16,来訪
恋人期間もそこそこに同棲が始まった。
国王様の思惑通りまんまと用意されていた新居に婚約者と住んでいる。現金な聖女ですみません。
引っ越し当日、両者ともあまり多くない荷物は速やかに収められた。
日課と化していたお迎えはなくなったが、毎日朝食を共にして、時間が合えば登城や帰宅も一緒の馬車で顔を合わせている。
寝室はさすがに別であるし、こんなに広々とした邸宅では同棲というより同じアパートやマンションで暮らしている感覚の方が近い気もした。
だが、起き抜けにあの美貌を浴びることを考えればこれはまごう事なき同棲だ。
食堂へ向かおうと油断して部屋を出た日に限って廊下で鉢合わせし、しょぼしょぼしていた目が一瞬で覚めたが勢いよく瞼を閉じたことを思い出す。朝から刺激が強い。
結婚したら同じ寝室で大丈夫だろうか……そもそも寝付けるだろうか……?
両親は父のイビキがうるさいからと寝室を分けていたけれど、この世界では夫婦の寝室事情はどうなのだろう。
困った時のエリーだ。
「新婚早々そんなこと言ったら旦那さん泣くわよ」
先程まで魔法師団でだいぶ揉まれて来たために崩れた髪を直しながらエリーが答える。
個人の部屋や寝室はあっても寝る時は基本一緒だそうだ。これはアイマスクを用意せねばならない。
「カナメ様はデイヴィッド様と同じ寝室は嫌なんですか?」
「嫌ではないけど心臓が保つか心配で……」
目を丸くしたあと、豪快に笑い出したのは新居に越すと同時に雇い入れたマーヴィー夫人だ。
王城からついて来てくれたエリーは現在住み込みで働いているが、彼女も結婚適齢期だ。恋人とうまくいけば結婚して侍女も辞めることになるだろうと思うとだいぶ寂しい。
そんなことをふと、デイヴ様の前でこぼしたことがあった。そうして紹介されたのがこの恰幅がよく明るい夫人だった。
元は子爵令嬢だったが、王城の料理人に嫁ぎ現在は城下町で暮らしている通いのお手伝いさんである。
四十半ばですでに三人の子供を育て上げ、孫までいるというのだから驚きだ。
「初々しいですねぇ。そのうち顔を合わせるのも嫌になる夫婦だって少なくないのに」
「えっ」
なるの……だろうか? あの顔を?
「カナメは心配なさそうだけどね。もう一年以上あの顔に飽きてないでしょ」
「えへへ……」
むしろ知るほど愛しさが増すばかりである。飽きられないよう頑張るのは私の方だろう。
「今日はお帰りが早かったから、庭でゆっくりお茶でもしますか?」
「いいですね!」
庭師さんが整えてくれた庭を眺めながらのティータイムは大変な贅沢だ。想像してウキウキしてきた。
簡素だが上質なワンピースに着替え、足取り軽く庭へ向かっていると、玄関に面した階段下が騒がしいことに気づく。
デイヴ様はまだお帰りの時間ではないはず。
なにかあったのだろうかと思わず手すりから下を覗き込んで、固まった。
「カナメ様!」
溢れんばかりの笑顔をこちらに向けた麗しの妹様ともう一人、見知らぬ美女がそこにいた。
ご令嬢たちに立ち塞がるようにいた家令がなぜか頭を抱える。
もしかして、私が出てきてはいけなかったのだろうか。
「突然ごめんなさい。お兄様に何度訪問のお手紙を出しても都合がつかないと断られるものだから、クリスティーナ様に協力してもらったのです」
「先触れは出したのだけれど、まさか門前払いされそうになるとは思わなかったわ」
うふふおほほ。
目の前で美しい花が咲き誇っている。庭を眺めながらのティータイムは予定通りだけれど、こんなにも美しい花々は予定外である。
だがまだ見惚れてはいけない。
訪問のお手紙など聞いていない。
彼がシンディア様を警戒するのはなんとなく分かるけれど、先程紹介されたクリスティーナ様はたしかデイヴ様の婚約者候補であったはずだ。
なぜ門前払いに……私に会わせられない事情でもあるのだろうか。聞こうにも家令はどこかへ行ってしまった。
「先程は失礼いたしました。家長であるはずの私がなにも把握しておらず……」
「いいのです、そんな小難しいことはすべてお兄様にお任せになって。それよりもまたお会いできて嬉しいですわ」
「私もです」
こちらこそ相変わらずの美少女に、いえ、陽の下で見る美少女の新たな美しさに触れることができて感謝です。合掌。
そして向き合わねばならぬ現実がここに……。
覚悟を決めて彼女に向き合う。
「クリスティーナ様におかれましては」
「あら、そんなお顔をなさらないで」
略奪愛してごめんなさいと謝る言葉を遮られた。
いつかはこんな日が来ると思っていた。思っていたが心の準備どころか謝ることすらできないとは。
「ですが、」
「あら、デイヴィッド様からお聞きになっていませんこと?」
私、聖女様にはとても感謝していますの。
「ただでさえ家格が下で地方に勤務している恋人と、借りと利のあるフォーサイス家子息が相手では天秤にかけようもなく、どう足掻いたところで破談にできる可能性など僅かばかり。たとえ叶ったとしてもすぐさま違う相手を当てがわれるだけでしたわ」
とても嘘を言っているようには思えないし、デイヴ様からもそう聞いてはいる。いるのだけれど……。
「感謝は伝えていただきました……それでも、きちんとした手順を踏まず、突然のことでご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありませんでした」
頭を下げれば、腿の上で思った以上に力の入った拳があった。
相手の望んでいない謝罪はただの自己満足だ。
それでも、たとえ彼女の気持ちに問題はなかったとしても、礼儀を欠いたことは謝らなければならない。これは流してはいけないことだ。
顔を戻せば、見惚れるような二つの微笑み。
「分かりました。謝罪を受け入れましょう」
ただし、私の感謝も受け取ってくださいませね。
今度は私も笑顔で返事ができた。
三人でお茶を楽しんだあと、私の部屋を、というより服を見たいのだと請われた。
なんでも王城で用意してもらった服の組み合わせが見慣れないそうで、たしかに貴族のご令嬢は着ないような機能性重視の形だなと思いながら案内した。
形は町娘寄りではあるがスカートに見えるパンツだし、王城内でも着られるように上品な素材を使っていたりと、平民でも貴族でもなく聖女様スタイルと呼ばれているらしい。
なんと。たしかに最初の頃「こんな形の服ないですか?」とは聞いたけれど、完全に私向けのデザインだったのか。
流行に敏感なエリーに言及されたことはないとはいえ、悪目立ちしていないか少々心配になった。
「こちらはお兄様のお部屋かしら?」
二人をお見送りするために自室を出て階下へ進む途中、シンディア様が一室を覗き込んでいた。
たった今横にいたはずなのに驚きだ。
そちらはデイヴ様のお部屋で合っていますが、私もまだ入ったことないです。
別に入室を禁止されてはいないけれど、今までの癖なのか気づいたら私の部屋でお茶をすることが多い。エリーもいるし。
止める間もなくするりと入っていくシンディア様。
「お兄様ったら越してもう一月は経っているのにまだ荷物が片付けられていないのかしら」
なにそれ、片付け苦手なデイヴ様だと? 可愛い。
声をかけようと思わず覗き込んでしまった部屋はスッキリと片付いているように見える。
机の上だけいくつか物が重なっているようだけど、それのことだろうか。どうしよう、日本での私の部屋など絶対に見せられない。片付かないの度合いが違う。
「シンディア様、人様のお屋敷ですのよ。それに、ご兄弟とはいえあまり無断で紳士のお部屋に入るものではありません。なにが出てくるか分かりませんからね」
「はぁい」
クリスティーナ様が淑女の微笑みで爆弾を落とした。
深く考えないようにした。
「きゃっ」
「シンディア様!?」
彼女が振り返った拍子に触れた、机にあった小箱が音を立てて落ちる。
高い音がしたけれど、ご令嬢の柔肌など軽い素材であってもすぐに傷ついてしまうだろう。
駆け寄り庇っている掌を見れば赤味がかっていた。白魚のような手が!
すぐさま治癒を施す。「まるで腕を失くしたようですわね……」というクリスティーナ様の呟きは聞こえなかった。
「痛いところはございませんか?」
「胸が……」
えっと驚いて顔を合わせればうっとりとこちらを見やる美少女から瞬時に視線を剥がした。大事に至らずなによりです。
「こちらの小箱も傷などないようですわ。陶器ではなくて幸いでした」
箱を拾い上げたクリスティーナ様がそちらの無事を確認してくれる。
傾けた拍子に蓋がずれ、白いものが落ちそうになり思わず手を伸ばした。
「あら、すごい。カナメ様は反応も素早いのですね」
美人に褒められていつもならウフフと舞い上がるところだが、今の私は手にした布に釘付けだった。
僅かに覗く刺繍に見覚えがある気がした。
「お二人ともありがとうございます」
「どちらも無事でなによりですわ。さ、早く戻して出ましょう」
少々皺の寄ったそれを箱へ戻し、机に乗せたシンディア様に手を引かれて部屋を後にする。
無意識に馬車までついて行き、また会う約束をして二人と別れた。
いつの間にか戻っていた家令と共に馬車が見えなくなるまで見送っていれば、入れ違いに馬が駆けててくる。
帰宅するにはまだ少しだけ早い、というか馬車ではなく馬で帰宅した分だけいつもより早いであろうデイヴ様だった。
乗馬もお上手ですね、かっこいい。
間違えた、今度は何事だろう。
そのまま迎えれば返事と共に質問が飛んでくる。
彼女たちになにかされたり言われたりしなかったか。
なぜ訪問のお手紙に断りを? 家令が門前払いを? などと聞きたいことはあったはずなのに、二人の名前を聞いた途端に見覚えのあるようなないようなあの布が思い浮かんだ。
と同時に、あまりに未熟で恥ずかしい記憶が掘り起こされ、真っ赤になるしかなかった。
どうか思い違いであってほしい。
突然真っ赤になり黙り込む私と焦るデイヴ様、追従するように馬で駆けてきた疲労困憊気味の伝令らしき使用人で、家の前はちょっとしたパニックだった。