カードの有効範囲
「今日も、圧力を掛けられているのですね?」
大統領執務室。額に手を当てて考えていた、モフェリア共和国大統領のタルジ・ハニアは、そちらの方を見て、苦笑したのみ。
扉を開けて部屋に入ってきたのは、全体的に色素の薄い男である。彼の名前は、ナディク・ノルカルト。神聖カドリィ帝国の枢機卿だ。
ナディクは、勝って知ったるように自分の定位置へと歩いていく。彼の定位置は窓辺だ。人間を動かす人間は、皆、自分の魅せ方を知っている。
タルジは、ペンを持ったまま、つい、彼を目で追ってしまう。
痛いぐらいの夏の日差しが、窓から降り注いでいる。淡い髪の一本一本が発光しているかのように輝き、それはそれは、神聖な光景である。
教会とは、教会関係者と屋根があるだけで成立するという。
それは救いの言葉であると同時に、ひとつの真実でもあるのだと、タルジは思った。
世界中のどこでも教会へと変貌させることができる人間は、タルジの方を見ながら言う。
「救われる道は、ただ一つですよ大統領。私を、カドリィに返すことです」
「そんなことをしたら、同盟の議長に嫌われてしまいますよ」
良心かなにかは知らないし、そもそも、戦争のことを知らされていたのかもわからない。だが、『仲良し同盟』の議長は、結果的に、枢機卿と、この世界を戦争から守っているのだ。
「同盟の議長……ああ、王子のことですね」
花が綻ぶように……という表現はいかがなものだろうか。だが、本当にそのように、ナディクは笑った。慈しみ深く。
タルジは、首を傾げた。
「アグリ君の報告によれば、彼は、王子ではなかったそうですが」
「いえ、彼は間違いなく王子様です」
「……そうですね」
言い切ったナディクの良心に敬意を表し、タルジは頷いた。王国に行ってみなければ、真偽など確かめようがない。それならば、立場の弱い王国に寄り添うような解釈を持ち続けようではないか。
ーーなんて、弱い我が国が言っても仕方ないが。
タルジは、ゆるゆると首を振る。
「貴方は、良い人ですね、ノルカルト枢機卿。いえ、善き人と言った方が良いでしょうか」
とても、届きようがない。だからこそ、この人を、死なせてはならない。
レッサリアや、カドリィから圧力を掛けられようとも、この人をカドリィに返してはならないーーそうやって、決意を固めた時だった。
「“善き人”なんているわけがないじゃないですか。みーんな、等しく死んでしまったのですから」
霧散。
片手でぱっぱと、何かを払うような仕草をしたナディクの目は死んでいた。ものの見事に死んでいた。
ーーあ、あれ?
清らかな心になっていたタルジは、目を瞬いた。さっきまでいたはずの教会は!?
「猫かぶるのも飽きました。私がこんなに自己犠牲精神を発揮して、カドリィに帰らせろとアピールしているのに、貴方は感慨深く私を見るばかりです」
「……本心だったのですか?」
軽くショックを受けて、タルジはそう訊いてしまう。ナディクは頷いた。
「ああ、もちろん、戦争という愚かな行為を肯定してはいませんよ。私は、レッサリアのアディムス殿下とは仲良くしていましたが、今は袂を分かっています」
「どうして、袂を分かったのですか?」
「私がある真実を知ってしまったからです」
再び、ナディクの瞳に光が戻る。だがそれは、純粋とは言い難い、光と形容して良いかわからないものだった。
「私がそれを知ってしまったから、彼らは私を戦争の引き金にしようとしている。確実に殺すために」
「一体、貴方が知ってしまった真実は、どのようなことなんですか?」
あのレッサリアの王子たちが、ひた隠しにする真実。それは一体、どのようなものなのだろう……ナディクが俯いて、ちょうど、心臓にあたる部分に右手をあてた。
「それは……」
ごくりと唾を飲むタルジ。顔を上げたナディクは、笑顔で言い放つ。
「今から、考えます」
「……は?」
「ああ、袂を分かったのは本当ですよ。私は内心あの王子嫌いでしたから」
とても品行方正な枢機卿から出る言葉ではない。タルジは、夏の暑さではないものにクラクラした。
「あちらが戦争を仕掛けてきたのなら、こちらは勝つまで……とは言い難いんですよね。なにせ、相手はレッサリアですから」
渋い顔をしながら、ナディクは続ける。
「戦争回避をする術はありません」
「ですが、私が受け渡し拒否をし続ければ」
「死ぬのは貴方の国の民です」
冷ややかな視線が、タルジを貫く。
「貴方は良心を持ちすぎていますね、タルジ・ハニア大統領。カードを手に入れたのなら、使わなければ意味がありませんよ」
つまり、ナディクはこう言っている。
ナディクの身柄を守るのではなく、とっとと売り払ってしまえと。
「たしかに決定権は貴方にあります。ですが、貴方の国は、脆くなりすぎました」
「……」
モフェリアの、過去を知っているのだろうか。“脆くなりすぎた”という表現を使ったナディクは、再び、慈愛の光を目に宿す。今度ははっきり、それとわかるくらいに。
「カードを手に入れたとて、カード“だけ”で勝負なんて、できるはずもありません。時間と共に、両国は、カードを奪ってしまおうと動き出しますよ。連合会議で誤魔化すのにも、限度があるでしょう」
彼の言っていることは事実だった。
戦争を回避したいというのは、レッサリア以外、どの国も同じ。だが、間接的な影響よりも、直接的な脅しをされている数カ国が、タルジに枢機卿を引き渡した方が良いと言ってきているのだ。それはもはや、懇願と言ったほうが良い。
「国際社会の敵と成り果ててしまう前に、私を、カドリィに送ってください。私は“真実”を知ってしまった者として、レッサリアに最大限の傷をつけて退場するしか、道がないのですから」
儚く笑うナディク。きらきらと輝く髪。そろそろその光景に慣れてきたタルジ。
「やけに死にたがりますね? 一矢報いると言うより、死ぬのが目的のようだ」
「え」
ナディクが固まる。タルジは席を立ち、きらきら空間へと踏み入った。
元は宮殿のこの大統領府。最高級の手入れをされている庭には、季節の花や木が、最高級の状態を保って植えられている。それもまたこの枢機卿を引き立てている。そんなことはどうだっていい。なぜなら、いくら綺麗な庭だろうと、タルジにとっては、仕事場の一部でしかないからだ。
「貴方は一つ見逃していますよ、ナディク・ノルカルト枢機卿。私の持っているカードは、レッサリアとカドリィだけではない、貴方自身にも有効なんです」
ナディクが思い切り顔を歪めた。それにタルジも顔を歪めそうになった。気付いてたのに話さなかったなこいつ。
タルジは、にっこりと笑う。
「貴方をカドリィに引き渡したら、私が、わ、た、し、が! 同盟からどんな罰を受けるかわかりません。レッサリア? カドリィ? それに怯える国々? どうでも良いんですよそんなこと、吸血鬼の機嫌を損ねる行為、我が国は断じてしません。話はそれでおしまいです」
「……王子の見る目は間違っていなかったようですね」
「ええ。我が国は、保身にかけては世界一ですから」
鼻高々に、タルジは言い放った。
「ーーてぇいうことは、前回の反省(エール共和国の民を皆殺しにして北エール共和国と繰り上げ交渉させようとしたら吸血鬼の介入があった)から予想できるから」
レッサリア連合王国、王城。
カルダンは、机に向かい、さらさらとペンを走らせる。『連合新聞』第○○○二号を綺麗に折って、封筒に入れる。
レッサリア王室の封蝋をして、にんまりと笑った。
「癪だが、吸血鬼に恩を売っておくか」
宛先はレーテ姫。内容は。
「“アンタのところの裏切り者、炙り出しませんか?” って、どういうことかしらぁ?」




