第九十五章『東京リリー』
「リリーさん、リリーさん、オネガイ オクスリください」
上のセリフは英語と片言の日本語まじりである。
「またですカ。今日はどこがイタいの?」
こちらは日本語と片言の英語である…面倒なので以下は普通に表記する。
「食べ過ぎました。今日の夕食はステーキでした…とてもステキ!」
東京から南南東に約二千キロ、マリアナ諸島のグアムはアメリカ兵捕虜の一大収容所と
なっている。本土や沖縄、台湾、樺太などにも収容所はあるが、戦争終結時には返還すると
対外的に公言しているこの島に置いておくのが良いとされたのだ。
オーストラリアから肉と小麦の輸入ができるようになり、その第一便が届いた今日は
捕虜全員に『ごちそう』を出したというわけだ。
リリーさんこと小池百合子は従軍看護婦である。二十代半ばであるが、白人から見た
東洋人の常で十代の少女のように感じられているようだ。とりわけて美人というわけでは
ないが、黒目がちの目を持つ愛くるしい顔立ちをしており、明るくハキハキとした性格と
多少だが英会話ができることから捕虜達のアイドル的存在となってしまった。
名前から『東京リリー』と異名を奉られた彼女のもとには、何かと理由をつけては通う
若い兵士が後を絶たなかった。謹厳な婦長はいい顔をしなかったが、捕虜達の精神安定には
良かろうという軍医長の判断でなかば公認されることになった。
「一年以上もステーキを食べてませんでした。故郷のカンザスを思い出しました…
早く帰りたいです〜」
ガタイはでかいが百合子よりずっと年下の一等兵が涙ぐむ。
「戦争が…どんな形にせよ戦争が終わって、お国に帰れる日が早く来るといいよね」
「はい〜。でもリリーさんと別れる日が来るのも悲しいです〜」
「平和が戻れば、自由に会いにきたり、いったりすることもできるようになるよ。
カンザスでもロンドンでも…ね」
「ロンドンはアメリカじゃないです〜」
百合子は地理は得意ではなかった…というか少し天然…であった。
日本は捕虜に対し国際法に抵触するようなこと…虐待とか…を避けることはもちろん、
できる限りの厚遇をしていた。けなげなまでの国際法遵守によって世界に文明国の一員として
認知されることになった日露戦争の経験が生きているのだ。
もちろん日本軍自体が史実とは捕虜に対する認識が違っていることも大きい。
彼ら捕虜は国家のために戦い、力およばず捕えられた者達であり、それなりの敬意をもって
遇されるべきであるとされているのだ。また、現時点ではそれをできる『余裕』がこの世界の
日本にあるということなのだ。
同じ米兵とはいっても陸、海、海兵隊は仲がいいわけではないので、それぞれ別のブロックに
分けて収容されている。グアムにはギルバート沖海戦までの捕虜のうち五千の陸軍将兵と
四千の海軍将兵、二千の海兵隊員がいる。ラバウル戦で新たに出た三万近い捕虜はおもに
沖縄と樺太に収容されることになった。
収容所には野球を初めとする運動用のグラウンドなどの娯楽施設、プロテスタントとカトリック
両方の教会も造られている。牧師や神父は米軍に従軍していた者に加え、内地にいた
外国人聖職者で志願した者が来ていた。
医療と食事に関しては、捕虜の中の軍医や看護兵、炊事兵などに協力を要請した。
米軍もこれには割と快く応じた…彼ら協力者にはそれなりの厚遇が与えられたことは
言うまでもない。
また収容所のトイレは水洗式である。ここで得たノウハウが生かされ、日本でも都市部の急速な
水洗トイレの普及につながるのでは…と言われている。
しかし、手を尽くしてるといっても、そこは自由を奪われている捕虜達である、不平や不満は
尽きない。最近の大きな話題はフィリピンのことであった。
「マッカーサーと部下達は本国に逃げ帰ったそうじゃないか」
「あいつら日本軍とはろくに戦いもしなかったんだろ。それが捕虜にもならず
国に帰れて、しかも英雄扱いされたってどういうわけだよ」
「まあ、フィリピンが独立して中立国になっちまったんで出なくちゃならなくなった。
そこで『退去』つうことで、日本軍も手を出さずに見送ることを認めたってことだ」
「日本人はお人好しだなあ…もっとも監視兵に聞いたんだが、日本は土地が狭いから
あんまり捕虜が増えても困るんだそうだ」
「マッカーサーは、自分は日本軍より共産ゲリラによって戦力を奪われたとか言ってるそうだぜ」
「ほう…で、その共産ゲリラってなんだ?」
「なんでも、共産主義とかを唱えてる…山賊みたいなものらしい」
「ロシアって確かそんな主義の国じゃなかったか?」
「だから、どんな主義なんだよ?」
「……………」
いまのところ不平、不満が直接日本に向けられていないようなのは幸いであるが…
日米豪の三か国…ただし、表向き日米の直接の接触は無し…とフィリピン暫定政府の
協議により、退去のための航路安全の確認、非戦闘地域の策定が済んだ43年四月になり
米軍のオーストラリアへの『移動』が開始された。
マッカーサーは最後の船までマニラの司令部に残りつづけた。日本からの特使、重光葵が
おとずれたのは四月八日のことであった。
重光が伝えたのは天皇からの賞賛の言葉だった。
『将軍は敵国の勢力圏内において一年有余にわたり孤軍奮闘、よく武人としての務めを
果たしたことは誉れとするに値する。両国の不幸な状態が終了したならば是非賓客として
我が国をおとずれよ』…というような内容であった。
マッカーサーは尊大な態度を崩さなかったが、最後にやや深く会釈をして
『エンペラーによろしく』…と応えたという。
マニラからの最後の船団が出たとき…港外には確認のための日本艦艇…真っ白に塗装してある…が
数隻待機していた。上甲板には将兵が整列しており、マッカーサーの船を敬礼をもって見送った。
父祖の代から根付いた、一族にとり第二の故郷というべき土地をなかば石もて逐われるこのときに
あたって、日本側がはらったやや臭いともいえる演出を彼がどう感じたかはわからない。
確かなのは、大衆の歓呼の中で本国に帰還したマッカーサーが日本に対する強い非難を
しなかったことだ。おそらく自我の防衛ということもあったのだろう…彼の攻撃はもっぱら
背後から斬りつけた形の共産主義勢力に向けられ、報道関係者のインタビューや各地で開かれた
講演会で市民に伝えられていった。
その共産主義の総本山と、とりあえずは同じ陣営に属して戦争をしている政府にすれば
喜べない事態ではあったが、押さえつけるようなこともできなかった。合衆国の大多数の
市民にとっては、怪物の形をとった『アカ』が初めて姿を現したといってもいい。
マッカーサーには再び戦場に赴く気はなかったようだ。ある講演会で聴衆の質問に答えて
いわく…老兵は死なず、ただ消えゆくのみ…
もっとも、講演依頼はひきもきらず、当分の間は『消えゆく』ことなんかなさそうだ。
やや波静かな太平洋…その裏では次の大々的な殺し会いのための準備が着々と進んでいる。
1943年五月…待望の新鋭艦が二隻、日本海軍に加わった…
改翔鶴型空母の『葛城』と『蔵王』である。
つづく