トラメル君は、忘却の川を渡れない
饐えた臭いが室内に充満していた。
「カロンはね、最初に殺したの。だって、あの子が一番、トラちゃんの悪口を言ってたものね?」
「ものね、って言われても」
絨毯の毛の数を数えていたトラメルにとって、最初の悪口以外は耳に入っていないのでノーカンである。
トラメルの肩を抱いて、レーテは窓際まで歩いていく。カーテンを、しゃっと、引いて。
「それでこれが、その時に飛び散ったカロンの血。トラちゃんのために、とっておいたんだぁ」
前衛的なアートのように。相当勢いがすごかったんだろう、カロンから飛び出た血は、窓というキャンバスを黒々と汚し、壁にまで飛沫の痕を作っていた。
「ね、トラちゃん。嬉しい? トラちゃんを悪く言ってた子達が死んで」
レーテの金の瞳は、くらやみで、爛々と輝いていた。トラメルは、レーテの瞳を見つめ返した。
「そんなわけないに決まってるでしょ。博愛主義者だよ俺は」
「ふふ、そうだったね〜」
だから私は貴方のことが好き。耳元で、息を吹き込むように囁かれ、トラメルはレーテに“人間”を感じた。
これが、吸血王ならば真顔で「死ね」と言ってくるし、ティアール公爵ならば「嘘つけ」と呆れたように言ってくれる。でも、レーテは違うのだ。人間が、混ざってるから。
「トラちゃんは博愛主義者だもんね〜。だからこれ以上、自分のせいで人が死ぬのは、見たくないよね?」
「レーテ、まだ一人目だよね? あと三人、どうやって死んだか教えて?」
レーテの脅しを、トラメルはガン無視した。レーテは少し頬を膨らませて、つん、とトラメルの首筋を爪で突いた。こうしてみると、可愛い女の子にしか思えないのに。
「カロンは衝動的に殺したから、まだ良い方だったかも。即死だったしね。その次に殺したのは、トゥーレだったよ。逃げようとしたから、後ろから抱きしめて、こうっ」
レーテのやわらかな胸が背中に当たる。なるほど、ドキドキしちゃう死に方だ。
「トゥーレはね、いっつもたくさん血を吸ってもらいたがってたの。たくさん血を吸ってもらえば、誰よりも優位に立てるって……勘違いしてたみたい。誰よりも身近な反例を、連れてきてたのにね?」
「たくさんたくさん血を吸って殺したの?」
レーテは、首を横に振った。それで、トラメルのうなじには、少しのくすぐったさが伝わった。
「ううん。吸ってなんてあげなかった。でもほら、人間って、一度に血を出しすぎるとすぐ死ぬじゃない? カロンでわかってたから、頸動脈を傷つけないように、少しずつ、穴を開けていって……」
「で、死んじゃったんだ」
「トラちゃんったら、風情がないんだからぁ」
その結果が、トラメル達の足元の絨毯なんだろう。もともと複雑な模様が織り込まれていたけれど、その模様がわからなくなるくらいに、まあるい染みがたくさんできている。
「それから、三人めのレイナーはね、ちょっと頭が良かったから、私に条件を持ち出してきたの。でもそれが、トラちゃんの良心に漬け込むものだったから、四人めのホドスに殺させちゃった」
「ホドスは、どうやって死んだの?」
「ふふ、それはね」
背中から、あたたかな胸が離れていく。トラメルと恋人繋ぎをしながら、レーテは、薄いピンクの紗がかかっているベッドへと歩いて行った。
「あなたが、お友達の中でいちばんのお気に入りって言いながら、いつもみたいに吸血してあげたの」
「急にスタンダードに戻ったんだね」
布団はかぴかぴしていて、寝心地は最悪だ。レーテは目を細めて、軽く握りしめているトラメルの手首に口付けた。少しだけ出した赤い舌で舐められる。
「うん。トラちゃんに比べて、ホドスはたくさんたくさん優秀だって言ってあげたの。顔だって整っているし、手足も長いし、目も綺麗だし、トラちゃんより肌触りが良いし、血が美味しいし、頭が良いし」
「俺、良いところないじゃん」
そう言ったトラメルを宥めるように、レーテがよしよしと、頭を撫でてくる。
「そうだよぉ。ホドスが、トラちゃんより優れてるところを言いながら、殺していったの。ふふ、ああ、でも、その頃には名前を覚えてなかったから、ずっと“貴方”呼びだったけど……なんで? って顔をしながら、ホドスは死んじゃったぁ」
トラちゃんより優れてるのに死ぬ理由なんて明らかなのにね? レーテは可愛らしく、小首を傾げてみせた。トラメルの上に乗っかるという少々危ない格好をしながら。
頭を撫でていた手は、今度は、トラメルの頬を包み込んだ。
「ぜんぶ、ぜ〜んぶ、トラちゃんのためにしたことなんだよぉ?」
「俺のためにしたっていうか、俺のせいって言いたいんだよね。レーテは」
そうやって罪悪感を植え付けて、相手を身動きできなくさせる。加害者は相手に罪を認めさせて上手く利用しようとするのだ。
だから。
だから、トラメルは、前みたいに、心の中にシアを住まわせなくちゃいけない。いつも心にシアちゃんだ。すべては自分のためにできていて、どんな逆境も自分のためのスパイスで、どんな人の死も背負っていかなくちゃいけなくて。
太陽が苦手な吸血鬼のくせに、太陽に向かって成長するような花のような意志を持たなくちゃいけなくて……太陽のような金の瞳を持つ彼女が、トラメルの表情を見て、華やかに笑った。
「だから、トラちゃんが好きよ。トラちゃんは、シアみたいに生きられないから」
トラメルの胸の裡を透かしたような言葉。月の光が、窓から差し込んできて、青白く見えるレーテの肌はまるで死人のよう。いや、死人って死に方によって肌の色にバリエーションがあるから一概には言えないんだけど。
などと考えないと、トラメルはやってられない。じゃないと、弱いトラメル君は、罪悪感に苛まれて潰されちゃいそうになるからだ。
あの時確かに、トラメルはシアに救われた。それは、自分とかけ離れすぎている考えを持っていたからで、人が海を見て自分の小ささを知るようなもので。結局、自分を変えることなんて、できやしないのだ。
「ね、トラちゃんは無価値で、なんにもないって前に言ったけど。訂正するね?」
「……?」
それはゆっくりと、トラメルの首に滑り降りてきて。てっきり親指でぐっと押されてお陀仏かと思いきや、
「なにしてんの?」
レーテは薄く微笑んでいる。トラメルの両手をとって、自分の首に触らせながら。
「トラちゃんだけが、私を好きにできるの」
夢見がちな瞳で、とろけるような表情で。自分の急所を、レーテはトラメルに曝け出していた。
「トラちゃんは、他の人に比べて無価値でなぁんにもないかもしれない。でもね、トラちゃんにしかない価値があるの。ふふ、指先、冷えてるよぉ?」
そんな価値なんて、わかりたくもなかった。それは、価値があるとは言えないからだ。無価値であることよりも生きてる価値がない。
「死にたいって顔してる。だめだよ〜、トラちゃんは、私のために生きなきゃ」
ダフィンに出会って、生きる意味を得た。ルーラーさんを動揺させるために、レーテのところにずっといても良いと思っていたのに。
……最悪だ。レーテはトラメルを、最悪の形で肯定しようとしている。
「絶対後悔するのに、この部屋に来るトラちゃんが好きよ。とっくに死んだ王子の遺志を継いで、頑張って生きようとするトラちゃんが好き。ふてぶてしい顔してるのに、案外弱いところがあるのも好き。ね、トラちゃん。この感触を覚えておいてね?」
「うん、忘れないよ。レーテ」
覚えてるもんか、ふざけるな、なんてトラメルは言えない。最悪だ。自分の中に流れる血が、「それも選択肢」と囁いてくる。
トラメルが頷くと、レーテは満足そうに、トラメルの髪を撫でた。あいつらと似た色の髪を。
まあそれはそうと、成果は得た!
一人っきりの風呂で、トラメルは湯に浸かりながら、ポジティブになった。
ーー爆弾の完成期限も知れたし、ナディクさんの身柄を安全にモフェリアに移せそうだし。
「……」
ちゃぷ、と。トラメルは、湯から両手を出した。
あの感触が、まだ残っている。
ぶるぶると、トラメルは首を横に振った。
「それにしても」
アグリの言葉が蘇る。王国民になりきって、当てずっぽうに言ってしまったけど、それは、合っていると思うのだ。
写真技術がもたらされない故に、王様は、率先して絵画に傾倒した。どうして写真技術がもたらされないかはわかっていた。だから王様は自害した。自分一人で終わらせるために。
ーー忘れちゃいけない、じゃだめだったんだ。忘れることで、罪ほろぼしをしようとした。
科学立国モフェリアと共犯で、厚顔無恥と言われてしまうこと。ヤボク君が興奮して話していた、トラメル不在時の坑道の話。
それらを総合するならば。
ーー世界が終わるきっかけは、
がららら!
戸を引く音が聞こえて、トラメルはそちらを見た。こんな時間に風呂に入るなんて、頭おかしいやつに違いない。
はたして、その均整のとれた肉体をあますことなく披露した人物は、トラメルにゆったりと微笑みかけた。
「この前は、湯上がりで逃げられちまったんでな」
「きゃぁあああっ!!」
トラメルは高い声で悲鳴をあげた。やっぱり頭おかしいルーラーさんだった!




