トラメル君と、違和感のしっぽ
トラメルたちが、檻の中の吸血鬼二人に接触していたことはわかっていた。
ナディクの挨拶回りと称して、何かを命令し、親睦会で仕掛けてくることは予想されていた。
だが、こうくるとは。
「お前、シアに嫌われてえの?」
本人は気付いていないだろうが、トラメルの視界には、シアが常に映り込んでいる。もちろん比喩である。配慮の意味での。
それが、シアの部下を裏切らせた上に、レーテのところに行かせるとは。とんだ畜生である。
「いや、シアも了承済みですよ。実際に脱走してるわけじゃないんで。大事なのは、同盟の認識だし」
阿鼻叫喚。さきほどまでグラスを合わせて、歩み寄ろうとしていた人間と吸血鬼の間に、目に見えて亀裂が入り始めた。これだから、人工の秩序は困る。自然のそれと比べて、なんと脆いものか。
トラメルは、そんな空気を呑み込むようにグラスを煽った。
「ぷはぁ。これは、シアと話し合った妥協点です。二人を懐柔していることを話すのは痛いけど、こうして爆弾魔先輩の意表をつけた。先輩が驚いてるってことは、これはルーラーさんにとっても想定外のことだと良いなぁ」
「なんで最後願望なんだよ」
「だって、ルーラーさんが全部話すと思います?」
真顔で言われて、反乱の言葉が出てこなかった。思わない。まったく、思わない。
こちらの様子を見て満足そうに頷いた(むかつく)トラメルは、「それで」と、空になったグラスを突きつけてきた。
「俺の味方になってくれるかどうか、聞きたいんですけど?」
「……具体的には?」
「部分的には味方になってくれるってことですか?」
ある意味で合っているし、合っていない。トラメルは、こっちが妥協点を探ろうとしていると思っているのだろうが、そうじゃない。
「えーと、そうですね、爆弾魔先輩も立場があるだろうし、派手に裏切ったらルーラーさんに始末されちゃうだろうし……ナディクさんを殺さない。この部分で味方になってくれるなら、俺は先輩を、レーテに突き出しません」
「それだけで良いのか?」
「? もしかして、ルーラーさんを人知れず爆破してくれるんですか?」
期待の眼差しで見てくるトラメルを蹴っておいた。そうじゃない。
「そうと決まったら、早速この騒動、収めてきますね!」
そう言って、険悪な雰囲気の中に歩いていくトラメル。の後ろをついていくナディク。
金魚の糞のようにトラメルにくっついている枢機卿様は、確かにルーラーの機嫌を損ねるものである。だが、確かにルーラーを有利にする存在なのである。
ーーだからな、トラメル。
欠伸をして、そちらを見遣る。満足げな黒い双眸と目があった。
ーーお前がそれを勘違いしてる限り、こっちの勝ちは決まってるんだよ。
トラメルがのんびりと爆弾魔先輩と話していたのには、わけがある。
「みんな落ち着いて。大丈夫、これは知ってたことだから」
爆弾魔先輩が素直に頷いてくれてよかった。完全にこちら側に寝返ったわけじゃないから、まだコルムバ脱走のカードは残しておかなきゃいけないけど。
「これは、わざとなんだよ。この親睦会自体が、コルムバさんを脱走させるための陽動なんだ」
爆弾魔先輩が味方になってくれなければ、トラメルは容赦なく、彼をレーテの元に送り出す気だった。
「エール共和国があんなことになっちゃったから、首輪は手に入らなかった。みんな、ちょっと怖かったんじゃない? 強い吸血鬼が、首輪もなしに檻に閉じ込められていることが」
あんなことになっちゃったエール共和国を想像して、トラメルはちょっと吐き気を覚えた。けれど、トラメルを床に押し倒して、自信満々に変なことを言ったシアちゃんを思い出してことなきを得た。
どうしてことなきを得たのか、トラメル自身もわからなかったが、ことなきを得たのである。
そのシアちゃんは、騒動の中心にいた。トラメルの話の仕方で、交渉(脅迫)が成功に終わったことをわかったらしい。トラメルの顔を見て、嬉しそうな顔をする。
それはそうか、自分が懐いている爆弾魔先輩と、敵対しなくて済んだんだから。
そんなシアなので、悩みに悩んで、トラメルは、爆弾魔先輩だけを、ルーラーさんの仲間であるのだとシアに教えた。
いちばん大事なニノンのことを隠すために、爆弾魔先輩を使ったのである。
ーーん?
なんだか違和感を感じて、トラメルは首を捻った。なんか今、大事なことがわかりかけたような。
逃げようとする違和感の尻尾をふん掴み、トラメルはぶんぶん振り回す。こういう違和感は、あとで取り返しのつかない事態を招いてしまうのである。まだ全体像は見えていないし、なんかこの尻尾、ぬるぬるしてるけど。
ーーええと、つまり、シアの目をニノンから逸らすために、爆弾魔先輩を使って。
「トラメル君?」
ーーナディクさんの暗殺が起ころうとしていることから目を逸らさせるために、コルムバさんの脱獄を使って……。
『……具体的には?』
爆弾魔先輩は、何を知りたかった?
頭では違うことを考えながら、トラメルは言葉を紡ぐ。
「だから、わざと警備を緩くして脱獄させた。コルムバさんは幹部じゃないし、それに、あの人は檻の中にいたから、重要なことは知らないんだ」
脱獄させても損はなし。むしろこれで、不確定要素が一人なくなったわけだ。
そう説明すれば、吸血鬼側は渋い顔をし、人間側は、ぎこちなく、納得したような表情をする。
これは、人間側のロジックだ。だからあと一押し。シアちゃんに、吸血鬼側のロジックを与えてもらう。
「私とコルムバ侯爵が話し合って決めたことなの。彼は一度裏切った。信用回復は難しい。だから、脱獄してもらったの」
「えっ、そうだったの?」
トラメルは渾身の知らないフリ。シアが、重々しく頷く。
「人間が、侯爵を危険視していることはわかっていたわ。だから、彼と話し合ってそうしたの。これが、一番穏便な方法だから」
大事なのは、トラメルとシアが示し合わせたわけではない、ということ。二人がそれぞれの立場から、お互いのことを考えた結果が、コルムバの脱獄だったということだ。
二人がそれぞれの代表になることで、それこそ、この騒動を穏便に収める。それが、トラメルとシアの狙いで、シアに役目を与えることで、ニノンから目を逸らすトラメルの狙い。
ずるり、ずるりと尻尾の主を引き摺り出していく。影が見えてきた。光源がいっぱいあるところの影みたいに、何重にも重なって、変な形になっている。
トラメルは、その影を一枚一枚剥がしていった。
「なぁんだ、シアも同じことを考えてたんだね」
「ええ、奇遇ね」
ふふふ、あははと笑い合いながら、トラメルは心の中で、淡々と作業を進めていた。
でも、最後の一枚が剥がせない。もうすぐ、違和感の胴体の形がわかるというのに。
「それでっ」
シアちゃんが、トラメルの首に腕を回し、ひそひそ話しかけてくる。
「うまくいったのよね、トラメル?」
「うん、少なくとも、ナディクさんを殺させないことはできそうだよ」
「ふぅん、よかったじゃない」
意外にも、シアはナディクをそんなに嫌っていなかったみたいだ。よかったよかった。
「でも、勘違いしないでよね」
トラメルの首に腕を回したまま、シアはぼそっと言った。
「完全に、あなたの味方になったわけじゃないんだからっ」
ツンデレの台詞である。銀髪美少女シア・ノウゼンちゃんは、たぶんナディクを睨んでいた。こっちからは見えないけど。
するりとトラメルの首から腕を離し、シアは、とっても上機嫌。ああ、本当によかったよかった。ニノンのことなんて、まったく知らないんだから。……。
ーー本当に、知らないんだよな?
シアの演技力は、実はすごいことをトラメルは知っている。屋上で、なんか同情引いてトラメルの血を吸おうとしていた彼女を思い出すと。
だからトラメルは、探りを入れた。
「ねえ、シア。なんか、俺に隠してることない?」
「その言葉、そっくり返したいのは私なんだけど?」
すると、シアの機嫌は急下降。しまった、下手を打った。
「あのね、私、わかってるんだから、トラメルが色々と、私に隠してること!」
「うぐっ、たとえばどんな?」
「その枢機卿とこそこそ、なんか、なんかやってることよ!」
シアちゃんの言い方はふわふわしていた。たぶん、確証がないんだろう。びしっ、とこっちを指差して、勢いだけで乗り切ろうとしているのが丸わかりだ。
だからトラメルは、その言葉を口に出して、
「なんかやってるって、具体的には?」
最後の影を、剥がした。
瞬間、顔色を変えない努力をするので精一杯だった。
ーーそうか、そうだったんだ。
「ええと、あの、ち、地図っ、あそこには地図があるでしょ!? ひ、引っ越し計画とか!」
的外れなことを言うシア。だが、トラメルもまた、的外れなことを言っていたのだ。
会場内に視線を巡らす。いない、ニノンが。
『具体的には?』
その言葉は、妥協できる範囲の設定なんかじゃなかったのだ。今のトラメルと同じ、
ーー相手が、どこまで知っているか知るための質問!
ルーラーさんが爆弾魔先輩のことを売ったのは、
ーー俺を爆弾魔先輩に繋ぎ止めるため!
全てが入れ子構造でできていた。全てが陽動でできていた。トラメルは、ナディクを殺すことが、入れ子構造の一番外側だと、信じきっていたのだ。
ーーでも、そうじゃないとしたら?
ナディクの殺害計画さえ、入れ子の中だとしたら? それさえ、陽動だとしたら。
ーー殺されるのは、
「カレーの話をしようというわけではない、か」
ぼたり、ぼたりと血が滴る。さすがは高等吸血鬼だ。目に見えないほどに、疾い。
霞む視界で笑ってやると、黒髪の吸血鬼は、赤い瞳を潤ませた、気がした。




