯悪っぽく微笑んだ。
「覚悟しててよね!」
「なんだか、毒気が抜けました」
資料室からの帰り道、ラクタがトラメルに、こそっと話しかけてきた。前を歩くシアはそれに気付く様子もなく、鼻歌なんて歌ったりしている。
「吸血鬼の中にも、いるんですね。王子と同じ笑い方をするひとが」
ラクタの口元は、少しだけ笑っていた。「そうだね」と、トラメルはとりあえず同意しておいた。
ラクタはなし崩し的に“なかよし同盟”に入れたようなものだし、ダフィンを殺した吸血鬼に否定的な感情を抱いていた。向こうのニノンも同様。立場が色濃く出た人間と吸血鬼がいたら、同盟の基盤づくりに障害が出ると思っていたのだが、これは嬉しい誤算だ。
シアのお馬鹿さは、どうやら、そう悪いものでもないらしい。
ーーさて、釘は刺したことだし、リクルート活動を始めますか。
S級はとりあえず保留して、まずは単純に戦力になりそうなカレーの人を、再度面接して……。
「ただいまーっ」
そんなことを考えて、元気よく挨拶をすれば。
「ああ、おかえり」
飯を食べて点数しか言わないお向かいさんが、やけに穏やかに返してくれた。
「た、ただいまです」
思わず、変な敬語に言い直してしまう。トラメルは、説明要員を探した。すぐに、困り顔で笑っているシザーと、威嚇をしているニノンが目に入った。迷わずシザーの方に説明を求める。
「これ、どーいうこと?」
「なんか、仲間になってくれるんだってさ。ほら、俺たちの作戦会議、この人の真ん前でやってたろ? 会話が聞こえてくるらしくて……それで、興味を持ったんだと」
「つまり、自己推薦?」
「そういうことになるな。それでどうするよ議長。あの人、なんか大物っぽい見た目してるし、戦力になると思うんだよな」
トラメルはシアを見た。シアは「さっそくお出ましのようね」とでも言うように、不敵に笑っていた。
願ってもない。
トラメルは、檻の隙間から手を差し出す。
「よろしくお願いします。えーと」
「囚人番号〇二四三番。よろしく頼むぜ、トラメル・ヴィエスタ君」
「はい、よろしくお願いします」
握り返される手。トラメルは笑った。
毒を食らわば皿まで、だ。




