(負の)感情の力
前半は無理解の話
「たとえば、猫が脱走したとするだろ?」
レーテの部下は、首を傾げた。彼は、なんとかトラメルの命を繋ぎ止めようと、地下牢に説得をしに来ていた。
そんな中で、トラメルがぽつりと言った言葉。なぜ今その喩えなのかわからないが、とりあえず続きを促す。
「どうして猫は脱走したんだと思う?」
「そんなの、猫にしかわからないですよ」
笑って答えれば、トラメルは、きょとんとした。きょとんとしたが、頷いた。
「じゃあ、どうすればわかると思う?」
『トラちゃんは、質問が多いの』
そんなことを言っていた主人は、なぜだか不安そうな顔をしていた。なるほどこれが。顎に手をあてて考える。
「うーん、猫に、人間になってもらうとか?」
「君たちでいう眷属だね」
「そうですね。猫って、にゃーにゃーみーみー鳴くでしょ? でも人間はやつらが何を言ってるのかわからない。それだったら、猫を人間にして、どうして脱走したのか訊くのが手っ取り早いと思うんですよ」
「おんなじになってはじめて、理解するわけだ」
「そうですね。って、猫のことより。トラメルさん、今からでも遅くないです。レーテ様に謝って、許してもらってください。どうして脱走したのか知らないけど、レーテ様ってトラメルさんにクソ甘いから、きっと一発で許してくれますよ!!」
「あはは、ありがとう」
柔らかな笑みは、彼を一瞬安心させた。
「でも、それは無理だよ」
「……どうして」
「おんなじじゃなくても、理解はし合えるからだよ」
ーーおんなじでも、理解はし合えないのに?
その時のことを思い出していた彼は、トラメルへ浴びせられる罵声に、密かに拳を握った。
トラメルと同じ家畜達は、彼が起こした脱走未遂に憤り、「死ね」だの「身の程知らずが」だのと言っている。「英雄気取りの勘違い野郎」という嘲笑も聞こえてきた。
結局彼は、トラメルの気持ちを変えるに至らなかった。大々的に告知された死刑。集まった多くの人間と、彼を含めた監視役の吸血鬼が集まる中、それは行なわれようとしている。
おんなじ人間なのに、群衆はトラメルのことを非難している。そのことが、彼にとっては憤ろしい。
もやもやした気持ちのまま、彼は顔を上げた。同じ人間に、罵声を浴びせられているトラメルは、一体どんな顔をしているのだろう……?
「え?」
罵声が大きくなって、嘲笑が完全に消えた。
トラメルは、首切り台の上に立っていて、手錠をされながら両手でピースを作っていた。ピースをしたかと思えば、両手の親指を下に向けて、白目を剥く。それを見て、彼はあんぐり口を開けた。
ーーあ、煽ってる……!
別に悲しむでもなく、怒るでもなく、ただひたすら煽っていた。ウインクなんてした時が、いちばん罵声が大きくなった。
吸血王がそれを見て、トラメルの頭にゲンコツを落とし、レーテがトラメルの頭を撫で撫で。死刑の前なのに、なんなんだ、この緩い雰囲気は。
「静粛に」
低くよく通る声が、その場に響いた。それでもざわめきが収まらないためか、吸血王は、金の瞳でひと睨み。
「静かにせねば、お前達も死刑だ」
「俺の道連れってことっすね」
「そういうことだ。このバカと道連れになりたくなければ、静かにしていろ」
口を挟んできたトラメルに、吸血王は苦々しい視線を送っていた。
「ここにいるトラメル・ヴィエスタは、家畜の中で最も重い罪である脱走を企てた。よって、今日この場で死刑に処す。この死刑は、お前達家畜への見せしめだ。我々に逆らったらどうなるか、しかとその目に焼き付けるがいい」
トラメルは腕を組み、うんうんと頷いていた。
ーーあんたの死刑ですよ。
心配していた気持ちが少しだけ薄れて、彼は半眼になった。
かわりに安心感が湧いてきた。あの死刑のことなど他人事だという態度。トラメルの中で、死ぬ気はさらさらないのかもしれない。
ということは、今この場でレーテに謝って、生き延びてくれるのかもしれない。
そんな彼の淡い期待は、トラメルの言葉によって打ち砕かれた。
「とりあえず、遺言を言っておくぞ愚かな人間ども!」
トラメルがそんなことを言うと、
「ふざけるな!」
「お前も人間だろうが!!」
激昂する家畜達。トラメルは、「てへっ」と言って、舌を出す。それが家畜達の怒りを加速させる。
「黙って聞いた方がいいんじゃない? こっから喋った奴みんな、俺と道連れな」
トラメルは、吸血王の方をちらりと見ながら言った。まさに虎の威を借る狐状態。吸血王が呆れた瞳で見るのに気づいているだろうに、トラメルはドヤ顔である。
とはいえ、トラメルへの罵声は一旦収まった。
自分の声が届くことを確認して、トラメルが話し始める。
「まず、最初に言っておきたいことは一つ。この国の王子のことなんだけど、みんな薄々思ってたんじゃない? ダフネオドラは死んだんだって」
その名前を出されて、家畜達は、一斉に息を呑んだ。その名前は、この国の人間にとって、希望になりうるものなのだ。
トラメルは、それを見て嬉しそうに笑った。まるで自分のことのように。
「だけど俺は、あいつが死んでないって知ってる。沈丁花は不滅。あいつはこの国の外で生きてるんだ。この国を救うために」
家畜達が顔を見合わせる。あからさまな嘘に、見張り役の吸血鬼達は、彼を含めて戸惑っていた。この国の王子は、すでに自殺している。それなのに堂々と嘘を吐くのは、家畜達に少しの希望を残す為なのだろうか。
ーートラメルさん、それは、残酷な嘘ですよ。
いかなトラメルといえど、吸血鬼たちがどうして王子の死を伏せたのかの考えには至らなかったらしい。
人間は、簡単に死ぬ生き物だ。
この国を支配し始めた頃、吸血鬼たちはそれを思い知った。
各国に見捨てられたとわかった王は自死を選び、大半の家臣はそれに殉じた。王が他国からの助けを希望にしていたように、家臣もまた、王を希望としていたからだ。
希望がなくなれば、人間は死ぬ。
だから、国民に圧倒的支持を得ていた王子の死は伏せられた。
反乱分子を育てる要因にもなり得たが、人間というか弱い生き物が、自分から死を選ばないようにするためには必要なことだったし、何より家畜ごときが反乱したとしても、すぐに納められるという自信が、吸血鬼の中にあった。
ダフネオドラが生きている。それは確かに希望になり得る言葉であるが、この先に延々と続く絶望を生きさせる言葉である。いっそ、死んでいると言った方が、家畜達を解放できようものを。
トラメルの言葉を疑うような表情もあった。だが、「生きよう」という希望が家畜達に蔓延し始めるのを、確かに彼は感じたのである。
それを満足そうに見回し、あくまで人間の中での善性を発揮したトラメルは……ひたと、彼を見た。
「……っ!?」
茶色の瞳が細められる。体を揺らした彼に、トラメルはにこやかに笑いかける。
誰を見ているのか、家畜や吸血鬼が探す前に、トラメルは彼から視線を外した。
「で、どうやってこの国を救おうとしているかっていうとね。外の世界の人たちと協力して、吸血鬼を囲んで叩こうとしてる……な、わけないんだよこの愚民どもが」
トラメルは呆れたような視線を、家畜達に送った。
「王国は、他の国に見捨てられたんだよ。俺たち王国民は吸血鬼の生贄。まあ、この家畜ライフから解放されることはないだろうね。あ、これに関しては情報源がちゃんとしてるよ。ね、お義兄様?」
トラメルがナザルの方を振り向けば、ナザルもそれに頷いた。
希望の次は、絶望だ。
彼にはトラメルがわからなかった。この国の王を自死に至らせた事実を告げて、トラメルさんは何をしたいんだ? 俺が感じた、人間の中での善性は?
頭の中がはてなマークでいっぱいになる。周りの吸血鬼たちも、どこか納得できないような顔をしている。上げて落とすやり方をされた家畜たちは、今にも死にかねないような顔をして、顔を真っ赤にしている……真っ赤?
「人間ってさ、自分が弱いってことを自覚してるんだよ。だから、どんなに理不尽な扱いをされても、強い者には逆らおうとしない」
トラメルには、家畜たちが顔を真っ赤に……怒っている理由がわかっているらしい。
「つまり、誰に牙を向ければいいかーーわかるよな?」
……割れんばかりの拍手が響いた。
彼にはわけがわからなかった。なぜ、同じ人間に見捨てられたことを知らされて、喝采を向けるのか。
トラメルはニヤッと笑って、やっぱり彼を見た。
「まさか、私の話をそう使われるとはね」
ナザルお義兄様の笑顔は、最後まで崩せなかった。それにちょっとした悔しさを感じながら、トラメルはピースサインをした。
その瞬間、体を押さえつけられた。ひたりと首筋に冷たいものが当てられる。これからトラメルを殺さんとする、処刑人の刃である。
「トラちゃん」
間延びしていないレーテの声。
「考え直して」
トラメルは首を横に振った。じりりとした痛みが、後ろ首に走った。レーテが息を呑むのがわかった。
「レーテ、言いたいことがあるんだ」
「……なぁに?」
「眷属なんて、糞食らえだ! ばーか!」
刃が離れて、それから勢いよく振り下ろされた。飛び散る鮮血が、トラメルには見えた。その鮮血に負けない、深い赤も。
「……取引しましょ、トラメル」
黒髪の吸血鬼を連れている彼女は、処刑人の斧をばきりと砕いた。ばらばらと落ちていく塊を、トラメルは目で追った。
やっぱりこいつ、頭おかしい。
銀髪の少女は、返り血まみれのご尊顔で、不敵に笑って言った。
「助けて欲しければ、私のお願いを聞きなさい」




