第9話 在りし日の思い出
俺は商店街へ辿り着いた。近くの電信柱の影から通りの様子を確認する。
奴等は殆ど居ない。 通りの奥側、駅前方面に2体居るくらいだ。
マンションから此処まで一度も襲われなかったところをみると、奴等は昼間は活動が鈍るか、生きた獲物を追って移動したかだろう。
周りを確認し、俺は夏帆が居るであろう美容室の窓の外から中を確認する。
見つけた・・・。
彼女は、入り口とは反対側の壁際で、入り口に背を向けて立っていた。
猫背のように背中を丸め、フラフラとしている。
「夏帆・・・」
俺は入り口に周り、もう一度周囲を確認し、音を立てないようにドアを塞ぐ看板をどけ、中に入った。
彼女はまだ気付いていない・・・。
レッグポーチから柳刃包丁を抜き、俺は彼女を呼んだ。
「夏帆・・・ ただいま・・・」
彼女はゆっくりと振り向き、手を伸ばしながら近づいて来る。
俺は包丁を構え、逆の手で彼女の腕をはらいのけ、噛まれないように喉の付け根付近を押し、下顎と喉の境目辺りから垂直に包丁を突き刺した・・・。俺の手に、肉を裂く感触が伝わる。
包丁が脳に達し、彼女の身体が、糸の切れた操り人形の様にグラリと崩れる。
俺は彼女の身体を支え、抱き上げた。
俺は彼女にとどめを刺し、抱き上げて椅子に深く座らせた。
ヘアカット用のリクライニング式の椅子だ。
「夏帆、ごめんな・・・痛くなかったかい?」
俺はヘルメットを脱ぎ、彼女に問い掛ける。 彼女は昨日死んだのだ。痛みがあるはずがない。だが、聞かずにはいられなかった・・・。
彼女を座らせた後、開いたままの瞼を閉じてやり、棚にあるタオルをお湯で濡らし、彼女の顔や手にこびり付いた血を綺麗に拭いてやった。
その後、椅子を回転させ背もたれを倒し、彼女の長く美しかった黒髪をシャワーで流した。
彼女の綺麗だった髪の毛にも、大量の血が付着していたからだ。
「まさか、こんな事になってから君の髪を洗うことになるとはね・・・」
俺は自嘲気味に呟き、彼女の髪から血が落ちたのを確認してシャンプーとトリートメントで綺麗にした。
水気を取り、髪を束ねて頭の上でタオルを巻き、固定する。
その後、家から持って来たトートバックの中から綺麗にたたまれた服と化粧品を取り出した。 彼女の服だ。
その服は、彼女が俺の家に泊まりに来た時のために置いてある予備の服だ。
初めて俺の家に泊まりに来た時は我が目を疑った。
メールを受けて駅まで迎えに行くと、大きなトートバックを2つも抱えた夏帆がやって来たのだ。
家出でもしたのかと心配したのだが。
『誠治さんの家に置いておけば、泊まった次の日に着替えられるでしょう?』
さも当然のように彼女に言われ、俺は少し呆れて笑ってしまった。その後、拗ねた彼女をなだめるのに苦労したのも、懐かしい思い出だ。
俺は彼女の汚れた衣服を脱がせ、隠れていた場所の血を綺麗に拭く。
彼女の首からはネックレスが下がっていた。
「やっぱり今日も着けてくれてたんだね、ありがとう」
俺はそれを見て、彼女に微笑み話しかけた。
そのネックレスは、初めてのホワイトデーのプレゼントとして、夏帆と共に選び、買ってあげたものだ。
彼女は、俺が贈ったプレゼントの中でも、そのネックレスが一番気に入っていると言っていた。
服やバックと違って、いつも身につけられるからだそうだ。
『このネックレスはね、私にとっては御守りみたいな物なんだ・・・。 これを着けてると、誠治さんに守ってもらえてる気がするから・・・。 朝と夜には、このネックレスにおはようとおやすみも言ってるよ!』
その時の俺は、彼女の言葉を聞いて、おはようからおやすみまで、暮らしを見つめる某企業が頭に浮かんでいた・・・。
俺は彼女の着替えを終わらせた後、外を確認してからドライヤーとブラシで彼女の湿った髪を乾かした。
「さっきはごめんな、こんな所で着替えさせて・・・」
髪をとかしつつ話しかける。
彼女の髪は、死んでしまった今でも、長く美しいままだ。
手に取ると、指の間をするりと零れ落ちて行く。
「相変わらず綺麗な髪だね、俺が長い方が好きだって言ったから伸ばしてくれてたんだろ? まさか、洗ったり乾かしたりがこんなに大変だとは思わなかったよ・・・」
俺は彼女に話しかけながら、彼女の化粧品の中から、淡いピンクの口紅を手に取り、慎重に塗ってやった。
「見よう見まねでやったけど、上手く出来てるかな?」
俺は鏡越しに彼女の顔を見る。 彼女の白かった肌は、死んでしまった事でさらに白く見えるが、ピンクの口紅が映えてとても綺麗に見えた。
窓から茜色の光が差し込む。 陽が傾いて来ているようだ。
慣れない事に悪戦苦闘し、いつの間にか夕方になっていたようだ。
「これじゃあ今日は動けないな・・・。 夏帆、今日は俺もここに泊まるよ」
今から移動してしまうと、安全な場所に辿り着く前に暗くなってしまう。 暗い夜道では奴等がよく見えない。 囲まれてしまう危険性を考えると、ここで一泊するしかないだろう。
俺はまだ明るい内にカーテンを閉め、カーテンの無い窓はタオルや布で光が漏れないようにし、持って来た蝋燭に火を灯した。
彼女を座らせた椅子を180°回転させ、鏡を背にした状態にする。
俺は彼女の目の前に、後ろ向きに椅子を置き、背もたれに肘をついて座った。
薄暗い部屋に、夏帆と俺の姿が浮かび上がる。
俺はしばらく無言のまま彼女を見つめた。
「そう言えば、初めて会った時、君は俺のことを見てあからさまに怖がってたよね・・・」
俺は何の気なしに出会った時の事を語り始めた。
「俺はそういう風に見られるの慣れてたけど、その後、まさか君から話しかけられるとは思いもしなかったよ・・・。 しかも、付き合う事になるなんてね・・・人生何があるかわからないよね・・・」
それから俺は今まであった事を思い出しなが、1人語った。
誕生日やクリスマスに2人でパーティーをした事、2人で海や山に行った事、旅行先で夫婦と思われて彼女が滅茶苦茶嬉しそうにしていた事、初めて俺の実家に行った時、父が喜びのあまり泥酔して大変だった事、彼女の実家に行った時に、彼女の父親が俺を見て悪い虫がついて来たと思って、俺を追い出そうとして夏帆に怒られてた事。
色々な思い出を彼女に語って聞かせた。
今思えば、2年間で本当に多くの事を2人で体験してきた。
俺の人生の10分の1にも満たない時間だったのに、最も濃く、最も幸せな時間だった。
だが・・・まだまだ2人でやりたかった事が沢山あった・・・2人で行きたい所も沢山あった。
言いたい言葉も、言って欲しかった言葉も、数えればきりがないくらい沢山あった。
でも、それも昨日で終わってしまった・・・。 もう二度と叶う事は無い。 もう彼女は居ないのだ・・・。
「俺が昨日プロポーズしてたら、君はどんな反応をしてくれたかな?喜んでくれたかな? それとも、待たせすぎ! と言って怒ったかな? 俺が初めて告白した時みたいに、興奮して朝まで眠れなくなってたかな?」
俺は、願っても還る事の出来無い過去の話をする。
「もし君がOKしてくれて、結婚式を挙げるとしたら、神前式が良かったかな? それともチャペルウエディングかな? 君は白無垢もウエディングドレスもどっちも似合いそうだよね・・・。 俺は君にどっちが良いか聞かれても、どっちも捨て難いとか言って、呆れられてるかな?」
俺は、もう二度と起こる事の無い未来の話をする。
「大きくなくても良いから、家を建ててさ、君とおはようやいってきます、いってらっしゃい、ただいま、おかえり、おやすみって言ってさ、子供に囲まれて幸せな家庭を築くのが夢だったんだ・・・」
俺は、もう二度と叶う事の無い夢の話をする。
全ては昨日、夏帆が死んだ時に終わってしまった・・・。
気がつくと、俺の目には涙が浮かんで居た・・・。
俺は涙を拭い、鼻をすする。
「しんみりしちゃってゴメンな・・・! あんまり泣いてたら、君に呆れられるよな!」
その後、俺は夜が更けるまで何も語らぬ彼女に話しかけ、気づかぬままに眠りに落ちた・・・。
鳥のさえずりが聞こえる・・・。
カーテンの隙間から陽が射している。
「夏帆、おはよう」
俺は目が覚め、目の前で眠るように座っている夏帆の抜け殻に朝の挨拶をする。
当たり前だが、彼女からの返事は無い。
俺は椅子から立ち上がり、洗面台のシャワーで顔を洗い、時計を確認する。
「今から準備して、昼前には出よう・・・」
俺は自分に言い聞かせるように呟く。
荷造りをした後、座っている夏帆に話しかける。
「夏帆、俺はそろそろ行くよ。 ずっと話しに付き合わせちゃってゴメンな?」
彼女の髪を撫で、首元を見る。
「あのさ、君のネックレス、俺が貰っても良いかな? 君の形見として、御守りとして持っていたいんだ・・・。 その代わりと言ったらなんだけど、これを君にあげるよ・・・」
俺は、ジャケットの胸ポケットから指輪を取り出し、彼女の左手薬指にはめた。
「本当は一昨日渡したかったんだけどね・・・。 君の為に一生懸命悩んで決めたんだ・・・気に入ってくれたら嬉しいな・・・」
そう彼女に話しかけ、彼女を座らせた椅子の背もたれをゆっくりと倒す。
長い髪が垂れ下がらないように、背中と背もたれの間に挟み込み、両手の指を鳩尾の上で組ませた。
「そろそろ行くよ・・・君と過ごした日々は、俺にとって最も幸せな日々だった・・・こんな葬い方しか出来なくて申し訳ないけど、許して欲しい・・・此処にはもう二度と戻って来ないと思う。 薄情だと思うかな・・・?だけど、俺は君の事を一生忘れないし、 俺が君の事を愛する気持ちも変わらない・・・これだけは信じて欲しい」
俺は彼女に語りかけ、白いハンカチを彼女の顔に乗せてキスをした・・・。
「じゃあ、行くよ・・・」
俺は指輪の代わりに貰ったネックレスを着け、服の内側にしまってバックパックを背負い、ヘルメットを被った。
入り口の横の窓から外の安全を確認し、ドアを開ける。
外から風が入り込み、カーテンを揺らす音がする。
『いってらっしゃい!』
夏帆の声が聞こえた気がして振り返ると、彼女の長い髪が一房垂れ、風に揺れていた。
「いってきます!」
俺は彼女にそう答え、ドアを塞いで歩き出した。




