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誰の犠牲も許さない

老人は、のっそりと体を起こした。


窶れているが、その姿は、はるか昔に見たその人とそっくりである。


昔一度だけ、父が連れてきてくれた研究所にいた所長その人と。


「久しぶりじゃのう、お嬢ちゃん」


暗闇ではわかりにくい黄ばんだ歯を見せて、エネルギー研究所の元所長……ミクリヤはにいと笑った。あちらも、こちらのことを覚えていたのだ。


それに、思わないことが無いでもない。


が。


「お久しぶりなのです、元所長」


アグリは、何の感情も乗せないで、淡々と挨拶をした。目の前の彼は、今や国に仇なす犯罪者である。尊敬も崇敬も必要ない。


かつて、科学の(ともがら)の頂点と呼ばれた彼にはそぐわない、そんな晩年。だが、アグリの中にあるのは同情ではなく、これ以上科学の立場を悪くしてくれるなという感情のみ。


ミクリヤは、アグリの態度に気を悪くした風でもなく、猛禽類を思わせる瞳でアグリのことを見上げた。見上げるのは立てないから、這うだけの筋力もないからだ。筋肉が落ちて、目は周りの脂肪を持ち上げられないほどに落ち窪んでいるのに、妙な迫力がある。


伸び放題の顎髭を、震える指で撫でながら。


「して、こんな小汚い監獄に何の用かね?」

「別に。ただ、話してみたかっただけなのです」

「嘘を吐いているな」


アグリの小手先のごまかしは通用しなかった。ミクリヤの喉の奥で声が鳴る。


「大方、儂の言った通りになったんじゃろうて」

「……」


図星だった。だからこそ、アグリは、この老人に会いにきたのである。


アグリの父……デルフィン・パールトゥスという禁忌に触れる人材を産み出してしまった科学者は、投獄される前にこう言った。


『この国は、やがて科学に復讐される』


と。実際今は、その通りになっている。


目尻に皺を寄せて、足元がおぼつかなく、転んだ孫でも見るような瞳で。ミクリヤはアグリに言う。


「お前さんも、科学の()なら理解できたろう。この国はあまりに、科学を蔑ろにしすぎた」

「旧時代のことを考えれば、それは、当然のことなのです」


刃物を飲み込むような苦しさを抱きながら、アグリはそう答えた。ミクリヤは何も言わない。


「……先日、王国に行ってきました」

「ん? ああ、我らが同志の国か。どうだったかね、あそこは有望な王子が生まれたとか」

「その王子はもう、この世にいません。吸血鬼が人間世界に来たので」

「はあ?」


科学の範囲を超えた存在を提示されたミクリヤは、今度はアグリを、道を外れてしまった孫を見るような目で見た。


「正気かね、お嬢ちゃん」

「残念ながら、ルナシエス博士。人間と同じような容姿を持ちながら、人間以上の身体能力を出力する存在が現れてしまったのです」

「か、彼らの主食は!?」

「血液なのです」


ミクリヤの死んだ外眼筋が、ここにきて一気に働き始めた。落ち窪んだ目はぎょろりとアグリを捉え、爛々と輝き始めた。わなわなと口元が動き、ずりずりとアグリの元に這ってくる。


「な、なんということだ、ワシが投獄されている間に、そんな面白そうなイベントが起きていたとは!?」


今度はアグリが、あまり近寄りたくない親族を見るような目をする番だった。馬鹿正直に吸血鬼の存在を話すんじゃなかったと思ったが、吸血鬼のことを伏せずして、今のこの状況を正しく伝えられはしないだろう。


ということで、アグリは、“科学の復讐”とやらの話を手短に話した。簡潔に話そうとしているのに、老人が根掘り葉掘り聞いてくるものだから、随分と時間はかかってしまったけれども。


「それで? 王国の偽王子は、“忘れる”ということを選んだわけか。吸血鬼に支配されておきながら、見上げた志じゃのう」


心底馬鹿にするような瞳で、うんうんとミクリヤは頷き。


「それでお嬢ちゃんはーーアグリ君は、わからなくなってここに来たんじゃな」


アグリは拳を握った。その通りだ。ミクリヤの予言は成就した。それは、科学に対するこの国の姿勢が間違っていると、アグリにまざまざと突きつけた。だけど、王国で見聞きしてきた、“忘れる”という姿勢が間違っているとも思えなかったのだ。


「抑も、王国とモフェリアでは違うじゃろう。こちらは……王国が使ったから、使っただけじゃ」

「それは」

「王国が第一人者、こちらはそれに唆された被害者。そう言えるのう」


ーーいけしゃあしゃあと……!


再現を禁じられた科学を使うための方便に過ぎないだろう、それは。アグリの視線に、ミクリヤは笑う。


「だからこそ。だからこそ、この国は、中途半端じゃ。受け身故に、小手先の封じ方しかできない。王国のように“忘れる”ことはできず、民衆のコントロールは宗教任せ。そりゃ、科学に復讐されるじゃろうて」


何も言えずにいるアグリに、ミクリヤは続ける。


「ワシは宗教を憎んでいるが、無くなって欲しいとは思わない。要は、バランスが大事なんじゃ。科学と宗教の相互監視。まあ理想的にはそのような感じじゃな」


独特の世界観であるが、今この国においてのそれは、正論であると思えた。


「人々の目を逸らすには信仰がちょうど良い。だからこそモフェリアは、宗教に寛容じゃ。問題はそれを、外の宗教に頼ってしまったこと」


はあ、と大きなため息を吐くミクリヤ。


「手間を省くために、外国の宗教を受け入れるなど、本当に情けない話じゃが……」

「モフェリア国内で新しく作るとなると、あなたのような人が教祖になってしまうのです」

「まったくもってそのとおり」

「頷かないでほしいのです」


アグリは呆れてしまった。モフェリアでの異端というのは、カドリィを本拠地とする宗教ではなく、その逆。科学を信仰しすぎる科学者なのだ。つまり、科学もまた宗教……というと、言葉遊びの域になってしまうのでそれはおいておいて。


「理想の宗教を、モフェリアは外に求めた。だから、カドリィの傀儡になるのも時間の問題。見捨てられた科学こそが、この国を守る最後の砦だったはずじゃのにな」






「だからこそ、取り入ることは容易でした。宗教に寛容なこの国の大統領府が、筆頭枢機卿への謁見を止めるなど、あってはならないことですからね」

「……」

「私は外国人ですから、監視付きではありますが。私たちには、“符号”というものが存在するので、世論操作は容易かった」


その結果がこのザマである。タルジは、拳を握った。ぎり、と歯を軋ませる。


「貴方は、なぜこうも死に急ぐことを」

「私の人生にとって、もっとも、価値がある瞬間だからです」

「自殺は、許されていないはずです」

「今までの徳でなんとかなるでしょう」


和やかに、ナディクはそう言い放つ。枢機卿失格なことを言った彼には、窓の向こうの花々さえも味方していた。


「私がここに来る前に、レッサリアについての噂がこの国で流れたようですね? それを扇動したのは、新聞社に潜り込んでいた信者たち。大半の国は処分できたのでしょうが、科学を抑え込んでいるこの国でそれをしたら、暴動が起きるでしょうね。もっとも、暴動が起きた方が、いくらかマシでしょうけど」


目に毒すぎるほどに、色鮮やかな花々。その花々が霞んでしまうほどに、悪意を纏った存在感のあるナディク。


科学を抑圧し、宗教を勧めたこの国はついに、レッサリアと戦争間近になってしまったのだ。


ナディクは、両手を広げる。


「戦争に巻き込まれたくなければ、宗教(我々)を切り捨ててください。横っ面を張り倒されれば、この国も目が覚めて、歪も治るでしょうから」


偏りすぎたこの国を修正する機会を、ナディクは与えてくれている。自分の身ひとつ犠牲にすることで、この国を救おうとしてくれているのだ。


マッチポンプではあるけれど。


「そこまでして、貴方は、何を得ようとしているのですか」

「別に。ただ可哀想じゃないですか、同盟の議長が。私をこの国に遣ったばかりに、この国が滅んでいくのを、あの子は自分のせいと思うはずです。そこで私が、この国を救ってやることで、ああ私をこの国に遣ったのは間違いではなかったと、そう思わせたい。要は」


中性的で平和主義な見た目をした枢機卿は、そこで初めて、好戦的な表情を浮かべる。


「あの子が積み上げる石を、私で最後にしたいんです」


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