51,帰国
その昔、叔母が言っていた。
好きな人であっても無理強いされたら断っていいのよ。嫌なら嫌と言いなさい、流されてはダメ。
NOと言える日本人の心を育て上げたのは、若い頃にバリキャリウーマンと称された彼女と言っても過言ではない。
近すぎるあまりピントがずれても伝わってくる眼前の美貌を捉えながら、そんなことを思い出した。
彼の部屋を訪ねて話をしていたはずだった。先程ソファに押し倒されたときも頻度はともかく触れるだけのキスであったし、すぐに解放された。起き上がる際に若干の違和感を覚えたが私の気のせいだろう。
けれど現在。未知の感覚と感情に半ばパニックになっていた。
何度も触れ合う唇が熱い。柔らかい。脳が焼き切れそう。さっきの穏やかさはどこへ。
だが好きな人であっても無理強いは……嫌だと……いや…………嫌ではないな?
心臓と発汗機能がお逝かれ遊ばしたのではないかと思うほどの状態ではあるが、けして嫌ではない。むしろ触りたいとすら思う。物理的に腕を塞がれているので自分から手を伸ばすことはできないが。えっいつの間に拘束されていたんだ気づかなかった。
力が篭って下手に傷つけてしまわないよう、翻弄する動きに必死でついていこうとする。性急なのか丁寧なのかもはやなにも分からない。ここはどこ? 私は誰? 異世界の聖女だよ。よし正常。
自分のものではない熱に触れるたび境界と思考が解けていくようだった。元より深く考えるのが苦手な聖女は早々に結論を出した。
嫌ではない、つまり問題はない。気のすむまでどうぞ流してください。……いき、息、息はさせてくれ!
軽く唇を噛んで抵抗を示せば触れる寸前の距離で止まる。離れる際に舐め上げられて背筋に痺れが走った。
エッッロ。
こちらを射抜くような熱のこもった瞳に、全力疾走した後のような呼吸はおさまるどころか悪化する一方。荒い息が自分のものだけではないと気づけばもう無理だった。嫌ではないけど無理だった。
腰って本当に砕けるんだ。齢二十にして身をもって知った。
正直なところ、美しすぎる青年にひっついて癒されているうちに神聖な存在なのではと思い始めたことは認める。
優しいし、思いやり半端ないし、優しいし。とにかく聖女第一の彼の傍はなによりも安心できる場所だった。パーソナルスペースが若干狭まっていたことも認めよう。
これまでの人生で誰かに欲を向けられたことなどなかったのだ。彼に出会うまでは。
「うわあああわわわ」
「クッションいる?」
「いる!」
突然奇声を上げた聖女にも動じない侍女が差し出したそれに顔を埋める。
思い出しては身悶える私に最初は狼狽えていたエリーも、理由を察して冷静に対処するようになった。
クッションを顔に当てて奇声を防ぎ、深呼吸して落ち着く。途中からリラックス効果のあるアロマを染み込ませるとはなんてできる侍女だ。
王国の自室にて聖女は羞恥の発作に悩んでいた。そう、あれからすでにひと月ほど経っていた。
二ヶ月と少し滞在したヴァプニー公国を出て通常の帰路を歩むこと三週間。聖女のリハビリと称した魔法の行使で早めの帰国となった。
事後処理でゴタゴタとしていた周りも一週間経てば落ち着き始め、その間、国王様や宰相閣下に呼び出される以外は休みをもらっていた聖女は先程のように情緒不安定に陥っていた。
仕事を、仕事をくれ! 思い出し身悶えをしなくて済むほどの仕事を!
忙しい魔法士たちの代わりに書類仕事をお願いできるならと宰相に言われた。ごめんなさいと素直に引き下がった。
教会の方々も現在は多忙でお邪魔などできなかった。なにせそちらの原因も私だ。
「月の終わりには式典があるのだから、カナメも暇じゃないのよ」
「はい」
ようやっと落ち着いた私は起き上がり、先程まで眺めていた分厚い紙の束を手にする。本日用意されたそれは物理的にも心理的にも重い。
この世界へ来て二年弱。家族ができることを喜びはしたが、結婚という実感はまだ湧かない。あちらでは今も大学へ通っているはずの年齢だ。晩婚化の弊害。
王国はすっかり暖かい季節になっていた。予定より二ヶ月遅れとなった挙式は、聖女様が隣国近辺へ魔獣討伐に行っていたからということになっている。
噂の吹聴に協力してくれたのは以前魔獣討伐でお世話になった辺境伯だ。
あらゆる手配は公国へ向かう前に済ませているし、留守の間も担当の方々が準備を進めてくれていた。主に国教会が指揮を取るので、忙しいのはそのためだ。
予定外の出来事が重なりはしたが残りは事前調整程度である。問題は私の脳みそであった。
「挨拶回りが……あまりに細かい……」
詰め込んだはずの王国貴族はうっすら消えかけている。覚え直し、さらに情報が付け加えられたそれを式典後の夜会までには把握しておかなければならない。
「旦那様にお任せしたら?」
王妃様にも無理はするなと言われた。
だが、ルーフレッド殿下の言葉に少々思うところがあった。私がしなければならないこと。苦手な暗記はその第一歩だ。
「どうしても間に合わない時だけ頼らせてもらうよ……」
結構弱気だった。
「おかえりなさい」
玄関ホールで帰宅した青年を迎える。ここ一週間ほどの日課だが、ただいまの挨拶と共に抱き寄せられて頬にキスまでがセットである。
一瞬身構えるように固まってしまう私すら満足そうにしている。意識されている方が嬉しいと言われて複雑だった。
それにしても、今日はいつにも増してご機嫌のようだ。
「なにか良いことでもありましたか?」
「明日は休みだからな」
帰国してからずっと忙しかったため、留守中に届いていた荷物を開けるのが楽しみなのだそうだ。
え、なにそれ可愛いが過ぎる。
通販で欲しいものが届いてテンションが上がる気持ちは理解できる。デイヴ様でもそういうことがあるんだなぁ。幸せそうな様子にこちらも笑顔が移った。翌日赤面することになるとは知らぬまま。
いつものように朝食を共に食べ、腹ごなしした後は居間で暗記の続きをしようと思っていた。デイヴ様は食後はゆっくりすると言っていたから、もしかしたら彼もいるかもしれない。足取り軽く向かった先で絶句した。
「…………!!」
「今から勉強をするのか?」
こちらに気づいた彼の表情がパッと華やいで席を勧められるが、見惚れている余裕はなかった。
それ、その、手元にあるものは、なんだか見覚えがあるのですが……!
無言の訴えに気づいた青年がそれをこちらへ向け、返事をありがとうなどとのたまう。
公国へいるとき、あちらで会えると思っていなかった彼に手紙の感謝を直接伝えたことは覚えている。だが自分が返事を送ったことはすっかり頭から抜けていた。
存在は忘れていたが内容は覚えている。手紙をもらった嬉しさで勢いのままに書いたラブレター。そう、ラブレターだ!
「カナメはいつも言葉にしてくれるが、こうして形に残るのも良いな」
そんなことを幸せそうに言われたらもう、恥ずかしいので読まないでとも捨ててほしいとも言いづらい。追い討ちをかけるように側にいた家令に、朝食後からずっとご覧になっていますと耳打ちされた。
昨日楽しみにしてたのってまさかこれなのだろうか。嘘だと言ってくれ。内心で葛藤する私が言葉にできたのはたった一言だった。
「喜んでもらえてなによりです……」
拝啓、故郷にいる叔母さん。惚れた弱みはセーフでしょうか。




