あらゆる意味で非効率的なやり方
トラメルの脳裏に一瞬過ぎったのは、「これ、ヤボク君を裏切り者ってことにできないかな」だった。
「これ、ヤボク君を裏切り者ってことにできないかな」
そして、実際そう言ってみた。するとヤボクは、いたく傷ついた顔をした。だが、そう言うこと自体が、ヤボクが“そう”じゃないことを示しているのである。
「シア、実はーー」
「……わかってる」
冷静な声を出したシアは、ヤボクのそばを通り抜け、一直線に、自分の従者の元ヘ向かっていく。
「シア、様……」
弱々しい声で、ニノンが言葉を発する。月の光のせいなのか、赤い瞳は少しだけ濡れているように見えた。ヤボクが空気を読んだのか、気を失っているカレー好きの人を引きずってきて、トラメルの隣に並んだ。
「トラメルさん、応急処置ってどうやってやるんですか?」
今もなお、カレー好きの人の腹からは、血が溢れ出ている。止血しないと、命に関わるかもしれない。
たぶん、人間の自分よりも、吸血鬼であるヤボクの方が速いだろう。
ーーそれに……。
ヤボクの口元を見たトラメルは、そう判断して、救援を呼ぶように頼んだ。
その間に、自分の服を脱いで、思い切り、カレー好きさんの腹の傷口に押し当てる。
「死なないでくださいよ、カレー好きの人! まだ、聞きたいことがたくさんあるんだから!! うおおお! ブルボス、カトレット! パラクラニール、ウェッタンシプヤン!!」
「ニノン」
名前を呼ばれて、ニノンは、びくりと肩を揺らした。
もうすでに、治りかけている傷を、無意識にさする。ああ、この傷が元となって、死ねたら良いのに。
「もうし、申し訳ありません、シア様……」
目の前にいる愛しい主の、静かな声が、恐ろしい。
ーー私は、馬鹿だ。
いつか、こうなることはわかっていた。あるかもわからない“太陽”を恐れて、主人を、裏切ってしまった。
ーーけれど、後悔はしない。
これが、一番効率的なやり方だった。ニノンにとって都合の良いやり方だった。“太陽”があってもなくても、シアには一切被害が及ばない。
ニノンは守りたかった。亡き吸血王に、花冠を被せたシア様を。どんな時だって、涙を見せないシア様を。
それが一番、効率的なやり方だった。
それなのに。
「ニノン、ごめんね」
シアの顔を見ることができないニノンの視界に映ったのは、地面にポトリと落ちたもの。月に照らされて、光る雫だった。ニノンが、一番見たくないと思ったものだった。
ニノンは、ゆっくりと、顔を上げた。
ーーそれなのに、どうして、シア様は泣いているんだろう。
これではまるで、ニノンのやり方が、一番非効率的なやり方のようではないか。
裏切られた悲しみ? それならどうして、自分に謝るのだろう。わけがわからない。
ーーシア様の一番の理解者は、私だと思っていたのに。
そんな自負があったからこそ、ルーラーの誘いに乗った。人間と吸血鬼、分け隔てなく仲良くなることができるシアは、自分がいなくなっても、あの優しい笑顔を保っていられる。それに。
「お前が、いれば……」
気づけば、涙を流すシアの背後を見つめていた。
男の腹を押さえながら何事かを唱えまくっていた特別な少年は、こちらの視線に気付いたようだった。
視界が歪む。目が熱くなって、じんじんとした痛みが、ニノンを襲った。ぎゅ、と目元を拭う。
「お前がいれば、私なんていらないと、思ったのに……」
突然話を振られたトラメルは戸惑った。こういう時、どういう反応をしていいか困る。
すると。
「う……!」
「あっ、腸とか色々出てるところすみませんが、助けてくださいカレー好きの人! 俺、ニノンに泣きながら睨まれてるんです!」
「死のうとしてる奴に、助けを乞うやつは、初めてだ……」
脂汗をびっしり浮かべながら、カレー好きの人は微笑んだ。そして、「だいたい聞いていたが」と続けた。
「えっ、俺の声とか聞こえてたのに無視したんですか?」
「死のうとしてる奴に、カレーの種類を唱えまくる奴がいるか……? たしかに、まだ食っていないカレーのことを思うと、力が湧いてきたが」
「それは良かったです」
「これは、演技だったはずなんだがな……おい、ニノン。お前は一つ、勘違いをしているな」
トラメルとカレー好きの人の妙なやりとりを静観していたニノンは、「勘違い……?」と呟いた。
カレー好きの人は、億劫そうに頷いた。必ずしも、生命の危機に瀕しているからではないように。
「お前がトラメルに感じてるのは……シアを託せるという頼もしさじゃない……お前が感じてるのは」
「嫉妬だよ」
ずん、と。
ニノンの胸には、深く深く、何かが突き刺さった。
「しっ、と……」
「そうだ。あのルーラーという男は、お前の嫉妬心を利用した……あたかも、お前に何かができるかのように吹き込んだ……お前のプライドを守るために」
「あ……」
綺麗な、綺麗な殻で覆っていたものにヒビが入って。中から、どろりとしたものが溢れ出る。ニノンが必死で隠していたものが。
せっかく、使命とか、後を託すとか。お為ごかしで固めていたのに。もうそれは、二度と元に戻らなかった。
そうして。
そのお為ごかしで、ニノンの中で赦されていたものは、粉々に砕け散った。
「私は、コルニクスを、殺していない……もっと、残忍な方法で、殺させた」
同族を殺させたことが、今になって、重くのしかかってきた。
コルニクスをわざと逃がしたのは、レッサリア王国の実験のためである。
すなわち、人間の作り出した“太陽”は、吸血鬼を殺すことができるか否か。
実験台が必要だった。だから、ニノンは、コルニクスを殺さないで、レッサリアへと亡命させた。もっと酷い死に方をさせるために。
「私は、シア様ではなく、お前を裏切ったのだと、そう自分に言い聞かせていた」
「それはそれでひどくない?」
「黙れ。けれど……自分の感情に虚飾を施している時点で、私の言い訳は通用しなかったんだと、そう思うよ」
ヤボクと戦っているとき、揺らぎ始めていた。目の前のカレー好きの男が言う言葉に。たしかに、二年後、この国に爆弾が落とされるのを防ぐために、先に技術者を殺してしまえば良い。人を殺すのは簡単だ。
けれど、止まれなかったのは……きっと、指摘された通り。嫉妬から派生した使命感が、邪魔していたのだろう。
「申しわけありません、シア様。それから……かたじけない、カレー好きの人」
「俺には特にないの?」
「……すまない」
トラメルが、カレー好きの人を治療しながらにたりと笑うのを見て、ニノンは頰を引き攣らせた。自覚してしまった嫉妬心が、ちくちくと刺激される。
「処罰は、如何様にも。ですが、できるならば、シア様に」
こんなことをさせるのは酷だ。けれど、ニノンは、シアに裁いてもらいたい。
せっかく自覚したのだ。最期くらい、好きに死んでも良いだろう。
ーーコルニクス。
不本意な死に方をしたであろう同族には申し訳ないが、ニノンは、大好きな主人に処罰をされたいのだ。
「最期のわがままです。お聞き届けください」
「よくわかんないんだけどさ」
「……お前は、よく私の話を茶化そうとするな」
「茶化したいわけじゃなくて、純粋な疑問。ニノンって、何で俺に嫉妬してたの?」
「は?」
そんなの、聞かなくてもわかるだろうが。
そう思い、トラメルのことを見る。トラメルは、本気でわからないという表情をしていた。
「だってさ、俺、ニノンみたいに可愛い女の子じゃないし、強くないし、嫉妬する要素なくない?」
「それは、そうだが……お前は、シア様に気に入られているし」
「ニノンだって気に入られてるじゃん」
「それは、側近として……シア様は、お前といる時が一番輝いている気がするし」
「気がするだけじゃん」
「うっ……とにかく、シア様のそばにはお前がふさわしいと、私がそう思ったのだ!」
叫んで、ニノンは思った。
ーーこれ、だいぶ無理があるな?
すっごい主観だらけな気がする。
ニノンは、トラメルのことを、穴が空くまで見た。
小汚い金髪と、光がおよそ見えない目と、あんまり格好良くない造形で、すぐ調子に乗るし、取り柄といえば血の旨さしかない男である。
「私は、どうしてこのような男に嫉妬を……?」
「普通に傷ついたけど、それが答えだよ」
トラメルは、にっこり笑っていた。
「ぶっちゃけ、ニノンが俺に嫉妬する要素って、初めからないんだよね」




