菱形の心
カラカラと戸の開く音がする。琴丸は兄の菊丸が帰ってきたのだと胸を弾ませた。琴丸が菊丸に、おかえりと声をかけようとした、が、その言葉は発される事なく消えた。
何故なら、菊丸は自分を避けるようになっていたからだ。
原因も分からず、ただ避けられる。琴丸は疲れているだけなのだろう、そう思い、悪い方向へと思考を傾けないようにした。
琴丸はめげずに、菊丸の方へと足を進める。最近、同じくらいだった背丈が少しずつ、変化してきたような気がする。
琴丸は何も言えず、ただ菊丸の後ろをついて行く。何か、何か言わないと。そう思っていても、中々口に出すのが苦手な琴丸は、下を向いて黙ってしまった。
「…おれさ、あしたからしばらく、しゅぎょうにいく。」
沈黙を破ったのは菊丸だった。顔は見えないが、その声は何処か沈んでいるように感じられた。琴丸はそっか、と返事をしたままだ。菊丸は更に続ける。
「…琴丸も、いっしょにこいよ。」
「…そ、そんな…ぼくなんか、」
それっきり、会話が途切れてしまった。琴丸ははっと自分の言った言葉にまたしても俯いてしまった。そんな琴丸に、菊丸は少しだけ冷たく言った。
「…やったことねぇくせに…」
琴丸はうっ、と言葉をつまらせる。菊丸はそんな琴丸に気にすることなく、自室へと入ってしまった。自室と言っても琴丸と兼用で使っている部屋だが、最近は菊丸の部屋になりつつある。
「…やっぱり、ぼくと菊丸じゃ…そっか…」
弱気で何をするのも直ぐに逃げ出す。そんな自分に琴丸は呆れていた。呆れて、逃げて。その先にあるものはきっと良い未来ではないと分かっている。しかし、その状況を改善する方法は思いつかなかった。
琴丸と菊丸の母親は、病死したと聞いている。それが本当なのか、嘘なのかはどうでも良かった。自分が生きていけるのならば、それで良いのだから。
「…なさけないなぁ…ほんと、ぼく…ばかみたいだ。」
こうして月を見ながらぼそりと呟く事が、琴丸にとっては当たり前になった。現代で言えば、自傷行為にあたるのかもしれない。そうやって、自分を卑下する事が、琴丸にとっては菊丸へと精一杯の謝罪でもあるのだ。
ぼーっと月を眺めながら、琴丸は自身の髪の毛をゆっくりと手櫛でとかした。
父が以前、母のことを話していた。母は優しくて、美人。黒くて長い髪の毛。また会えるのであれば、もう一度だけ話がしたい。その時の父の目は母を求めていた。幼いながら、琴丸にとってその光景は自分を大きく変える出来事となった。
『どう?ぼく、おかあさんみたいにながくしてみた!』
ああ、そっくりだ____。その時の父の笑顔が忘れられず、何年も経った今も、髪の毛はずっと伸ばし続けている。父がそれで喜んでくれるのならば、自分はそれで良いのだから。
琴丸はふと思った。だったら、自分は菊丸に何かしてあげられたのか。いや、していない。ここ最近の菊丸の態度は悪化している。
菊丸の笑顔を自分で作れていないじゃないか___。
そう考えた琴丸は、次第に思考を悪い方向へと巡らせるようになった。
「…ぼくは、やっぱりだめなこだ…」
「駄目な奴でも役に立つ方法は幾らでもあると思うけどねェ。」
「だ、れ…?!」
はっと声のする方へ顔を向けると、何時から居たのだろうか、金髪の不思議な格好をした少年が木に座っていたのである。赤い目は月の光で輝き、この世の人とは思えない雰囲気を纏っている。
その少年は木から降りると、琴丸の方へとゆっくり向かって来た。
「ねェ、君は役に立ちたいんだろ?だったら、ボクと協力しようよ。」
ニコニコと微笑むその少年は、琴丸よりも身長がかなり大きいが、しゃがんで目線を合わせている。琴丸は背筋に何か冷たい物を感じたが、もうどうでも良くなってきていたのか、手を掴んで頷いた。
その少年の笑顔は、琴丸が手を掴んだ瞬間に消えた。少年は冷たい声で琴丸に忠告をした。
「…ボクに逆らうのは絶対許さないからね」
その声は何処か菊丸にも似たように思えたのは、琴丸の気のせいだろうか。それとも、この少年は菊丸とわざと似せていたのだろうか。それは今、分かりそうにもなかった。
「…ねぇ、おにいさん…、なまえは?」
月が淡く光り、風が琴丸の髪の毛を揺らす。少年にはその姿が、遠い昔話の姫に見えた。少年は帽子を取り、お辞儀をして琴丸に自己紹介をする。
「…ボクはアリス。君《達》の心を救う為にやって来た。宜しく、琴丸。」
琴丸は少年に連れられ、《月が最も綺麗に反射する場所》へと来た。それは鏡のように月が映り込み、その場所に月が二個あるように見える。二つの世界があるようだ。
「さァ、おいで。君を必要としている場所はここではない。」
アリスは水面に映った月に触れた。