ペンすら執れない人間が
アルダラは、大統領執務室で、一人、溜め息を吐いた。
国の命運をかけて派遣した二人が、失踪した。
一人は、レアード・ジェイムズ軍部大臣付き秘書官。アルダラと共に、最初から国の統治へとひた走っていた男。
そしてもう一人は、ヴァレル・テッド陸軍参謀総長。旧政権の“お飾り”を殺した時から、文字通り、アルダラの手足となって、ソドニアの国際デビューの舞台を整えてくれた。
派遣した二人は、アルダラが最も信用する人間だった。
デスクに積み上がっている書類。それと、自分の手を見比べて、アルダラは嘆く。
「頼むよ、帰ってきてくれよ二人ともぉ。誰がこの書類の山、片付けるんだよぉ」
情けない声が出る。書類仕事を二人に丸投げしてきた大統領は、二人のいない今、まさに“お飾り”と化していた。
「あ〜、アイツから受けた傷が痛くてたまんねえよオイ。仕事なんて無理だわぁ」
誰もいないのを良いことに、弱音を吐き続ける。アルダラは、右手をぐ、ぱ、と閉じては開いた。
「剣なら持てるんだけどなぁ。ペンは無理だわぁ」
こんなことを言うと、決まって、愛国心の強いヴァレルに睨まれ、アルダラの性質を知っている旧友レアードは苦笑いして。二人で机の上の書類を減らしてくれたものである。
……アルダラの右手のひらには、真一文字の傷がある。
それは、“お飾り”を殺す時につけられた傷だ。ちなみに、“お飾り”というのは、旧政権の指導者である小さな男児だった。
“お飾り”は、アルダラに首を絞められながら、持っていた剣をアルダラの顔目掛けて振り下ろしてきた。もちろんそんなのでは死なないが、これは、咄嗟に顔を庇ってできた傷である。
受けた時はそうでもなかったが、傷は不思議と消えず、とうとう、肉が盛り上がって、ペンを持った時に痛みを持つようになってしまった。それで、アルダラは書類仕事を二人に任せる口実を得たのである。
“お飾り”は、死ぬ前にどこか遠くを見て、「これは呪いだ」と言っていたが、とんでもない、書類仕事が嫌いなアルダラにとっては、祝福である。
勿論、いざという時、たとえば、剣を執らなければいけない時には、痛みになんて構っていられない。そのために、執務室の壁には、アルダラが将軍だった頃に使っていた剣が飾ってある。
アルダラは、仕事をしない言い訳をあげ連ねていたが、観念して、ペンを持ち始めた。硬くこわばった皮膚が曲げ伸ばしされて悲鳴を上げる。
「『仲良し同盟』とやらに連絡とってみるか? 吸血鬼に筒抜けだろうけど」
書類仕事をしようと思ったのに、アルダラがし始めたことは、意味のない落書きをすることだった。久しぶりに文字を書くのだ。ぐるぐるとモヤのような落書きを描きながら、頭を悩ます。
レアードとヴァレルの失踪。それには二つの可能性がある。吸血鬼に殺されたか……レッサリアに殺されたか、だ。
どちらも最悪だ。確認の手段がなく、まさに、ヴァレルの言っていた“不透明”の状態だった。
そう、あの大胆な策……『仲良し同盟』の議長とやらに、レッサリアの失踪した王子の名前を名乗らせる起死回生の策は、ヴァレルの提案だった。
レアードは、はじめ、難しそうな顔をしていたが、国内のレッサリア派が多くなるにつれて、渋々頷いた。
レッサリア派とは、読んで字のごとく。レッサリアに尻尾を振って属国になろうという勢力のことである。大体、アルダラのことが気に入らない人間たちだ。軍事暫定政権の時代に大体殺してやったが、しぶとく生き残っていたりする。いや、気のせいか、増えているような……。
上手くすれば、レッサリアの鼻を明かしてやることができたのだが、そうそう、上手くはいかないようだ。上手くいかないどころか、アルダラの手駒は無くなってしまった。
ソドニアの賭けは失敗に終わってしまったわけである。
「しゃーねえ、また軍事政権に戻るかぁ」
アルダラは、がしがしと、赤錆色の髪を掻いた。戦場にいた頃は埃と脂でぎっとぎとだったのに、今は無理して毎日風呂に入っているせいで、さらさらと手触りが良い。人間的にはそれが正解なんだろうが、アルダラ的には不正解だ。
「君子は豹変す、って言うもんな。柔軟さがリーダーには求められるってわけよ」
うんうんと、アルダラは目の前の書類から逃避しながらそう思った。もはや、ペンすら持っていない。腕組みをしながら頷いた。
「……ん」
その時である。
きい、と。ノックもなしに、扉が開かれた。アルダラは、机から立ち上がり、最初は訝しんだ顔をしていたが、彼の顔を見るなり明るい表情になった。
部屋に入ってきたのは、ソドニア共和国高官の制服を身に纏った男。アルダラの手足となり働いていた、ヴァレルである。
「おお、帰ったか、ヴァレ……ル……」
見知った人間に、最近見なかった見知った色を見留めて、アルダラは、再度険しい表情になる。
頼れる部下の制服には、まだ乾いていない血の跡がついていた。ヴァレルが怪我をしている様子はない。とすると、それは、返り血である。
「どうされましたか、大統領」
ヴァレルは、アルダラの視線を気にする風もなく、堂々と近付いてくる。さしものアルダラも気付いていた。
ヴァレルが帰ってきたっていうのに、大統領官邸は、恐ろしいほど静かだ。
それが意味することは、ただ一つ。
「他の連中は?」
「殺しました」
端的な返事。
「あー、そう」
アルダラは、ヴァレルから視線を離さずに、壁に飾ってある剣を取った。ヴァレルもまた、腰に佩いていた剣を抜いた。よく手入れのされた剣だ。だが、この政権下では見たことがない。
アルダラは、目を細めた。
「お前、どこに行ってた?」
ヴァレルは答えない。一歩、また一歩と、間合いを詰めてくる。アルダラは、凶悪な笑みを浮かべる。ヴァレルは、彼にしてはわかりやすい、複雑そうな表情をする。まるで、その剣を使うことを嫌がっているかのような? いや、アレは、剣というよりは、王国で発掘された……、
アルダラの視線が、“刀”に注がれていたことに気付いたヴァレルが、「さすがですね」と、いつもの調子で誉めてくる。
血と脂で汚れた刀を一振り。
「祖国を愛する私にとって、これを使うことは屈辱です。が、亡きアロウザ様に敬意を表し、これを使います」
アルダラは噴き出しそうになった。お前がそれを言うのか!
「なんだ、お前レッサリアの犬のくせに、あの“お飾り”を尊敬してたのか? お前が俺に“お飾り”を売った癖に!?」
「いえ、今になって尊敬したというだけです。アロウザ様は我が国にとっては役立たずでしたが、貴方と違って、努力を惜しまなかった。その剣は、体格差も実力差もある貴方に届いたのです」
ヴァレルは、手のひらの痛みを言い訳にして書類仕事から逃げようとするアルダラを睨んだ時そのままの目をしていた。ああ、あれは、呆れというより、侮蔑だったのだ。
アルダラは大声で笑った。ソドニア陸軍の将軍を務めていた人間に、ただのスパイが。
「勝てると思ってるのか?」
「今は思っています。昔は、そうではありませんでしたが」
「じゃあ、訂正させてやるよ。レッサリアにお前の首を送ってやる」
アルダラは、机に飛び乗った。瞬時に接敵。距離を詰めることは、自分よりリーチの長い得物を持っている人間には有効な手である。一度目は刃で防がれるが、それを掻い潜って、愛剣で心臓を抉らんとする。ヴァレルはそれを見送り、
「……ぃだっ……!」
紙一重で体を滑らせ、刀の柄で、アルダラの右手を強く打った。ビリビリとした痛みが走り、
がららん、と音がした。
アルダラは、自分が、剣を落としているのだと理解した。
冷たい刃が、咄嗟に右手首を抑えてしまったアルダラの首筋に添えられる。
「レアードは」
「殺しました」
質問は時間稼ぎにならない。
「なんで俺を殺せると思った」
「ペンすら執れない人間が、剣を執れるわけがない」
侮蔑ではなく、品定めだったということか。アルダラは、心の中で舌を巻いた。
「暴力で政権を獲ったのなら、暴力で支配すべきでした。中途半端に民主化を進めれば、貴方の剣は錆びていく。そこが狙い目だと」
主語は無かったが、アルダラは、大体想像がついた。
「全部、思い通りってわけか」
刃が首に食い込んでいる。無駄に毎日風呂に入っているせいで、皮膚が軟くなっているのだ。
そうして。
そうして、アルダラは、見た。
十にも満たない少年が、ヴァレルの背後にいるのを。あの時と同じ瞳で、アルダラのことを見ているのを。
もちろん、アルダラは、幽霊なんて信じないけれども。
「どこを見ているんですか」
「あー、そういうことね」
道理で、遠くを見てるわけだ。あの“お飾り”が見てたのは、あの場にいた、自分を売った人間だったというわけか。そういや、お飾りを殺す時にいたっけ、この男。
アルダラは笑った。そうか、そうか!
それでは、“お飾り”に敬意を表して、俺もそうやって逝こうか。
首筋から血が伝う感触を味わいながら、アルダラは、凄絶に笑った。
「これは、呪いだよ」
お前たちレッサリアを呪う、滅びゆく国からの呪いだ。
かくして、ソドニア共和国は、短期間で二度も、指導者の死を迎えたわけである。
正直、周辺各国は、「まーた内輪揉めか」と呆れていた。オオカミ少年的な何かである。軍事政権は、あまり国際的に信用がないのだ。
そして、面白がってこうも言った。それは、アルダラに殺された、幼き指導者のルーツに絡めたものである。
「呪いだよ呪い。呪術師の生き残りの怨念が、あの大統領に降りかかったのさ!」




