夜の話
静謐と呼ぶに、相応しい夜だった。
「良い夜ですね、ヴィクトリーヌ」
少年と、白馬の二人。白馬に嵌められた蹄鉄が、地面を叩く音だけが響く。
穏やかに、石畳の剥がされた土の上を進んでいた少年は、徐ろに白馬から降りた。
「お前はここで待っていて。僕は、神様に祈りを捧げてきますから」
優しく囁いた少年は、白馬の顔を撫で、そばを離れた。迷いなく、剥き出しの地面の上を進んでいき、膝が汚れることも厭わずに、跪く。
月の光が、少年の目を潤ませる。
「ああ、神様。人を弑してしまった苦しみは、どのようにすれば取り除かれるのでしょう?」
少年は、神に祈っていた。
「どうか、兄上が赦されることがありませんように。僕たちと同じ場所に、ずっといますように」
無邪気な子供が、星に願いを込めるように。かつてあったその場所で、少年は、祈りを捧げた。
「ですからどうか、貴方は引っ込んでいてくださいね。神が人間を救うなど烏滸がましい。兄上を救えるとしたら、同じ人間であるこの僕です」
月の光は、少年に陶酔を連れてきた。長いまつ毛を伏せていた少年は、次の瞬間。
金属音。
静謐な夜にふさわしくない火花が散り、少年は、ゆるりと背後を見遣る。
「なーに、ここに来ちゃってんの? ここ、国家機密よ?」
少年の短刀と、自分の長剣を噛み合わせている男は、少年の兄である。感じた気配と、白馬が反応しなかったことを考えれば、わかることだが。
少年の方から、短刀をしまう。
「王都の方だと、僕の祈りが届かない気がしまして」
悪気のない少年の言葉に、兄はふんと鼻を鳴らす。こつこつと、剣先で地面を叩いた。
「ここにカミサマが残ってたとして。俺たちの願いを聞いてくれるとは思えないんだけど?」
「それなら、彼女に祈りましょうか」
ゆうるりと。少年は、そちらの方を指差した。月明かりに照らされた、何もない土が、そこにあるだけ。それを呆れたように見る兄は、一言。
「それも、もうここには居ねえよ」
短い夏は、彼の憩いの季節だった。
身も凍える冬は、この国で最も長い季節だ。彼はその季節を最も嫌っていた。
覚醒と、微睡を繰り返しながら。彼は、陶器を優しく撫でる。からん、ころん、陶器の中に入っているそれだけが、孤独な彼の身を癒してくれた。
この陶器は、彼の大切な宝物だ。自分の命が脅かされようとも、決して、離すつもりはない。
それだけが、老いた彼の、最後の希望である。
たとえ。
窓から見える風景が、ふいに、大きく揺らいだ。微睡が、寄せては返す小さな波のように、彼を襲う。彼の脳は、あるはずのないものを映し出した。
ひたりと、窓を触る手のひら。背後に見える花の園は全て枯れ果て、落ち窪んだ目をした彼女は、彼を見つめていた。
それでもなお、美しい女性だった。奔放な方向へ跳ねる髪を束ねて、質素なドレスを着て。最後の、最後まで。
彼は、その瞬間だけは、宝物を忘れることができた。急いで窓に駆け寄って、彼女の名前を呼んだ。
聞いたはずのない、氷の割れる音が聞こえて、彼は目を見開いた。
硝子窓には、穏やかな夏の夜の庭が帰ってきていた。
からん、ころん。からん、ころん。
微睡の時間は終わる。後に残るのは、誰に対してかわからない、罪悪感だけ。
「俺が言うのもなんだけど、お母さんは、とっても美人でしたよ。あんな父親にはもったいないくらいの」
うっかり漏れ出てしまった嫌悪感に、トラメルは「しまった」と思うが、杞憂だった。なにせ、話し相手は、トラメルと同じく父親を憎むドクター・恋愛脳だからだ。
ニノンに腹を貫かれたカレー好きの人を治療することの対価として、こうして、『母親友の会』の会員同士、お母さん素晴らしい大会が開かれているわけである。
逃しちゃったコルムバ侯爵とか、せっかくマシな方向へ行こうとしていた人間と吸血鬼の関係性とか、S級犯罪者は味方なのかとか、あと。
トラメルがちらっと彼を見ると、彼は、いつものような胡散臭い笑顔を浮かべていた。
「……どうかしましたか?」
未だにルーラーさんに狙われているかわからないナディクさんのこととか色々あるけれど、トラメル君は、約束を守るので、こうしてドクターと母親話をしているというわけだ。母親話ってなんだよ。
ドクターは、普段は前髪に隠れてどんよりとした目を輝かせて、トラメルの話を前のめりになって聞いてくれた。
「わかる、わかるぞトラメル! ママは、どうしてあのクズを選んだんだろうと、僕は常々思っていたからな!」
そう思っていた果てが、母親殺しである。S級唯一の味方といえる人物が、こんなにクレージーなのはいかがなものか。
だが。
「なんか、わかる気がする……」
敗北感がトラメルを襲っていた。湖で死んでしまうまで、ずっと、トラメルは思っていた。あんな男、捨てちゃえばいいのに、と。
でも、お母さんは、あの男に用意された場所から、出て行かなかった。出て行ったとして、帰る場所なんてなかったからかもしれない。
「僕がママを殺した後、あの男は目に見えて狼狽したよ。“なんてことを!”ってね。まったく、勝手な男だったよ」
ドクターが父親を過去形で語るのは、経歴を語るあのファイルの通り。そこには、こう書かれている。“父親は不審死”。
女性しか殺さないポリシーのドクターだ。たぶん、誰かに依頼したんだろう。
トラメルもそうしてしまえば良かったのだが、なにせ、相手は一国の王様である。あと、ここだけの話めちゃくちゃ強い。半分血の繋がってるクソブラザーズは、その強さを正統に受け継いでいる。
あとは、トラメルは、ドクターと違って、まだ判断できてなかっただけ。
ドクターが、ぎらぎらした目で、両手を広げる。
「あの男が僕達に向けていたのは、偽物の愛だったんだ。ママは、最後の最後に、それに気付いた。だから、ありがとうって言ったんだよ!」
真白の花園を送ったあの男の真意を、トラメルはまだ、測りかねている。




