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マフラーを編み終えるまで

 ゴーン…………ゴーン…………


 冷たく澄んだ空気を震わせて、夜のしじまに鐘の音が響く。今年の終わりを告げる、除夜の鐘。


 サキさんは、編み物の手を止めて、時計を見上げる。壁に掛けた時計の針は、十一時を少し回ったところだ。

「あら、もうこんな時間」

 サキさんは、老眼鏡をくいっと持ち上げると、目頭を二、三度押さえて目をしばたたかせた。それから、首筋と肩のあたりを、片方ずつ押さえる。

 今日は、朝から台所の大掃除をした。シンクとコンロをぴかぴかに磨いて、換気扇の汚れもきれいに落とした。サキさんはきれい好きだから、普段からけっこうきれいにしているけれど、いざ大掃除を始めると、細かい汚れが目について、掃除するところは、いくらでも出てくる。

 午後からは、そのぴかぴかの台所で、金平やら煮豆やら、少しだけど、おせち料理も用意した。

 歳のせいか、このごろは、ずいぶん疲れやすくなっている。

「今日は、ちょっとがんばりすぎたかしらね」

 それでもサキさんは、また編み物を手にとる。しわくちゃで、節くれだったサキさんの手が、器用にさくさくと編み目を作っていく。


「サキさん、そんなところで寝たら風邪ひくよ」

呼びかけられて、サキさんは、目を覚ました。

「あ、洋介さん」

サキさんは、少しうとうとしていたようだ。時計に目をやると、さっきからほとんど針は進んでいない。眠りこんではいなかったようだ。

 サキさんの夫の洋介さんは、サキさんに向かい合って、こたつに入った。歳相応に背中が曲がってはいるけれど、背が高くてがっしりした体格の洋介さんには、小さなこたつは窮屈そうだ。

「編み物をしていたんだね。何を編んでいたんだい?」

「浩平のマフラーですよ」

「そうか、いい色だね」

浩平さんは、サキさん洋介さん夫婦の一人息子。サキさんは、にこっと微笑んだ。

「浩平は、赤が好きですからね」

エンジ色に近い、深い赤のマフラーを、サキさんは、いとおしそうにながめる。

「今年中に編み上げようと思って、がんばっていたんですけどね、ついうとうとしてしまって」

「そうか。もう、だいぶできているようだね」

「ええ。もうすぐだから、仕上げてしまいますね」

 サキさんは、つづきを編み始めた。洋介さんは、優しく微笑みながら、そんなサキさんをながめている。


 サキさんは、リズムよく編み目をきざむ。

「ずいぶん冷え込んできましたね」

「ああ、外は雪になっているよ」

「えっ、そうだったんですか。どうりで、寒いわけですね」

「雪が降ると、あの日を思い出すなあ」

「あの日って?」

「ぼくたちが、出会った日だよ。忘れたかい?」

サキさんは、しわが刻まれたほおを、まるで少女のようにぽっと染める。

「忘れるわけありませんよ。冷え込んで、初雪が降った日でしたね」

「そうそう」

「それなのに、私ったら、バスの時間に遅れそうになって、あわててマフラーもせず家を出てしまって」

「サキさん、バス停で、ぶるぶる震えていたね」

「ええ。雪のせいで、バスがなかなか来なくて、すっかり冷え切っていましたからね。洋介さんが、マフラーを貸してくれたおかげで、凍え死なずにすみました」

「ハハ、それは大げさだよ」

「でも、ほんとにうれしかった。なんて優しい人だろうって」

「ハハ、だれにでも優しいってわけじゃないよ。ほんと言うとね、かわいい子は、ほっとけなかったんだよ」

サキさんは、また、ほおを染める。

「あら、それは初めて知りました。でも、私は美人じゃありませんよ」

「サキさんはね、愛嬌があるよ。ぼくの好みにぴったりだった」

サキさんは、照れ隠しに、眼鏡越しに洋介さんを軽くにらんでみせる。

「今さらでも、そう言われるとうれしいですよ」

「ハハ、たしかに、今さらだね。そういえば、マフラーを返しに会社まで来てくれたけど、なんで、ぼくの会社がわかったんだい?」

「バスを降り際に、名刺をもらったじゃありませんか」

「ああ、そうだった、そうだった。五十五年もたつと、そういう細かいことは、忘れるんだよ」

「あら、私は覚えてたのに。それに、もう六十二年ですよ」

「そうだったね、すまん、すまん。だけど、お礼にもらった、手編みの手袋のことは忘れていないよ。マフラーに合わせて、紺色で編んでくれたね」

「ええ」

「あの手袋、まだとってあるよ。押入れの奥に、ぼくの細々したものを入れてある箱があるだろう。あの中に、とってある」

「ええ、知っていますよ。押入れを整理したとき、見つけました」

 サキさんの目から、なぜだか、涙がぽろっとこぼれた。サキさんは、編み物の手を止めて、そっと涙をぬぐう。

「あれから、いくつも手袋を編んでもらったけど、あれは、ぼくたちの出会いの記念だからね」

「毛玉だらけになって、指先は薄くなってて、ずいぶん使い込んでくれたんですね」

「ああ、ああ。とっても気に入っていたからね」


 リズムを刻んでいたサキさんの手が止まって、最後の一段が編み上がった。

「さあ、あとは、端を止めたらできあがりですよ」

サキさんは、編み棒をとじ針に持ち替えて、仕上げにかかる。

「お母さん」

サキさんが顔を上げると、いつの間にか、傍らに浩平さんが立っていた。

「あ、浩平も来てくれたのね」

「はい」

浩平さんは、洋介さんゆずりで背が高い。サキさんと洋介さんがにこにこと浩平さんを見上げていると、浩平さんも体を折って、こたつに入ってきた。

「あ、マフラーですね。深みのあるいい赤だ」

「浩平に似合うと思ってね」

サキさんは、マフラーを浩平さんの首もとにもっていく。

「ほら、やっぱりよく似合う」

満足そうにうなずくサキさん。

「ぼくが赤が似合うのはね、お母さんゆずりですよ。ねえお父さん」

「そうだね、サキさんも赤がよく似合う」

「そのマフラー、お母さんにも、きっとよく似合いますよ」

「そうかしらね」

「はい」

サキさんは、にこにこしながら、とじ針を動かす。

「もうすぐできあがりますよ。浩平、時間は大丈夫?」

サキさんは、時計を見上げる。時計の針は、あと二十分ほどで、今年が終わると告げていた。

「はい、まだ大丈夫ですよ」

サキさんは、安心して、次の目に糸を通す。


「あのチョッキ、ぼくのお気に入りでしたね」

浩平さんが見ているのは、タンスの上の写真立て。サキさんと洋介さんにはさまれて、真ん中に写っているのが、十歳の浩平さん。浩平さんは、赤いチョッキを着て、元気いっぱいの笑顔を見せている。

「ぼくは、お母さんが編んでくれた赤いチョッキが大好きでした。子どものころは、冬になると、毎日のように学校に着て行ってましたね」

サキさんと洋介さんも、写真立てに目をやって、懐かしそうに目を細める。

「そうだったね。浩平はどんどん大きくなるから、毎年のように、ほどいて糸を足して、編み直しをしましたよ」

「そうでした、そうでした。ぼくは、出来上がるのが楽しみで、お母さんが編んでいるのを飽きずに見ていましたっけ」

「ええ、ええ、そうでした」

「いつもチョッキを着ているもんだから、チョッキくんなんて、言われたこともありましたよ」

「まあ、そうだったの。いやな思いをしなかった?」

サキさんは、ちょっと眉をひそめる。

「ぜんぜん。言うほうは、からかったつもりでしょうけど、大好きなチョッキをあだ名のように呼んでくれたんで、ぼくは、むしろうれしかったんですよ」

「そうだったの」

サキさんは、にこっと微笑む。

「それなのに、中学生になると、お母さんの手編みなんて恥ずかしいからと、チョッキを着なくなりました」

「そうだったね」

「あのときは、お母さんを傷つけてしまいましたよね」

「さあ、どうだったかしら。もう忘れてしまいましたよ。それより、大人になって、またチョッキを編んでほしいって言ってくれたとき、うれしかったことは覚えてますよ」

「そうですか」

浩平さんは、サキさんをいとおしそうに見つめる。


 サキさんは、何かを思い出して、ふと手を止めた。そして、三十年前と変わらない、若々しい浩平さんの顔をじっと見つめる。

「事故に遭ったとき、私が編んだチョッキを着ていましたね」

「はい。春先で、まだ肌寒さが残っていましたから」

サキさんの顔が、悲しそうに曇る。

「そんな顔をしないでください。ぼくは、あのとき、お母さんのチョッキを着ていて、本当によかったと思っているんですから」

「え?」

「あのとき、ぼくは夢を見たんですよ。子どものころ、チョッキが出来上がるのをわくわくして待っていたこと、お母さんが出来上がったチョッキを着せてくれたこと、チョッキを着て写真を撮ったこと、遊びまわったこと、いろんなことが、次々に夢の中に現れました。そうしたら、地面に横たわっていたはずなのに、なんだか温かくて。ああ、これは、チョッキのおかげなんだなあ、チョッキを着ているから温かいんだなあって」

サキさんの目から、ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙がこぼれ落ちる。


「お母さん、泣かないで。もうそろそろ時間ですよ」

サキさんは、涙をふいて、時計を見上げる。今年ももう、あと五分ほどだ。

「そうね。もう、ここを通せばできあがり」

サキさんは、最後の針を通す。

「さあ、できた」

サキさんの顔が、笑顔になる。

「お母さん、そのマフラー、お母さんがしてみてください」

「え? これは浩平に編んだのよ」

「ぼくは、あとでもらいます。お母さんがしているところを見たいんですよ」

「そうなの? じゃあ」

サキさんは、出来上がったばかりのマフラーを首に巻いた。サキさんの肌に、深い赤がしっくりとなじむ。

「あー、あったかい」

「やっぱり、お母さんにも、よく似合いますよ」

「そう?」

サキさんは、うれしそう。

「温かくなったら、なんだか眠くなってきた」

サキさんのまぶたが、重くなってくる。


「お母さん、お父さんとぼくは、ここにいますから、ゆっくり眠ってください」

浩平さんが、優しく声をかける。

「ええ。そうさせてもらいますよ」

「サキさん、ぼくと浩平が見守っているからね、なにも心配はいらないよ」

洋介さんも、優しく声をかける。

「少しも心配なんかしていませんよ。私は今、温かくて、とっても幸せな気分ですから」

「そうか、それはよかった」

サキさんは、静かに眼を閉じる。

「ありがとう、洋介さん、浩平。迎えに来てくれて…………」

サキさんは、そうつぶやくと、覚めることのない深い眠りについた。


 ゴーン…………


 最後の除夜の鐘が、静かに響き渡る。


「サキさんを呼び戻すのに間に合ってよかったよ」

「はい。マフラー、出来上がりましたね」

「ああ。これで思い残すこともないだろう」

「それにしても、編み終わったのは、ぎりぎりでしたね」

「ハハ、そうだね。最期までサキさんらしいね。サキさんは、何をするにも時間ぎりぎりだった」

「はい」

洋介さんと浩平さんは、壁の時計に目をやる。

「もう新しい年が明けたようだね」

「はい。もうそろそろ行かないと」

「そうだな」

 洋介さんは、いとおしそうにサキさんのほおにそっとふれる。浩平さんは、そのようすをにっこりと見つめる。そして、ふたりは、すうーっと消えていった。

 こたつにひとり残ったサキさん。幸せそうに微笑みをうかべて眠りについている。赤いマフラーを巻き、胸元には、紺色の手袋と赤いチョッキを抱いて。


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― 新着の感想 ―
[一言] 幸せなおむかえをサキさんが迎えられて良かったです。
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