ラインの乙女
控室の扉がコンコンとノックされ、顔にうっすらと汗をかいたスタッフが顔をのぞかせた。
「十分前でーす」
それだけを告げると、さっと扉を閉めて行ってしまった。
「ふおぉぉぉあああ~~~~ドキドキしますぅぅぅううう! 私達ちゃんと出来るでしょうかプロデューサーあぁあ! さっきから手のひらの汗が止まらないんですがぁあぁぁ!」
三人組のアイドルユニット「ラインの乙女」のリーダー階未来は、目に涙を一杯に貯めて、不安そうに俺の顔を見上げてくる。
観客の前では元気一杯なキャラクターで人気の筈が、いつもの調子はどこへやらだ。もちろん長年の付き合いなので、こんな時にどんな声をかけてあげればいいのかは分かっている。
普段はリーダーとしてユニットと観客を一番に盛り上げ、屈託のない笑顔が素敵な女の子だ。
しかしその実、自分に一番自信が無く、残り二人のメンバーに劣等感すら抱いているのが彼女なのだ。
ここ一番で突然自信を失って弱気になる癖は、日本で活躍する全アーティストの目標の一つであるこの場所「日本武道館」に辿り着いてもまだ治っていないらしい。
俺はこんな時、跪いて未来の肩に手を置き、同じ目線の高さでうるんだ瞳をしっかりと見つめて言葉をかける。
「大丈夫だ! 自信を持つんだ! 未来はたまたまこんな所に来れたわけじゃあないんだ。沢山の努力を乗り越えて、コーチやスタッフ、そしてファンに支えられて登ってきたんだろ? 自分の力を信じろ!」
「はいぃ……」
俺は未来がうなづいたと同時に零れ落ちた涙を、内ポケットから取り出したハンカチで優しく拭う。
「それに、俺が「大丈夫だ!」と言って、大丈夫じゃなかった試しがあったかい?」
未来はふるふると首を振った。
「ない……です」
「はっはっはっは! だろ?」
俺は豪快に笑い飛ばして未来の頭を優しく撫でた。未来はくすぐったそうに笑っている。 これでもう大丈夫だろう。
「全く、リーダーのアンタが弱気になってどーすんのよ。アタシ達がついてるって、何回言ってもビビってんだから」
ラインの乙女のクールキャラ担当な青沢佳子が呆れた様子でかぶりを降った。
「アフフ~、でも佳子っちだってさっきから手が震えてない~?」
三人目のメンバーでおっとりふんわり担当な御子神入間が、全く悪意の感じられない、いつもの恵比寿顔でチクリと指摘する。
佳子は両手をさっと背中に隠し、
「ふ、震えてなんかねーしっ! 武者震いだしっ!」
顔を真っ赤に染めて反論する。
……うむ、佳子の一番可愛い表情だ。
佳子はあくまでクール「キャラ」であって、ちっともクールに決まらない所が魅力だ。本人にそう言うと、ゆでだこのように顔を真っ赤にして怒り出してしまうのだが!
「アフフ~! 結局震えてるんじゃん?」
「う、うるせーよ! お前が図太過ぎんだよ! さっきからバリバリバリバリ煎餅食いやがって! 少しは緊張感を持てよ緊張感を!」
うむ、煎餅を食べるのはいいが、ライブ衣装にぽろぽろとこぼすのはやめよう。出る前にブラシで掃ってあげなくてはな。
「だってぇ、これからライブだから、しっかり食べておかないと途中でお腹鳴っちゃうもん」
「頼むからアンタの腹の生声を武道館に響かせてくれるなよ...」
「ぶっはははは~!」
二人のやり取りを聞いていると、未来が突然盛大に吹き出し、笑い始めた。
「何がおかしいんだ!」
「何がおかしいのぉ~?」
佳子と入間の二人は同時に未来の方を振り向く。それが面白かったのか、未来は更にお腹を押さえて爆笑した。
「あーはっはっはっはっ......こんな状況でそんな漫才見せられたら笑っちゃうでしょ!?」
どうやら三人とも上手いことリラックス出来たようだ。この仲の良さがこの三人の強さなのだ。俺が元気づけたりなんてする必要なかったかな?
俺はぱんぱんと手を叩いた。
「ほら! 本番までもうあと五分くらいだぞ! 急ごう! ファンの皆がお前たちを待ってるぞ!」
「「「はい!」」」
三人の返事がぴったりと揃う。
未来がバタバタと控え室を飛び出し、入間もそれに続いた。俺が二人を見送っていると、佳子がモジモジしながら俺の袖を引っ張っている事に気付いた。
「佳子? どうした?」
「アタシも......その......ゴニョゴニョ」
俺は跪いて佳子の声に耳を傾ける。さっきよりもっと顔を真っ赤にした佳子が、弱々しく言葉を繋ぐ。
「あっ、アタシも、頭を撫でてほしい......」
佳子が衣装の布地を握りしめながら、温かい吐息が感じられるほど俺の耳に口を近づけて声を絞り出す。うう、可愛い。
佳子はどんな辛い事でも自分で乗り越えてきたという自負とプライドがある。しかしそれ故に気負い安く、甘えるのが下手で、何でも一人で抱え込んでしまいがちなのだ
そんな佳子が唇を震わせながら俺に甘えてきたのだ。この瞬間を大事にしたい。
「っ......!?」
俺は佳子にきつくハグをして、それから頭を優しく撫でた。
「だ、誰がそこまでしろって......言ったのよ......」
口では文句をいっているが満足してくれたようだ。抱きしめた時には小刻みに震えていたのだが、自然体を取り戻している。それでこそ佳子だ。
俺が立ち上がろうとしたその時、突然背後から首に手が回され、柔らかくて暖かい双丘が俺の後頭部にムニュ~っと押し付けられた。
「プロデューサ~、アタシだけ励ましの言葉も頭ナデナデもハグゥ~も無しぃ~?」
「こ、こら入間! 離せ! 立ち上がれないだろ!?」
自らこんな過剰スキンシップをしてくるのは入間しかいない。
彼女からはいつも通り、何の気負いも緊張も伝わってはこない。常に今を楽しくマイペースに生きているのが御子神入間という女の子なのだ。
全く、大物で頼りになるよ。
「んじゃぁ~、私にも元気になるおまじない、してくれるぅ?」
「あぁもちろんだ。だから早く離せ。ステージに遅れるぞ!」
ようやくおっぱい枕から解放され、俺が立ち上がって振り向くと、
「隙ありィ」
俺の唇に柔らかいものが一瞬触れる。それが入間の唇だと理解するのに三秒の時間を要した。
入間の背後に立つ二人が般若の形相で俺を見つめる。いや、俺は何も悪く無いだろう!?
「んじゃねぇ♪」
舌をぺろりと出した悪戯っ子の表情で、入間が走り去って行く。
佳子が小走りで近づいてきた入間のお尻をパァンと叩く。
「やぁん! 何すんのよぉ」
「テメェ、ライブ終わったら打ち上げは全部お前のオゴリな!」
「じゅじゅ苑の一番高いコースを奢らせてやるですよ! リーダー命令です!」
「いやぁん、プロデューサーとのフレンチキスってば超高額じゃん~」
俺が手塩にかけて育てた「ラインの乙女」たちは、そんな他愛もないやり取りをしながら、夢の舞台へ躍り出て行った。
「全く……誰かに見られたらどうするんだ……」
俺は独り言ちながら、ズレた眼鏡の位置を直した。
アイドルを育て、アイドルと共に自分も育っていく……プロデューサー。それが俺の職業であり、生き甲斐だ。
大学を卒業後、定職に就く事も無く色々な仕事、様々な国や地域を転々とし、ようやく出会った天職。
俺は幸運だと思う。心の底から今の仕事が天職だと思える人が、果たして世の中にどれほどいるだろうか? 短い人生の最中、俺はそんな宝物を見つける事が出来たのだ。
柄にもなくそんな事を考えながら、眩い光の中で夢と希望を振りまく乙女達の姿を、俺は舞台袖から眺めた。
感傷に浸るのはまだ早い。「ラインの乙女」のアイドル道はまだまだ続いていく。次のステップが彼女達を待っているのだ。
俺は両頬をパシンと叩いて気合を入れた。
「よぉし!」
小声で呟いて決意を新たにしたその瞬間だった。
観客席の方から悲鳴が聞こえた。
続けて乾いた破裂音が数発聞こえ、悲鳴はますます大きくなった。
曲の演奏も当然止まる。
俺は袖からステージの上に駆けだしたものの、状況を把握して足を止めた。
血走った眼をした男に未来が捕まっている。
佳子と入間は少し離れたところで腰を抜かしてへたり込んでいる。
男は未来の首に背後から左腕を回して拘束していた。
右手には拳銃の様なものを持ち、左手にも何かを持っているようだ。
「幸一来ちゃだめぇ!!」
未来が声を上げる。
「うるせぇ!! だまれぇ!!」
「うぅ……」
未来の首が絞めつけられ、嗚咽が漏れる。
頭に血が上った自分を必死に押さえる。
何者だ?
過激なストーカーか?
確かにこれまでにもストーカー行為をするファンやSNS上でしつこくラインの乙女を誹謗中傷する輩はいた。
ラインの乙女は元を辿れば地下アイドル発のユニットだ。
アイドルとファンの距離が無さすぎる地下アイドルはそういったトラブルも起きやすい。
ラインの乙女にも問題行動の多い地下アイドル時代からのファンは存在していた。
「ウフフフェフェフェ……未来ィ……お前は俺のモンだ……一生……」
俺は男の左手に目を凝らす。
……スイッチだ。
俺は駆けだした。
同時に声を張り上げた
「二人とも離れろ!! 未来!! 今助ける!!」
あと十歩。
未来が目に一杯の涙を浮かべてこちらに手を伸ばす。
「未来を離せぇぇぇ!!」
あと五歩。
俺も目一杯腕を伸ばす。
「はははははははははははははは!! 未来は!! 俺のモンだぁぁあああああっっっ!!」
あと一歩。
「未来ぃいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
男の左手が動く。
スイッチが押し込まれる。
永遠に届かない一歩。
永久に届かない未来。
すべてが失われると思われたその刹那。
周囲は一面の闇となった。
「いっ……てぇっ……!?」
暗闇になっただけではなかった。
そこにいたはずの未来も男も消えた。
俺は勢い余って床に突っ込むように倒れこんだ。
「未来!? おいっ!? 皆どこだ!! 無事か!?」
慌てて起き上がり、叫ぶ。
しかし誰の返事も返ってこない。
それどころか自分の声の反響すらも聞こえない。
だだっ広い荒野で虚空に向かって叫ぶように、音は行ったきり帰ってこない。
一体どうなっている?
何よりも、ラインの乙女は……未来は無事なのか?
俺は自分に冷静になれと言い聞かせながら、まずは手探りで歩き出した。
足はすぐにでも全力疾走したがっているが、そこかしこにある機材やケーブル類に躓いて転んでいては、助けるどころか俺がケガをしかねない。
……俺がいる場所がまだ武道館ならの話だが。
「おーい! 未来! 佳子! 入間! 大丈夫か!?」
俺はへっぴり腰で両手を前に突き出しながら、暗闇に向かって叫ぶ。
この暗闇の正体が分からない。
例えばこれが停電によるものだとしても、こんなに真っ暗になる事はないはずだ。
普通こういった公共施設には災害時の避難のために誘導灯などが設置されていて、それらは内蔵の蓄電池によって停電してもしばらく光を発する。
しかし俺の視界にはそういった誘導灯に類するものは一切無い。
そもそも人の気配すらもないが。
俺はふと気づいてスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出し、背面のLED照明で周囲を照らしてみた。
……何も見えない。しゃがんで床を照らしてみても何も見えない。本来床があるべき場所にはただの漆黒が広がっている。
俺はどこにいるんだ?
「おーーーい!」
もう一度大声で叫ぶ。
相変わらず反応は無い。
反響も無い。
観客やスタッフのざわめきも聞こえない。
全身に悪寒が走り、どうっと脂汗が噴き出すのを感じる。
一体どうなってる?
俺は日本武道館にいたはずだ。ここはどこだ? 俺はどうなってるんだ?
俺はへっぴり腰をやめ、全速力で走りだした。
背後から猛烈な速さで襲ってくる不安と恐怖から逃げ出すように走り続ける。
五分か? 十分か? 時間感覚もあやふやになりながら走り続け、ついには息が上がって足を止めた。
はぁーっはぁーっはぁー……
膝に手をついて息を整えながらスマートフォンで時間を確認する。
「二分しか経ってねぇ……」
誰かに電話をかけてみようとするが、案の定圏外で、インターネットにも繋がらない。
「どうなってるんだ……」
俺はスマートフォンを内ポケットにしまい、とにかく冷静になるように努めた。が、俺の意思に反して心臓はどんどん早鐘を打ち、恐怖と悪寒が止まらない。
遂にはその場にしゃがみこもうとした瞬間だった。
床が抜けた。
真っ暗闇の空中に放り出されたかと思うと、次の瞬間全身に突風が吹きつけ、遅れて大粒の雨が弾丸のように降り注ぐ。
「はぁ!? 雨!? 風!?」
猛烈な雨風と落下感。視界には稲光を発するどす黒い雲が広がっている。ネクタイやスーツの裾が落下に伴う暴風でばたばたと暴れ回る。
「どぉおおおなってんだぁぁぁあ!?」
やばいやばいやばい!! これは……死ぬ!
どうやら下は海のようだが、雲と同じ高さから落ちれば無事では済まない事くらいは分かる!
あぁ、しかし、絶景だ。事ここに至って、走馬燈も浮かんでこないとは驚きだ。あまりにも唐突な状況変化に脳が完全に置いて行かれてるのか?
それとも、俺はこの状況で、まだ自分が死なないとでも思っているのか?