001.5 ある男の断章-1
これは愚かにも、全てを失ってしまった男の断章だ。
その男には、婚約者の女がいた。
彼女は、魔法の黎明期において時代遅れな研究に毎日を費やしていた。
たとえば、生物の解剖をして、各器官、各細胞を分析するような。
たとえば、薬品と薬品を混ぜて、新たな物質を生み出すような。
たとえば、林檎が木から落ちることから引力の発生を導くような。 たとえば、星と星を繋げて、夜空に浮かぶ絵画を鑑賞するような。
彼女の学んでいた学問の名前は総括して”科学”と呼ばれていた。
科学はある時期を境に完全に歴史から姿を消した。姿を消さざるを得なかったのだ。何故なら、その学問は排斥されたからだ――歴史において”なかったモノ扱い”されてしまったからだ。
化学系学者の中ではなかなかの権威だったその女は、晒しあげられ、逆さ吊りにされ観衆の見世物にされた三日後にこの世を去った。 その男は檻の中で女の悲惨な最期を看取った。最後まで鉄格子を砕こうと何度も何度も、何度も何度も叩いて、殴って、蹴り上げ、嚙み砕こうとして――それでも彼はどうすることもできなかった。
魔法の使い方について多くの知識を蓄えていなかったからだ。生身の、それも平凡な一般人の膂力で鉄は砕けない。
婚約者が惨殺された後、死体を背負って故郷へ帰った男はそこで再び悲劇を目撃することとなった。
人が見当たらない。故郷の街を歩いても歩いても、路地にこびりついているのは焦げ茶の血痕だらけ。
単調な赤と茶が織りなすマーブル模様が、故郷の街を占領していた。
街には死体という死体がなかった。ただ、大量の血の痕だけを残して誰も彼も、みんな、消えてしまった。
婚約者の家まで辿り着く。彼女の飼っていた犬は犬小屋の外で四本足の仁王立ちをしていた。
――頭蓋だけが、ぱっくりと切断された状態で。猟奇的な現場に遭遇し急激に吐き気が込み上げ、しかし三日三晩モノを食わず里帰りしたものだから胃液すらはけなかった。代わりに黒々とした胆汁が地面にまき散らされる。
幸い――というと不謹慎かもしれないが、犬の遺骸を見つけて以降、死体と巡り合うことはなかった。だが、相変わらず、血痕と思われる水玉模様はその家の中にも敷き詰められていた。
一晩を死体になった女の家で明かし、翌日に女の遺体を家の庭に埋めた木の廃材を女の眠る地面に突き刺し。静かに祈る。
涙は枯れ果ててしまって、思うがまま、滂沱することはできなかった。きっと、涙ぐむ気力すら残っていなかったのだろう。
空っぽになった男は、再び故郷を後にした。
行く当ては、もちろんどこにもなかったけれど。