第一話 家事手伝いですが何か?③
「ずいぶんと時間がかかってしまった。カナコからの連絡は気にはなっていたのだが。しかし、これは何だ?・・・そういえばコータの奴、手ぶらで出かけたな。仕方がない、見物ついでに忘れ物を届けに行くとするか」
研究所の施設前のゲートから出て来たミスミは、他国でのある案件が長引き、ようやく帰国した。
ラーム川の川向うから発せられるおびただしい魔力を感じ、こんなの聞いてないぞと一言だけ呟き、青い光の粒子を残して消えた。
護る・・・か。
僕はまた過ちを繰り返すのか。
護れるものなど在りはしないのに。
自分に関わった人はすべていなくなる・・・。
それが災厄と呼ばれる僕の本当の理由。
コータの指示でイロハの治療を施される獣人の腹部から、おもむろに鉄の棒を抜き取ると、コータはべっとりと付いた棒の血を一度振り払い、左手一本で構える。
「でも、コータ君は大丈夫なの?」
心配そうな顔で問いかけるイロハに、今度は振り返った少年は笑顔で答える。
これが僕の仕事だからと。
一度大きく深呼吸をしたコータの周りにピンと張り詰めた空気が覆うのをイロハは見た気がした。
実際には見えるものでは無いのだが、目の前の少年の姿が水面に出来た波紋のように一瞬揺らぎ、そして静寂に包まれたイメージを感じ取ったからだった。
やってみるか。そう言い残して少年は消えた。
次の瞬間、鈍い打撃音と衝撃が地下フロア一帯に走り、魔物は反対側の牢屋の奥の壁にめり込んでいた。今まで魔物が居た場所にふらつきながら立っている少年は頭を二、三度左右に振る。
「やっぱり身体がついていけない」
ついていけないって?
ぽつりと呟いたコータの独り言にイロハは首を傾げる。
下級精霊といえども、すべての人類の上位種にあたる精霊の自分ですら、目で追えないほどの人知を超える所業を魅了した少年のあまりにも飄々とした仕草に思わず言葉を失うのであった。
間も無くして、壁に埋もれた魔物がゆっくりと立ち上がり、自分を軽々と突き飛ばした少年を真っ直ぐに見据える。僅か数秒の出来事が永遠に思えるような感覚の中で互いに次の一手を探り合う。
膠着して動けない彼を見てイロハの鼓動は早くなる。しかし、当の本人の思考はイロハの心配をよそに意外とサバサバしていた。
さっきの大して効いてないや、やっぱ強いわ。かと言って時間をかけるのも面倒だしな。・・・あれさえ有れば。
暫し考え辿り着いた結論を実行するコータは、対峙している魔物から僅かに視線を外した。隙と呼ばれるほどの隙では無かったが、本来動物が持ち合わせている習性を利用した行動だった。
案の定目の前の魔物はコータの作戦に嵌り、さっきのお返しとばかりに飛び掛かってくる。背後にイロハたちを背負いながら戦うことを嫌ったコータは、地下フロアの通路奥へと魔物を追い込むために取った一手であった。
渾身の一撃をタイミングよく左手の鉄棒で身体を捻りながらいなし、狙い通りに魔物を通路側へと弾いた。その反動でコータもまた反対側の通路の壁に叩きつけられていた。
「コータ君っ」
視界から消え、不安に駆られたイロハは、治療そっちのけでコータのもとに駆け寄ろうとする。
「僕は大丈夫だから。早く彼等をここから・・・」
連れ出して・・・。最後の言葉と共にコータは魔物に向け消えていった。その直後、立て続けに凄まじい衝突音が三度し、その都度起こる衝撃波が地下フロアを激しく震わせた。
自分の存在が足枷になっていることを知り、イロハもまた激しく心を揺さぶられた。
「・・・私だって、君の役に立てる」
自分の決意を声に出した銀髪の美麗な少女は、その長い髪を揺らし戦場へと立つ。
彼女の周りには虹色の光の粒子が煌めき始めていた。
「イロハっ、開放しちゃだめっー」
署員の救助を終え、姿を消したイロハを追って、轟音ひしめく地下フロアに辿り着いたカナコは、今まさに全魔力を開放する少女に向けて叫んだ。
「魔物よ鎮まりなさい。癒しの鎮魂歌。『リゼレクイエム』」
湧き上がる魔力を目の当たりにし、カナコは堪らず両手で顔を覆った。
イロハの放った虹色の粒子の束は、一直線に魔物を貫き、次第に身体全体を眩い光が覆っていく。
光属性の究極魔法のひとつである『リゼレクイエム』は、相手の付与魔法を全て無効化することが出来る唯一の魔法であった。
イロハの渾身の魔法を受けた魔物だが、効果が発動する気配は微塵もなく、少女は動揺を隠せず慌てふためく。
「効いてない?どうして?私の魔術が通用しないなんて・・・そんなの有り得ない・・・」
「当たり前だ。Ⅽランク以下の精霊の術などその程度の代物だ」
背後からいきなり声を掛けられ、心臓が飛び出る思いで跳び上がったイロハは、涙目で声の主に視線を送る。
いつもの白衣姿が妙に艶やかな、イロハたちの上司のミスミだった。
「・・・主任っ、遅いです。もう、大変だったんですからね・・・」
心の支えが到着して、ホッと胸を撫で下ろしたカナコは、溜まった鬱憤をミスミにばら撒く。
「それは悪いことをした。案件が少し長引いてな、許せ。で、状況はどうなっている?」
「はい、獣人の男性が突然署内で暴れ、そして地下に消えて暫くするといきなり魔力が増大したかと思うと、凄まじい音と衝撃が走りだし、私が来た時にはその男の姿は無く代わりにあの赤毛の魔物が居て、イロハがもう・・・」
カナコの言葉尻は曖昧さを付加し、イロハの魔力開放という真実を隠そうとする。
精霊の町中での魔力開放は厳罰に値した。
「獣人がか。やはりな、イロハの術が全く意味を成さないのも納得がいく。あの紅い四本足のバケモノはレッドフェンリル。ジンクスだ」
「ジンクス・・・?あっ、あの見ただけで不吉を呼ぶと言われる特異種のことですか?」
何かの本で読んだ程度の曖昧な知識のイロハは、首を傾げながら麗しの上司に問いかけた。
「噂ではな。強力な魔物が他の魔物を大量に喰らって、そして誕生したと言われている。しかし、あれは自然界に必然的に誕生したものではない。セイレーン軍が数の劣勢を覆すために創り出した生物兵器・・・もうひとつの災厄だ」
「・・・もうひとつの災厄?そんなの初耳です。それが本当なら聖堂院は何をしているんですか?終戦からもう百五十年も経っているんですよ」
信じられない様子のイロハたちは、ミスミの眼に哀色の光が灯っていることに気付き、事の重大さを初めて認識した。
「百五十年前から軍は戦っている。しかし・・・強すぎたのだ。人間を滅ぼすための兵器が、まさか自分たちの首を絞めることになろうとは、開発した奴も思いもしなかっただろう・・・だがな」
失笑にも近い笑みでミスミは、目の前に視線を送り言葉を続けた。
「どうして精霊派遣がBランク以上なのか、その理由をお前の身体に直接教えてやる。コータっ、今すぐイロハと仮契約しろっ。今のままではそのバケモノには勝てんぞ」
聴き慣れた声に振り向いたコータは驚きの表情を一瞬見せたが、すぐさま目の前の魔物に渾身の一撃を当て、その隙にイロハたちの元へと瞬時に戻る。
「ミスミさん、いいんですか?どうなっても知りませんよ」
「大丈夫だ。そのために私がいる。ほら、忘れ物だ」
その言葉を聞きコータは小さく頷いて、ミスミから受け取った八十センチほどの長さの黒光りする棒を身体の前に差し出した。
「イロハさん、すみません。この刀に手を当ててちょっとだけ魔力を込めて下さい」
イロハは言われたままに、白く透き通るような手で優しく触れた。
「ッ・・・」
触れた瞬間、イロハの脳裏には自分の手が刀に吸い込まれるイメージが鮮明に映し出される。
一瞬の出来事に何が起きたのかを確認するため、イロハは痺れの走った手を恐々と見た。そしてそこに有るべきものがあることに思わずホッとし、慌てて顔を上げコータに笑顔を投げかけたが、既に少年の姿は無く、再び魔物と対峙すべく移動していた。
少しだけ力をお借りします・・・その言葉を残して。
「イロハっ、魔力に集中しろ。すぐに持っていかれるぞ」
ミスミの言葉に首を傾げるイロハだが、後でその意味を全身で理解することになる。
魔物の面前で立ちはだかるコータは、何故か手を出せず再び膠着状態に陥ろうとしていた。
その姿を見てカナコがぽつりと呟く。
「・・・どうしてだろう?コータ君、刀を抜くことを躊躇っているように見えるけど」
刀を抜かないコータに向かいミスミの喝が飛ぶ。
「躊躇うなっ。護ると決めたんだろっ」
ハッとしたコータは小さく息を吐きゆっくりと抜刀した。
雪月花・・・また君を抜く日が来るとはな・・・少しだけ力を貸してくれ。
「フッ、世話の焼ける奴だ。だが、もうここは彼のフィールドだ」
不敵な笑みを見せるミスミを見詰めながら、カナコは背筋に悪寒が走るのを覚え、その傍らに立っていたイロハが途端に跪く。
「どうしたの?イロハっ」
それを見たカナコは慌ててイロハに駆け寄った。
「わ、分からない・・・急に力が・・・」
苦しそうに肩で息をするイロハは、自分の置かれている状況に惑いを隠せない。
「それが神官と契約するということだ。お前の力が今まさにコータの力となっている。しかし、無理をする必要はないぞ。魔力譲渡を断れば、力の消失は止まる。仮契約とは精霊上位の契約であっていつでも破棄することが出来る」
彼の力に・・・その言葉を聞いたイロハは自然と笑みが浮かび、片膝を付いた体勢でコータを見据えた。
圧倒的な光景にその場にいた全員が唖然とする。
戦闘の一部始終を目の当たりにしていたイロハは、自分の目を疑うほどだった。
互角と思われた両者の戦いは、少年が抜刀した時既に終わっていた。
「あの戦争の中、無秩序と言われた強大な力の奔流を容易く退ける存在がいた。神官・・・神の代行者である彼等の中でも飛び抜けていた奴の名を人々はこう呼んだ・・・月夜の災厄と」