ダフネオドラ・スティルラントの生死
『それにしても、不気味ですね』
見舞いのエノコログサを花瓶に挿しながら(裏庭に生えていた)、シザーは病床の彼に言う。
『ルーラーさんが、こんなに交渉に乗り気だなんて』
『ああ』
主治医に隠れてこそこそとカレーパウダーをキメている彼は、実に絵面が悪かった。シザーは、そんな彼をつとめて見ないようにしながら、頑張ってシリアスを維持しようとしていた。この人は、本当に、レッサリアの草なのだろうか?
その時である。
『あっ、お前、またカレーをキメやがって! ただでさえ腸をやってるのに、消化器官に負担がかかるから止めろと言っているだろうが!』
ばたんっと音がしたかと思ったら、ドクター・恋愛脳が鬼の形相で病室に入ってきて、問答無用でカレーパウダーを取り上げた。カレー好きの人は、とても悲しそうな顔をした。
『シザー、俺の言葉はドクターに通じない。俺の苦しみと悲しみを、ドクターに伝えてくれ。そして、カレーパウダーを吸う自由を俺に』
『クソみてえなアドボカシー押し付けないでください』
『……さきほどの話の続きだかな』
これをスパイスに出来ないだろうか、と不穏なことを言いながら、花瓶を手に取り、じっとエノコログサを見つめるカレー好きの人。薄く開けた窓から入ってきた風が、エノコログサの花穂を、ゆらゆらと揺らした。
『アレは』
花瓶を机に戻したカレー好きの人は、渋面を作っていた。
『アレはな、媚びるのが楽しいんだよ。だから、乗り気なんだ』
目的語はなかったけれど、そのときのシザーは、なんとなーくその意味がわかった。なるほど、ルーラーさんは、今めちゃくちゃ人生を楽しんでいる。楽しんでいるからこそ、手持ちのカードを惜しげもなく切っている、というわけだ。
そのカードの一枚が、いま、アグリ女史を冷たい怒りへと急き立てている一人の男。名をデルフィン・パールトゥスという。
彼は、かつてモフェリアを追放され、今はレッサリアの技術顧問になっている。つまり、くだんの爆弾の開発責任者。彼の存在をモフェリアに知らせることは、ぶっちゃけ、故国への裏切り行為なのだが……それはリカバーできることなので、シザーは特に口を挟まない。
「ああ。デルフィン・パールトゥスは、確かに、王国にいるよ」
思いっきり、王国に罪をなすりつければいい話なのであるから。ここは、シザーも想定内。顔色変えずに嘘を言ったルーラーさんは、「だが、アンタの言っていることはおかしいな」と、今度は片眉を上げてせせら笑う。
「デルフィンは、国を追放されたと言っていた。なのに、アンタはデルフィンのことを、“裏切り者”と言った」
「あ、たしかに!」
ぽん、と手を打ったのは、それまで黙って話を聞いていた(デルフィンって誰? 状態だった)シアである。
「そのデルフィンさんって人からしたら、裏切り者は、モフェリアの人たちってことになるわよね?」
「逆恨みだろ逆恨み。いるんだよなぁ、追放しといて被害者面する奴ら」
爆弾魔先輩が、やれやれと肩をすくめて言うが。
「……裏切り者は、裏切り者なのです。場所を言う気がないのなら、これで交渉はおしまいです」
あんなに怒っていたのに、席を立つ仕草をするアグリ。それを手の動きだけで止めるルーラーさん。
「まあ待てよ。演技なんかしなくても、デルフィンの場所は教えてやる。一刻も早く国の恥を、殺さなければいけないんだろう?」
「……」
妙に含みのある言い方に、アグリは、下唇を噛み締めた。
……と、ここまで見て、レーテが思うことは、このアグリという少女は、交渉に向いていないということである。
事務次官に外交官。その二人が頑なに口を閉ざしていることからして、アグリの地位が高いことは確かだ。けれど、冷静さを装いながら怒りを隠しきれないといった様子は、交渉の場に相応しいものではない。
現に、アグリは、ルーラーに一方的にやられている。余裕のない表情をしているのは、援助を乞う同盟側ではなく、乞われる側のモフェリアの方だ。
ーーだけど、あの人間は、まだ何も条件を言っていない。
何もかも、不思議な交渉だった。
レーテが大事に大事に閉じ込めているトラメルが、レーテのスパイであるルーラーを、この交渉のリーダーに指名したのが不思議。一体全体、自分を裏切っている人間をどうして信用しようというのだろうか。
そして、事前の交渉内容も不思議だった。何が欲しいかもわからない。それは、レーテに伏せているからかもしれないけれど、結局レーテが調停役として臨席するのだから、それも意味がないというか。
モフェリアに届けたのは、『デルフィン・パールトゥスの居場所を知っている』と書かれた手紙のみ。
だけど、あの人間が、ルーラーが、きゃんきゃん吠える子犬のような人間の女と、なかよくオハナシするだけだとは思えない。
レーテは、たぶん、知らずに笑っていた。
ーーあの子が、トラちゃんが。あの人間を信用しているんだから。
それは、とある感情からくる笑みである。
その様子を見ていたシザーは、内心で「こっっわ」と慄いた。一見して笑っているが、それはどす黒い笑みである。不意に見えた尖った牙で、ルーラーさんの喉元に噛み付かんばかりの。
レッサリアの草でありながら、なんとなーく苦労人ポジションに収まってしまったシザーにはわかる。ルーラーさんとレーテの関係は、トラメルが思う以上に決裂してしまったのだと。
トラメルがレーテのクイズとやらを解いて戻ってきたら、朗報として報告してやろうと、シザーは密かに思った。
ーーにしても、本題に切り込まないな。
それはそうか。優位には立っている(ように思える)が、肝心の爆弾について、言及する術がない。レーテの前でバカ真面目に「爆弾っていつ完成するの?」と訊くわけにもいかないし。
「レーテ殿下」
と、膠着したこの状況で、よりにもよって吸血鬼の調停役に話しかけたのは、アグリであった。
「デルフィン・パールトゥスを、ご存知ですか?」
「さあ? 人間の名前には、あまり、興味がないから」
「……そうなのですか」
少し肩を落とすアグリは、こう判断したのだろう。デルフィンが王国に来ていて、二年前まで生き延びていたのなら、吸血鬼が何かを知っているはず、と。
だが残念、相手は一部の人間というか、一人の人間以外に興味がない、吸血鬼のお姫様である。
「……では、ダフネオドラ殿下のことは?」
「それを聞いて、何をしたいの〜?」
レーテは答えなかった。にこにこと穏やかな笑みを浮かべて、逆に、アグリに質問した。
ダフネオドラ王子の生死は、交渉の成否を左右する。
パルマヤとの交渉でも、ダフネオドラ王子の名前を使って外交官を誘き出した。以降、交渉事には、周辺諸国を釣ることを目的に、彼の名前を使うことになっている。
よって、ここで正式に王子の死を認めてしまえば、同盟は窮地に陥るのだが。
ーーレーテが、そんなことを考えてくれるわけがない。
彼女は、現王政派の筆頭だ。同盟に不利になることは、喜んでするだろう。けれど、いま、ダフネオドラ王子の生死をぼかしたということは。
シザーは、それとなく、ルーラーさんを見た。必死に真顔を作っているシアとは対照的に、薄く笑みを浮かべている。まるで、レーテの言動を読んでいた……いや。
ーーアグリ女史の質問を読んでいた?
そうして、ルーラーさんは、口を開いた。
「ダフネオドラ・スティルラントは生きている」
「本当に、ですか?」
「ああ」
いけしゃあしゃあと、嘘を言ってのけるルーラーさん。目に見えて青ざめる、アグリの顔。
ーーどうして青ざめるんだ?
シザーには、それが不思議でならなかった。
ダフネオドラ王子は、今も生きていれば、人類の希望の星だ。実力は、レッサリアのあの方々にも匹敵することは、周辺諸国も知っての通り。吸血鬼に支配されたこの国を、大陸を解放できるのは、あの王子に他ならないはず。
シアと爆弾魔先輩も、首を捻っている。トラメルとか、ラクタとか、シャーロットとかに吹き込まれた“ダフィン像”から考えれば、生きてた方が良いのである。
それなのに。アグリ女史の反応は、まるで。
ーーダフネオドラ王子が死んでいた方が、良かったように見えるんだよなぁ。




