挿話その1
――かつて、その少女は、人間を名乗らなかった。
名乗れなかった。
一つの死を手に入れるまでは。
本の海にて、少女は、深い眠りから覚める。
無数の本が、閉じられたり開かれたりして部屋に積もり積もっている。
地面なんて、とうの昔に埋没してしまっていた。
「魔王の痣には適正者が必要……」
顔にかぶさった一冊の分厚い辞書を持ち上げながら少女は呟いた。
彼女の名前はヴェル。姓はない、ただの『ヴェル』。
絹のような白髪が、本の海でゆらり浮かんでいる。
薄紅色の唇は、込み上げる笑いを隠しきれていない。
彼女の中で蠢いている八〇パーセントの興味関心は、一つの『推論』に向かっていた。
少女の腕では、円形の魔法陣が赤黒い光を放っている。血液の流動を想起させる色彩。
「行こう、探しに行こう! ――適正者探しへ!」
持ち上げていた辞書を海の彼方へ放り投げた。名もなき本は、海の中へ沈んでいった。
ヴェルだけが海の上で揺蕩っていた。だけど、そんな退屈な実験準備はもうおしまい。
彼女は探求者だった。故に、未知への探求のためならば、地球の裏側にだって行ってみせる。
手を上に掲げる。バチン、指鳴らしをして――彼女の姿は、本の海から焼失した。
ただのヴェルが死ぬための旅が始まった。






