第九十四章『緑の風もさわやかに…』
1943年の春以降、太平洋には不思議というか必然というか、静かな時が流れることに
なった。日米の戦闘はハワイ西南のジョンストン島を中継基地として、日本近海および
マリアナ、カロリン諸島方面に出没する潜水艦との戦いに限られたからだ。
この春、中華民国の蒋介石総統はまずまずご機嫌であった。宿敵の共産軍との戦いが有利に
運んでいたからだ。ソ連からの軍事援助が途絶えた共産軍が自ら戦線を縮小している面も
強かったが、米英の圧力も無くなっているいま、日本と協力しながら国土統一を果たせるかも
しれないと感じ始めていた。
共産軍の後退につれて各地の軍閥が頭をもたげる状況も見られるが、小物であり『利』を与える
ことで懐柔も可能だ。狂信的な共産軍と比べればずっと扱いやすい。
日本からは折にふれ使節がやって来ては、そこそこの援助と甘い言葉を置いていく。
彼らが言うのは、歴史上で日本にとり幸せな時代なのは常に中国が安定していた時期で
あったということだ。
その例として、日本がようやく中央集権の国家体制を整えつつあった奈良時代を語る。
中国では『大唐帝国』が、中央アジアをはじめ、はるかローマ帝国とも交流をもつ
世界帝国として君臨していた。
その頃の日本にとり最大の栄誉は、唐帝国の祝賀の席で外国の中で一等の位置を占める
ことであった。中国は名実とも東アジアの盟主であったのだ。
日本は言う…『中国にはアジアを代表して欧米列強の矢面に立つ責任がある。現在日本が
負っているその重しを早く取り除いて欲しい』
もちろん、その言葉を額面通り受けとる蒋介石ではないが、日本の主張は大中華帝国に
とっては当然果たさねばならない未来図であることも自覚していた。
中国の領土である満州は一種の『特区』となっている。日本を始め、共産革命を逃れてきた
白系ロシア人や、ユダヤ系の資本も入り交じり、産業の発展はめざましいものがある。
その満州で最近大流行しているのが『輪タク』であった。日本の会社が工場を移転して
自転車の製造を行う中で、これまでの『リキシャ』(人力車)に替わる乗り物として
考案したとされる。前に運転手、後部に二輪の幌付き座席を付けた輪タクは、スピードと
スマートさで大ヒット、またたく間に都市部を中心に満州全土に広まっていった。
工場は増産に次ぐ増産で、一部は日本本土に逆輸入され中国にも流れ込んだ。日本では細部に
工夫をこらした改良品が普及することになるが、中国では問題が発生した。
以前から日本製自転車は若干の無償供与分を含めかなりの数が流れ込んでいた。
それらの『日中友好号』の前輪の泥よけカバーの上には、日章旗と中華民国の青天白日旗が
ぶっちがいになったマスコットが輝いていた。誰の発案か、中国国旗の方が大きく見える
デザイン上の処理がされていて中国国民の心をくすぐった。
資産家階級…蒋介石の妻の実家の宋一族のような富豪…は欧米から輸入された自動車を
使っているが、中産階級では運転手付きで輪タクを乗り回すのが大流行となっている。
「国内で作られたと思われる、日本製自転車の粗悪な模造品が出回っています」
こんな報告を耳にした蒋介石はため息をついた。
いずれはアジアはもとより、世界に冠たる大国になるはずの中国だがその道は遠い。
少なくとも五年や十年といった期間で実現できるようなものではないだろう。
まあいい、中華四千年の歴史の中では微々たる時の流れにすぎないのだから…
日本製自転車は東南アジアでも猛烈な勢いで広まっていった。
インドネシアでは現地の組み立て工場がいくつか稼働しており、雇用の創出にも役立っていた。
三輪の派生車も作られたが、こちらではペダルをこぐ運転手が後ろで、座席や荷台が前に付く
タイプとなっていた。大多数の庶民にとっては高嶺の花であったが、ピカピカの自転車は
ステータス・シンボルとなり、まだ見ぬ日本へのあこがれを膨らまさせることになった。
また、わずかではあるが日本製の自動車もアジア各地にお目見えしていた。
史実では『日本製自動車の輸出』について有名な話がある。戦後の昭和三十年頃…
アメリカに…なんでまた?…輸出されたトヨペット(クラウン)が船と岸壁の間の
渡り板の傾斜がきつくて登れなかった…という逸話である。
二十数年後には世界に冠たる自動車大国となる日本の車も、モータリゼーション黎明期には
そんなものであった。三十年代後半になっても東海道の難所、箱根の旧道では国産車は
軒並みオーバーヒートを起こして立ち往生したものだ。新道(箱根ターンパイク)ができてからも
登りきれずに同乗者が降りて押すといった光景も見られた…これは昭和三十八年型の軽自動車
マツダキャロル360に乗っていた椿の知人の体験談である。
さて、史実より少しましなこの世界の日本もモータリゼーションが欧米より遅れてることは
確かだ。椿の見るところ、乗用車のレベルは史実の二十年代なかばといったところである。
だが、トラックは土木大国の国情を反映して、トランスミッションなどの駆動系やサスペンション
など足回りもかなり高い信頼性を持っているようだ。
生産が軍事および産業に欠かせないトラックを中心にしてることもあり、乗用車は
きわめて少数に制限されたが、それでも最低限の需要分は生産されていた。
日本が進駐している各国の要人向けに輸出もされた。進駐軍の幹部用には信頼性の高い
欧米車…大部分はフォード…が、現地で捕獲されたものも含めて使われることが多かったが…
現地の民間人で最初に日本車を購入したのは、プロジェクトPにより進駐軍兵士の
『下半身の面倒』を見てる大手の業者であった。
つづく
仕事の段取りの関係で少しまとまった時間が取れました。キーを叩いていると心が安らぎますね。これから一杯飲んで寝て…夜中におきます。