人生が、貴方に
死者と生者のバランスが難しい
ソドニアに関する、嫌な予感が拭えない。トラメルは、一心不乱に窓を拭いた。
「トラメル」
窓が開いて、トラメルは、作業を一旦中止した。
「何ですか?」
「レモンを少しくれ」
「酸味派に転向したんですか? カレーを裏切って」
「そんなところだ」
この人は、嘘をつく時雑になる。そんなんで良いのだろうかと思いながら、トラメルは、バケツの中に入ったパルマヤ産のレモンをカレー好きの人にあげた。そして。
「あっ、歩いてる! 歩いてますよドクター! 絶対安静の患者が歩いてますよぉおおお!!」
ベッドから床に足をつけたカレー好きの人をその辺にいるだろうドクター・恋愛脳にバカでかい声でチクってやった。「うおおおお」とすぐにドクター・恋愛脳が飛んできて、カレー好きの人の背中に腕を回して押さえつける。物理的ドクターストップである。
「腸が千切れてるやつが歩こうとするんじゃない! 脳みそまでカレーに毒されてるのか!?」
「頑張れドクター! いけぇ!」
古の競技、プロレスを観戦するような気持ちで、トラメルはドクター・恋愛脳を応援するが、悲しいかな、レッサリアの草は、腸が千切れていても優秀なので、形勢逆転。すぐにドクター・恋愛脳を床に投げてしまった。
トラメルは、拳を握って、窓の桟を叩いた。凸凹してるので地味に痛い。
「くそっ……ドクターは腕力に劣り、メスとかアイテムがないと攻撃力が半減するんだ……!」
「勝手に、人の設定をつくるな……」
か細い声で、床に這いつくばったままトラメルに抗議するドクター。たぶん、肺が一時的にイっている。カレー好きの人は容赦がない。
そのカレー好きの人は、トラメルからもらったレモンをぽんぽんと空中に放り投げてはキャッチするという余裕そうな態度。部屋を出て行こうとして、立ち止まる。
なぜならば。
「なんですか、騒がし……ほんとに何ですかこの状況」
次の瞬間、ヤボクが、病室のドアを開けて入ってきて、この惨状に目を剥いた。おそらく、カレー好きの人は、その超直感的な何かで、彼の入室を予期していたのだろう。
ヤボクは目線を上げ。
「なんですかこれ」
「なんでヤボク君は俺を見て言うの」
「だいたいこういうのはトラメルさんだって決まってるので」
「くそう、反論のしようがない」
そこで、トラメルは教えてやった。病人であるカレー好きの人が歩いて行こうとしたので、ドクター・恋愛脳にチクってやったらドクターが反撃を喰らったことを。
ヤボクは、ジト目だった。
「やっぱりトラメルさんじゃないですか、原因」
「俺は手を汚してないからね」
「で? カレー好きさんは、レモンを持ってどこに行こうとしたんですか?」
「なに、少しな」
カレー好きの人は、ヤボクを手招きし。長い耳に、こそこそ話をする。ちなみに、未だドクター・恋愛脳は床に伸びていた。貴重なお医者さんが、なぜこんなことに!
カレー好きの人の話を聞いていたヤボクは、ふんふんと頷いて、トラメルを見た後。
「それだったら、俺も賛成です。善は急げ、です。早速行きましょう!」
そう言って、ヤボクが、カレー好きの人を背負った。ドクターは物語に出てくるゾンビのように手を伸ばした。
「ま、待て……患者を病室の外に連れて行くのは……」
「ちょっとした気分転換です。大丈夫、ドクターに教えてもらった通り、腸が千切れない速度で走りますから!」
言うだけ言って、カレー好きの人を背負ったまま、ヤボクは病室の外に出てしまう。ぐりん、とそれこそゾンビみたいに、ドクター・恋愛脳がトラメルの方を見る。
「頼む……トラメル……患者を、病室に連れ戻してくれぇ。あいつ、絶対許さない、二度とベッドから出られないように……臓器を切り刻んでやる……」
トラメルは、笑顔で窓を閉めた。
「ふぅーっ」
しばらくして、レモンの力を借りた窓は、多少の水垢を残しつつも、見られるようにはなった。レッサリアにいる時、お母さんの部屋の窓もこうやって綺麗にできてたらなと思うトラメルである。そうしたら、あの白い花もよく見えただろうに。
「おつかれ〜」
額の汗を拭って、バケツの中のぐちゃぐちゃになったレモンを労っていると。
「トラメル」
今度は、病室ではなく、本当に近くから声が聞こえた。ぶっちゃけ走ってくる足音は聞こえていたのだが、関わらんとこと思っていたのである。
「トラメル、おい。さっきはよくも売ってくれたな」
頭上から声がする。傘を差したヤボクにおぶられながら、カレー好きの人はご立腹なようだ。
「トラメルさん」
今度はヤボクの声。こっちは怒ってないようだ。トラメルは観念して、ようやくそっちの方を見て。
カラン。
冷たいそれが、鼻先に押しつけられる。氷をふんだんに使い、輪切りにされたレモンがコップに入っている。
トラメルは、きょとんとした。
「レモネード……」
「ひと仕事終えた体に効くだろう」
「そのために、作ったんですか? 病室を抜け出して? 馬鹿なんじゃないですか?」
「照れ隠しが下手だな、お前は」
トラメルのディスりは、カレー好きの人に効かなかった。
「ヤボクにも手伝ってもらった。お前が元気になるならと、協力的だったのはそのためだ」
「え、えへへ〜」
ヤボクは、ちょっとだけ視線を逸らして笑っていた。
「とにかく、トラメルさん。飲んでください、ぐいっと! 俺たちの汗と涙の結晶を!」
「汗と涙って」
誇張しすぎでは?
「実は、このレモネードを作ってる時に飲んだくれさんが厨房に侵入してきて、ワインを入れようとしてきて、軽い戦闘した後なんです」
「そ、そうなんだ」
トラメルとしたことが、そんな気の利かない答えしか出なかった。正直言ってドン引きした。何をやってるんだ。
ヤボクは、疲れたように言う。いくら吸血鬼といえども、S級との戦闘は骨が折れたようだ。
「“酒を入れてベロベロに酔わせてやれ”って。そんな騙し討ちみたいなこと。あっ、とにかく、飲んでくださいっ、味が薄くならないうちに」
「ちょ、ほっぺに押し付けるのやめっ」
ヤボクにコップを押し付けられて、トラメルは、とうとう折れた。コップに口をつけるだけで、汗が引いていくような感じがした。
こくこくと少しずつ口に入れていく。ダフィンと毒の入ってない食べ物を食べる練習をした時のように。
「……」
トラメルは、しばらく、何も言えなかった。そういえば、旧時代のことわざに、そんなのがあったなと思ったが、まさか物理的にそれをされるとは思わなかったのだ。
「おいしい」
「そうか、それは良かった」
「良かったです!」
声が震えないようにするのが精一杯だった。レーテのこと、あいつらのこと。色々あるけど、トラメルにはまだ、美味しいという感覚が残っている。
ダフィンが、遺してくれたものが。
「……おかわりある?」
カレー好きの人がドヤ顔をし、ヤボクが「良かったぁ」と明るく笑う。
「厨房にありますよ。行きましょっか。あ、飲んだくれさんが床で伸びてるけど、気にしないでください!」
どうやら、軽い戦闘とやらで、飲んだくれさんに勝利していたらしい。
ーーということはだ。
トラメルは、窓の向こうに伸びてる彼を見て、吸血鬼やべえなと改めて思った。
今日だけで、S級犯罪者が二人も倒されたことになるわけである。




