恋人ごっこ、友達ごっこ、これでおしまい。
最初は、気でも狂ったのかと思った。
『トラメルって名前なんだ。そいつにこれを見せてやってくれ』
あの人は、僕の持っている図鑑に、血塗れの手を叩きつけて、ぐりぐりと押し付けた。赤に染まっていく春の花、沈丁花のページ。
『きっと、あいつなら意味がわかるから』
いいえ、王子。
トラメルさんじゃなくてもわかります。王子があの人に願うことは。
だから、僕は彼にあのページを見せました。伝えるために。麻薬に侵されて平和に見える彼の日常に、終止符を打つために。彼に価値などないと錯覚させることで、僕は、トラメルさんに伝えようとしたんです。
逃げろ、って。
あっという間の一ヶ月だった。吸血王がガチ泣きする、そんなイベントがやってきた。
「綺麗だよ、レーテ」
「ふふ、ありがとう」
「なんでお前が新郎みたいな態度してんだ。新郎は僕だぞこの愚民」
まだおめかしする前のレーテの両手を握り、トラメルは精一杯のイケメン顔で囁いた。それにティアール公爵が突っ込むという構図が、トラメルの私室で繰り広げられている。
ティアール公爵が額に手を当てる。
「はぁー、結婚後もコイツと付き合わなきゃいけないとは、頭が痛くなる」
「末長くよろしくな、親友」
「勝手に自分を格上げするな。お前なんて愚民で十分だ……いや、でも、友人あたりなら、考えてやらないこともないぞ?」
「なにその要らないツンデレ。結構っス」
すげなく断れば、ティアール公爵は傷ついたような顔をした。ゲスの心は傷つきやすい。
そんなやりとりを見守っていたレーテは、トラメルの頭をよしよしと撫でた。
「寂しいとは思うけど、この部屋でお留守番していてね。すぐに帰ってくるからね」
「えぇ〜すぐって、どのくらい?」
「トラちゃんがおやつを食べてる時には帰ってくるから」
「ふーん」
それを聞いたトラメルは、懐に忍ばせておいたお手紙をティアール公爵に渡した。
「あ、そーいえばこれ書いたんだった。俺の分もスピーチ読んでください。レーテへの愛を認めてあるんで」
「お前この期に及んで参加するつもりでいたのか? びっくりだよ……」
「いちばん最後に読んでくださいね。俺みたいな家畜の分際ではそのくらいが順当でしょう」
「なんでそこでへり下るんだ、お前……」
とはいえ、心優しいゲスであるティアール公爵は、トラメルの渡した手紙をしっかりと懐にしまってくれた。トラメルはお礼を言って、深々と頭を下げた。
「ティアール公爵、どうか、レーテをよろしくお願いします」
ティアールは、ふん、と鼻を鳴らした。
「お前に言われなくてもわかってる。お前はそこでのほほんと昼飯でも食べて待っていろ」
「へーい。あ、レーテ」
「なぁに? トラちゃん」
「帰ってきたら、俺たちも結婚式挙げよっか」
そんなことを言うと、レーテはおかしそうに笑った。
「ふふっ。そうだね〜、結婚式しよっかぁ」
「な、堂々と浮気発言かレーテ!?」
「家畜の言葉を間に受けないでくださいよ公爵。比喩でしょ比喩」
「なんの比喩なんだそれは」
呆れた顔のティアール公爵と、いつも通り穏やかなレーテ。
二人を送り出す時、トラメルは笑いながら、こう言った。
「またね」
お届け係が来なくなってから、「またね」は「またね」じゃなくなった。だから、これは嘘じゃない。
じゅうぶん時間をおいてから、トラメルはそっと部屋を抜け出して、王城へと向かった。
王城の廊下を歩く。メイドはいるけれど、トラメルに近寄ってこない。なぜならレーテがそう言い含めているから。
寂しさなんて感じなかった。トラメルは、いつものようにふらふらと歩くふりをしながら、目的の部屋へとたどり着いた。
そこは、ティアール公爵の泊まっていた部屋である。
もう用がないその部屋は空室になっている。
ティアール公爵やレーテは教えてくれなかったが、トラメルは知っていた。そここそが、地下牢への入り口なのだと。
誰もいない部屋に侵入し、壁のスイッチを押す。床にぽっかり穴が空いて、下へと続く階段が現れる。
そこは、トラメルとダフィンの秘密基地への入り口でもあった。
吸血鬼の皆さんは知らないだろう。地下牢は、本当はもう役目を終えている。錆びた鉄格子は、ちょっとした衝撃を与えれば、すぐにひしゃげてしまうのだ。
階段を下り終えると、呪詛が聞こえた。
ちょっとびっくりしながら耳を澄ませる。
「レーテ死ね死ね死ね死ね」
「こっわ……」
「ついでにオリバーも死ね。私にこんな境遇を強いている奴らみんな死ね」
オリバーって誰だっけと考えれば、すぐにティアール公爵のことだとわかった。そして、その声の主もまた丸わかりなのである。
膝を抱えて、銀髪の吸血鬼……シアは、ぶつぶつと呟いていた。その首には鎖付きの首輪。残念ながらというか幸運にもというか、鉄格子に触れることは叶わなそうだ。
トラメルは、「おーい」と声をかける。
「あの美味しい血が飲みたいよぉ、あっ気のせいかな。なんかそんな匂いがしてきた」
「おーいってば」
「トラメル・ヴィエスタが何か言ってる……って、ええ!?」
「気付くのが遅い」
そう言いながらトラメルは、適当な二本の鉄格子に力を入れて捻じ曲げた。うん。やはり、少しずつだが間隔が空いている。
「な、なんでここを知って……結婚式は?」
焦った様子のシアに、トラメルは笑った。
「家畜はお留守番なんだよ」
「なんで私を助けてんのよ」
「そりゃ、恩を売りつけるために決まってる。なあシアちゃん。助けて欲しければ、俺の願いを聞いてくれよ」
「下衆が! 私の体目当てってわけ。良いわよ、じっくり堪能しなさい」
「違うわ」
なにやらすごい方向につっ走っていったシアの妄想を否定して、トラメルは「いや、違くないか」と思い直す。
「俺は家畜ライフを卒業して、あんたの言う通りに酒池肉林を目指そうと思ってんだ。力を貸してくれよ」
「じゃ、じゃあ吸血王を殺していいのね?」
嬉しそうなシアの声に、トラメルは首を振る。
「いいや、違う。このまま逃げるんだ」
「はあ?」
「言うこと聞かないなら出してやんない。俺は穏便に逃げたいの。さて、どーする?」
しばらく考えていたようだったシアは、なぜかトラメルをじっと見て、それから空気を嗅いで恍惚とした顔をした後、ぼそりとつぶやいた。
「……わ」
「え? なんて?」
「わかったわって言ったの! 早く出しなさいよ!」
「はいはい」
トラメルは手に力を入れて、鉄格子を広げていく。あと少し、あと少し……
「やっぱり、君は有罪だね」
「え?」
耳元で囁かれた声に、一瞬時が止まった。
「あら?」
披露宴が始まって、レーテは気付いた。
十字架を外された教会を埋め尽くす人々の中に、見知った顔が見当たらない。
「一体、どこに……」
「残念だよ家畜くん。レーテは君を気に入っていたのにね」
右腕を後ろに捻りあげられ、トラメルは苦悶の声を漏らした。
「私たちと同じになれる機会を捨ててまで、沈丁花の方を取るとは。やはり人間は愚かだね。救われない」
「なんでここにいるんですか、ナザルお義兄様」
「こちらの方が面白そうだから」
トラメルはわかりやすく舌打ちした。それにナザルはくすりと笑う。
「シア・ノウゼンを一度地下牢に戻したのは、彼女との交渉を有利に進めるためなんだろう?」
「せーかい。頭おかしい女の頭を冷やそうと思ったんですよ」
「私頭おかしくないもん!」
その場にそぐわず、ぷんすか怒るシアは、鎖を伸び切らせて、鉄格子のすぐ前まで来ていた。それにゆるりと片手を振り、ナザルは余裕の態度。
「はいはい、君の相手はこの後ね。私は負け犬くんをレーテの前に突き出して、どうするか聞かなければならないから」
心底楽しそうなお義兄様。トラメルは、「うげえ」と舌を出した。
最悪死ぬか殺されるか絶望して自殺するか……全部死じゃん。
真っ暗な未来を想像して、トラメルは「でもまあいっか」と思ったりした。一足お先に行ってるのも、いいかもしれない……そんなことを考えていたら。
「むふふ、私にもツキが回ってきたようね!」
おバカなシアちゃんがドヤ顔をし始めた。お義兄様に右腕を捻りあげられているトラメルは、シアの瞳が、捻じ曲げられた鉄格子に向けられているのに気付いた。
シアがそこから出るには幅が足りない。それならば?
「逆転の発想よ、トラメル・ヴィエスタ。生き残りたいなら、未来永劫私に血をよこしなさい」
「やっぱこの子頭おかしいですよお義兄様」
そう、逆転の発想だ。トラメルには、その意味が理解できた。
捻じ曲げた鉄格子の間に、左上半身を突っ込む。
「もう、全部吸っちゃってくれ!!」
精一杯に腕を伸ばす。シアに届くように!
シアは嬉しそうにトラメルの左腕に牙を突き立てて、一気に吸い上げた。
「一体、なにを」
困惑するナザルに、トラメルはふらつきながら言った。
「俺もわかんないです。けど」
一つのことだけはわかっていた。頭のおかしいシアちゃんが、なぜトラメルだけにクーデターの計画を打ち明けたのか。それはたぶん、本当に、勝算があってのことなのだ。
鉄格子が吹き飛んで、首輪を外したシアが、そこに立っていた。くらくらする頭で、トラメルは精一杯皮肉げな笑みを浮かべる。
「あんたが負け犬ってことはわかりますよ、お義兄様」




